読書には香りも必要です
終業のチャイムが校舎中へ鳴り響く。
その余韻が消え切るよりも早く、一人の少女が勢いよく立ち上がった。
「レイ!」
ハルカは机の上の教科書を手際よく鞄へ押し込み、満面の笑みでレイの席へ駆け寄る。
レイは頬杖をついたまま顔を上げ、少しだけ呆れたように笑った。
「今日は授業、寝なかったんだ。」
「もちろん!」
ハルカは胸を張る。
「だって、わくわくが止まらなかったんだもん!」
ぎゅっと拳を握りしめるその姿は、遠足前日の子どものようだった。
「書庫に何があるんだろう、とか考えてたらさ、眠気なんて吹っ飛んじゃって!」
「珍しいね」
「ひどい!」
ハルカは頬を膨らませる。
「じゃあ、行こっか」
「うん!」
二人は鞄を肩へ掛け、教室をあとにする。
ホームルームを終えた校舎には、まだ部活動へ向かう生徒たちの賑やかな声が残っていた。教室では日直が黒板を消し、窓際では友人同士が他愛もない話で笑っている。そんな放課後を背に、二人は校門を抜けた。
商店街へ入る。昨日、一昨日と歩いた道は、もう少しだけ見慣れた景色になっていた。
パン屋から漂う焼きたての香り、八百屋の威勢のいい呼び込み、軒先へ並ぶ季節の花。寄り道したくなるものはいくらでもある。けれど今日だけは、二人の足は迷うことなく教会へ向かっていた。
「昨日より早く着きそう」
「うん。道、覚えちゃったね」
「そのうち目つぶっても行けるかも」
「それは危ない」
そんな会話を交わしているうちに、白い壁と青い屋根が見えてきた。
――聖アンジュ教会。
静かに佇むその姿は、昨日と何一つ変わらない。それなのに、不思議とどこか懐かしく感じる。門へ手を伸ばした、そのときだった。
「あら、来てくださったのですね」
柔らかな声が教会の脇から聞こえてくる。二人が振り向くと、石造りの壁の向こうからシエラがひょっこりと顔を覗かせていた。
今日は礼拝用のヴェールを外しているらしい。夕日に照らされた橙色の髪が風を受け、さらりと肩の上で揺れた。
「シエラさん、こんにちは」
「こんにちは」
シエラは目を細める。
「ふふ、本当に来てくださったのですね」
その笑顔は、まるで約束を守ってくれた子どもを迎えるような、穏やかな喜びに満ちていた。
「昨日のことは、お二人の気まぐれだったのではないか、と気になっていたんです」
「そんなことないですよ!」
ハルカが慌てて首を振る。
「私たち、書庫を見るの楽しみにしてたんです!」
「ええ」
レイも頷く。
「今日はそれだけを楽しみに学校に行ってました」
「それは嬉しいですね」
シエラは腕へ提げていた小さなバスケットへ目を落とす。中には摘みたてらしいハーブが色鮮やかに並んでいた。
瑞々しい緑、淡い紫、白く小さな花、爽やかな香りが風に乗ってふわりと漂う。
ハルカの視線に気付いたシエラは、そっとバスケットを少し持ち上げた。
「教会の庭で育てているものです」
「わあ……」
ハルカは思わず身を乗り出す。
「昨日のお茶も、これですか?」
「ええ」
シエラは嬉しそうに頷いた。
「今日は昨日より少しだけ華やかな香りのものにいたしましょう」
「え?」
「だって、今日は書庫をご覧になるのでしょう?」
いたずらっぽく微笑む。
「読書には、香りも大切ですから」
そう言うと、シエラは二人の前へ歩き、重い扉へそっと手を添えた。
ぎい、と木の軋む音。教会の中からひんやりとした空気が流れ出す。
「さあ、どうぞ」
二人は慌ててその後を追う。中へ入ると、シエラは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げ、「でも残念です」と呟く。
「え?」
「エリオは今ちょうど買い物へ出てしまっていて」
「買い物ですか?」
「ええ」
シエラは当たり前のように頷く。
「私たちはほとんどここで暮らしておりますから」
少し考えるように首を傾げる。
「……今日は五の付く日でしょう?」
二人は首をかしげながら、「五の付く日?」と繰り返す。
「商店街で、夕方五時から半額セールをしているのですよ」
「半額セール……」
あまりにも生活感のある単語に、ハルカは思わずぽかんと口を開けた。レイも苦笑する。
聖職者の礼服を身にまとったエリオが、買い物かごを片手に主婦たちへ紛れ込み、値引きシールを真剣な眼差しで見極めている――そんな光景が脳裏に浮かぶ。
絶対に似合わない。そう思った瞬間、その姿が妙に鮮明に想像できてしまい、思わず吹き出しそうになった。
「お二人がいらっしゃる間に戻ってくると良いのですが」
シエラが少しだけ残念そうに呟く。レイは首を横へ振った。
「いえ、多分……」
少し笑って続ける。
「私たちに会いたいとは思ってない気がします」
「そうそう!」
ハルカも大きく頷く。
「シエラさん以外、視界に入ってないっていうか」
「エリオが聞いたら怒りますよ」
シエラは口元へ手を添え、くすくすと笑った。
「…おや、随分と楽しそうですね」
柔らかな口調とは裏腹に、冷ややかな言葉が落ちてきた。レイとハルカが肩をびくりと動かして、固まる。
ぎこちなく首だけをまわして振り返ると、両手に花柄のエコバッグを提げたエリオが不機嫌そうに立っていた。
あ、この袋はシエラさんのだろうな、なんて思っているのもつかの間、エリオは言葉を続ける。
「私の不在の間にシエラ様と楽しそうに笑い合うなど…言語道断!」
「……え?そっち?」
ハルカの目が点になる。
「私も混ざりたかった…!!」
袋を握りしめたまま、わなわなと震えるエリオをなだめるように、シエラは彼に近づくと小さな手をブロンドの髪にのせ整えるように撫でる。
「あらあら、子どもみたいに大きな声を出して。ほらエリオも一緒に書庫に下りましょう」
「シエラ様…」
ぱあっと表情が和らぎ、目尻が下がる。
「…ですがエリオ。お客様にそんな口をきいてはいけませんよ」
シエラは、頭に乗せていた手を離すと人差し指をたて、めっという姿勢をする。そして、少しだけ楽しそうに続ける。
「う、はい……」
少しだけ肩を落とし、素直に答えるエリオの姿に、三人は顔を見合わせ、穏やかな笑い声を響かせた。教会の静けさは変わらない。けれど昨日より少しだけ、この場所が温かく感じられた。




