祈りましょう
レイとハルカは門の前で足を止め、もう一度そろって会釈をした。
シエラは胸の前で小さく手を振る。
「お気をつけて。またいつでもいらしてくださいね」
「はい!」
ハルカは大きく手を振り返し、レイも穏やかに頭を下げる。
二人は並んで商店街へ歩き出した。楽しげな笑い声は夜風に乗って少しずつ遠ざかり、やがて街のざわめきへ静かに溶けていく。
シエラはその背中が見えなくなるまで、教会の扉の前に立ち続けていた。
姿が完全に見えなくなったことを確かめると、重厚な木の扉へゆっくりと手を添える。
ぎい、と年季の入った蝶番が低く鳴り、静かに扉が閉まった。
外の喧騒が遮られる。
教会には再び、穏やかな静寂だけが満ちていた。
シエラは小さく息をつき、ゆっくりと祭壇へ向き直る。
ちょうどその頃、奥の部屋で食器を片付け終えたエリオが、礼服の襟元を整えながら姿を現した。
「あら、エリオ。ずいぶん早かったですね」
「もちろんです」
エリオはすぐに歩み寄ると、胸へ手を添えて一礼する。
「シエラ様、お見送りをされたのですか?」
「ええ」
シエラは閉じられた扉へ目を向け、柔らかな表情を浮かべた。
「お帰りになりましたよ」
「なんと……羨まし――」
思わず漏れかけた本音を、こほん、と小さな咳払いで飲み込む。
「……ではなく」
何事もなかったように眼鏡を押し上げる。
「寛大なお心遣いですね」
そのあまりに分かりやすい言い直しに、シエラは思わず口元へ手を添えた。
「ふふ」
控えめな笑い声が教会へ溶けていく。
「可愛らしいお客様でしたね」
「……ええ」
エリオも頷く。
だが、その表情にはどこか割り切れない色が残っていた。
「ですが、本当によろしかったのですか」
「何がです?」
「書庫をお使いになるというお話です」
夜風がどこからともなく吹き抜け、ステンドグラスの色彩を静かに揺らした。
夕陽の名残は消え、一枚一枚の硝子には夜の青だけが映り始めている。
「もちろんです」
シエラは迷うことなく答えた。
「何度もお話ししましたよね」
祭壇へ視線を向ける。
「精霊の家は、いつでも、誰にでも開かれているものです」
「……それは、もちろん、その通りなのですが」
エリオは言葉を濁す。何かが引っ掛かっている。
それを口にしたい。けれど、口にしてはいけない気もする。
そんな葛藤だけが、その短い沈黙に滲んでいた。
「それに――」
シエラが静かに続ける。
エリオは思わず顔を上げた。
「え?」
しかし、シエラはふっと微笑むだけだった。
「……いいえ」
ヴェールの裾をそっと整え、小さく首を振る。
「少し遅くなってしまいましたね」
天窓からは、いつの間にか一番星が静かに覗いていた。
「夕拝を終えたら、夕餉にいたしましょう」
「はい」
エリオはすぐに頷く。
するとシエラは、どこか期待するような瞳で首を傾げた。
「今日こそ、私が作ってみたいのですが」
一瞬、エリオの表情がぴたりと固まる。
「……」
数秒の沈黙。
次の瞬間。
「そ、それだけは譲れません!」
思わず一歩踏み出していた。
「料理だけは、どうか私にお任せください!」
必死な声が静かな教会へ響く。
シエラはきょとんと目を丸くした。そして、すぐにくすりと笑う。
「まあ」
優しい笑みを浮かべたまま、小さく首を傾げた。
「頑固なエリオ」
その一言に、エリオは困ったように笑い返すことしかできなかった。教会には二人の穏やかな笑い声だけが、静かに響いていた。
やがてシエラは祭壇への階段をゆっくりと上がっていく。その歩みに合わせるように、エリオも少し後ろを歩く。祭壇へ着くと、シエラは静かに経典を開いた。薄い紙が一枚、静かな音を立ててめくられる。
エリオは最前列の長椅子へ腰を下ろし、姿勢を正した。
教会は再び、祈りのためだけの静寂に包まれる。
「では、祈りましょう」
シエラの澄んだ声が静かに響く。
エリオは胸へ手を添え、ゆっくりと目を閉じた。
夜の教会には、蝋燭の小さな炎だけが、静かに揺れていた。




