第3話 私より相応しい人
季節が一つ、また一つと過ぎていった。
リーナは少しずつ、公爵家での暮らしに慣れていった。
けれど、勉強だけはなかなかうまくいかなかった。
「ここは、こういう意味です」
「はい……」
「では、もう一度読んでみましょう」
「えっと……」
何度教えられても、すぐには覚えられない。
「すみません……」
「大丈夫ですよ。少しずつ覚えていけばいいのです」
教師はそう言ってくれる。
けれど、その優しさがかえって辛かった。
自分だけが、皆の足を引っ張っているように思えてしまう。
そんなある日のことだった。
リーナは廊下の先にアレクシスの姿を見つけた。
「アレクシス様……」
その隣には、美しい女性がいた。
公爵令嬢、エレノア。
以前、名前だけは聞いたことがある。
二人は昔からの知り合いらしい。
「それは昔から変わらないな」
「アレクシス様だって同じでしょう?」
二人は楽しそうに話していた。
そして、顔を見合わせて笑った。
リーナは、少し離れた場所からその姿を見つめていた。
自分の知らない話。
自分の知らない思い出。
二人だけが知っている時間。
胸の奥が、ズキリと痛んだ。
そのとき、エレノアがこちらに気づいた。
「あら……」
目が合う。
リーナは慌てて頭を下げた。
「こんにちは……」
「こんにちは、リーナさん」
エレノアは優しく微笑んだ。
嫌な顔など、一つもしていない。
だからこそ、リーナは余計に辛かった。
――この人のほうが相応しい。
公爵令嬢。
美しくて、教養があって、アレクシス様と昔から親しい。
自分とは何もかも違う。
◇◇◇
その夜。
リーナはベッドの上で一人、膝を抱えていた。
「帰りたい……」
故郷に帰りたい。
母に会いたい。
エドに会いたい。
そして、昔のように川辺で話したい。
「エド……」
目を閉じる。
幼い頃の記憶が浮かんだ。
一緒に遊んだこと。
一緒に笑ったこと。
いつか結婚しようと約束したこと。
エドなら、きっと待っていてくれる。
そう思った。
だから――。
◇◇◇
翌朝。
リーナは誰にも告げず、公爵家を出た。
質素な服に着替え、少しのお金だけを持って。
馬車には乗らなかった。
自分の足で歩いた。
何度も振り返った。
けれど、戻らなかった。
やがて、見慣れた町並みが見えてきた。
懐かしい家。
懐かしい匂い。
「お母さん……!」
家の扉を開ける。
「リーナ……?」
母は驚いた顔をした。
「どうしたの? 公爵家は?」
「……帰ってきたの」
母は何も聞かず、リーナを抱きしめた。
久しぶりの母の腕。
それだけで涙が止まらなくなった。
けれど――。
翌日。
町で聞いた言葉に、リーナは凍りついた。
「エド? ああ、エドなら婚約したよ」
「……え?」
「隣町の商家の娘だって。もうすぐ正式に婚約するらしいよ」
世界が止まったような気がした。
帰ってくれば、エドが待っていてくれる。
そう信じていた。
その未来だけを支えに、公爵家を出た。
なのに。
その未来は、もうなかった。
家に戻ったリーナは、自分の部屋に閉じこもった。
「……私には、何もない」
番だと言われても。
公爵家にいても。
平民の家に戻っても。
大好きだった幼馴染みも、もう自分の隣にはいない。
「私……これから、どうすればいいの……?」
十二歳の少女には、あまりにも大きな絶望だった。




