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カレーの試合(8)

不定期掲載。16時ころ更新します。

「――詰んだ」

 よく庶民の方がそうおっしゃるのは、こういう状況のことなのですわね……!

 わたくしが頭を抱えていると、やおら傍らにしゃがんでいたヤヤがすっくと立ち上がった。

「仕方ない……」

 そうつぶやいてスタジアムの方に目を向けると、その身を包んでいた鳶色のマントをおもむろに大きく開いた。

 その内側にはカラフルな縫い取り……? いえ、多くのポケットやホルダーが縫い付けられており、その全てに様々な色の小瓶がぎっしりと詰め込まれています。

「あなた、それは……?」

 そう問うわたしにほんの一瞬目を向けると、無言のままヤヤはスタジアムの方へ駆けていった。

 観客席とグランドを隔てるフェンスを軽々と跳び越え、むき出しの地肌から上がる土埃を後に従えながら、まっすぐにキッチンを目指す。

 そうして彼女は店主の前で立ち止まると、静かにマントをとじ小さく口を開いた。

「今……」

 満座の観衆はなにが起こるのかと固唾を呑んで見守っている。そして店主は目の前の少女の表情を静かに見詰める。

「わたしが……」

 そう言ったきり、口をつぐむヤヤ。それに答えるように強い視線を送り返すキッチンの店主。

 永遠のような沈黙を破り、重い口を開いたのは店主の方だった。

「では、これは俺が」

 そういって彼がカート上の肉塊に目を向けると、ヤヤもかすかにうなずいた。

 なんの禅問答でしょうか。眉にしわを寄せて成り行きを見守っていますと、店主は黙ってカートの肉をキッチンに運び込み、おもむろにその身に包丁を入れはじめました。

 その鮮やかな刃裁きはわたしを含めた観衆を魅了し、切り分けられた塊はみるみるうちに一口大の手頃な食材へと姿を変えていきます。

 そうして切り分けたお肉を慣れた手つきでフランベし、圧力釜に閉じ込めるとじっと目を瞑り動きを止めた。

 大観衆が声もなく見守る中、数分の後釜から静かに蒸気を逃がすとゆっくりとふたを開け、店主は茹で上がったお肉を調理台のバットの上に上げていく。

 ほんのりと湯気を上げて並べられたそれらは、届くはずのない馥郁たる薫りを全ての人の脳裏に思わせ、さながら宝石箱のルビーのように輝いて見えましたの。

 ここまでを済ますと、店主はヤヤに顔を向けて口を開きました。

「たのむ」

 ヤヤはかすかにうなずくと、キッチンに上がりすでに一度完成した店主のカレーの大鍋と、たった今茹で上がったお肉を代わる代わるに見比べました。

 そして大きくマントを広げると、中に仕込んだ小瓶を次々に取り出し、お肉や鍋にその中身を振りかけていきます!

「あれは……!?」

「スパイスだよ」

 マイクを通じてのわたしの問いに、もう片方のキッチンに佇む女――レイコが答えた。

「そう、あの人は自分のスパイスを失った。これじゃあ、いくらいい肉が来たって、それをそのままさっきのルーに放り込むだけじゃ、マトモなカレーはできやしない」

 彼女が語る間にもヤヤは動きを止めず、素早く小瓶を入れ替えては調味に余念がありません。その様は……もはやキッチンに巻き起こった一陣の旋風のよう!

「……バランスさ。全ての決め手はバランスなんだ。肉を入れるなら入れるなりの、塩梅ってもんが必要なんだ。カレーに携わる者にとって、スパイスを失うのは手足をもがれたも同然だ。まして他人に、それも手持ちのスパイスなんかで同じものが再現できるはずもない」

 小瓶を使うヤヤの傍らで、店主があごに手を当ててその動きをじっと見詰めている。

「だが、あの娘は……一度食べたカレーならその味を完全に覚えてしまい、たとえ作った本人が再現できなくとも、身につけた数十種のスパイスで本物と同じ、いやときには本物以上にこしらえてしまうことができるんだ。この世界で彼女の舌はガネーシャの舌と呼ばれている。そう、つまり神の舌、というわけ。だから人々から彼女はこう呼ばれる……」

「カレーの娘……ですわね」

『カレーの娘』『火星の娘』 シリーズ化しました。

地球でカレーをご賞味の後は、ぜひ火星の旅もお楽しみください。


↓火星行き

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