命の足跡
生と死。
高校二年生になったばかりの私にとって、それはまだどこか遠い世界の話のように思える。
だけど、あの時の院長先生の表情を思い出すたびに、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
白川院長もまた、今でも晴奈さんのことを忘れられずにいるのかもしれない。
死は、本当に避けられないものなのだろうか。
「森野さん!」
「飛行術の授業中は集中しなさーい!」
地上から、柚乃先生が腰に手を当て、大きな声で叫んでいる。
ハッと我に返ると、私はいつの間にかみんなから大きく遅れてしまっていた。
「はーい! わかってまーす!」
慌ててほうきの柄を握り直し、みんなの後を追いかける。
すると列の中から、一人の少年が少しずつ速度を落とし、私の隣へ並んできた。
「お疲れ、七奈」
悠斗がこちらを振り向き、爽やかに笑う。
「お疲れ、悠斗」
私はうつむいていた顔を上げ、なんとか笑顔を作った。
「どうした?」
「元気ないじゃん」
「ううん……ちょっと、朝の院長先生の話を思い出してただけ」
すると――
「風祭! 森野!」
「飛行中の私語は禁止!」
柚乃先生が杖を振ると、空中に拡声器のようなマジックアイテムが現れた。
「すみませーん!」
悠斗は苦笑しながら頭を下げる。
「じゃあ、続きは放課後な」
そう言うと、彼はほうきを握り直し、軽やかに前へ飛んでいった。
青空の下。
少年少女たちを乗せたほうきが、学院を囲む黄金樹のまわりを大きく円を描いて飛んでいく。
見下ろせば、大樹は太い幹を大地へ深く張り巡らせ、その枝葉は空へ向かってどこまでも伸びていた。
初めてこの学院へ来た日。
あの蔦に導かれて、この樹を見上げたことを思い出す。
あの頃の私は。
まさか自分が空を飛ぶようになるなんて、想像もしていなかった。
一本、また一本とほうきがゆっくりと舞い降り、学院のプラットフォームへ着地していく。
「はーい、みんな」
「飛行術、だいぶ上達してきたわね」
柚乃先生は一人ひとりを見渡しながら頷いた。
「悠斗。飛行中によそ見しないこと」
「前よりはマシだけど、まだ軌道が落書きみたいよ?」
「はーい……」
「遠坂さんは、着地の時にもっと減速ね」
木々の葉擦れに混じって、先生の明るい声が学院中へ響いていた。
「それじゃあ、今日の授業はここまで!」
「やったぁー!」
生徒たちは一斉に駆け出していく。
私はほうきを抱え、飛行室へ向かって歩き始めた。
「森野さん」
後ろから足音が近づいてくる。
振り返ると、柚乃先生が両手を後ろで組みながら隣へ並んできた。
「今日はどうしたの?」
「なんでもないですよ」
「ちょっと考え事をしてただけです」
「うーん」
先生は私の顔を覗き込む。
「でも、その顔には『なんでもない』って書いてないけど?」
思わず苦笑してしまう。
「先生って、いつも元気ですよね」
「これでもまだ若いからね!」
そう言うと先生はぷくっと頬を膨らませ、私の頭をぽんっと軽く叩いた。
「それより森野さん」
「街へショッピングに連れて行ってくれる約束、忘れてないでしょうね?」
「えっ、先生……覚えてたんですか」
「そんな大事なこと忘れるわけないじゃない」
先生は私の前へ回り込み、いたずらっぽく笑う。
「ほら。」
「少しは元気になった?」
私は自然と笑っていた。
「……ありがとうございます、先生」
「あんまり考え込みすぎちゃダメ。」
「一日一日を、ちゃんと楽しむこと。」
先生は私の肩を優しく叩く。
「二つの世界を行ったり来たりしてるんだから、ちゃんと休まないとね」
「はい」
「わかりました」
いつの間にか飛行室へ到着していた。
私はほうきをラックへ戻し、先生へ向かって手を振る。
「じゃあね、森野さん」
「また明日」
「はい!」
「また明日です!」
「遅刻はナシよ?」
「うっ……」
先生は最後まで笑顔だった。
どうしてあんな優しい笑顔で、一番怖いことを言えるんだろう。
飛行室の木製の扉を閉め、学院の門をくぐる。
その少し先。
一本の太い蔦の陰に、一人の少年が隠れていた。
足音を忍ばせながら近づいてきた少年は、私の右肩をぽんっと叩くと、そのまま素早く左側へ回り込む。
「え?」
右を振り向いても誰もいない。
次の瞬間。
今度は左肩を軽くつつかれた。
「もう。」
「その手には乗らないよ」
私は勢いよく振り返り、その手首をがしっと掴んだ。
「痛たたっ!」
「ずるいぞ、待ち伏せ破り!」
「やっぱり悠斗だった!」
少年は笑いながら手を振りほどき、そのまま駆け出していく。
「もう、待ちなさいってば!」
私も思わず笑って追いかけた。
今日はほうきがない。
だから蔦の道を駆け抜けながら、必死にその背中を追う。
気づけば私たちは学院を抜け、黄金樹の広場まで走ってきていた。
「お嬢ちゃん、元気だねぇ」
「悠斗、女の子をいじめちゃダメだぞ」
広場の人たちが笑いながら声を掛けてくる。
果汁屋のおじさんも屋台を片付けながら笑っていた。
「若いっていいねぇ」
ようやく悠斗が立ち止まる。
「はぁ……」
「お前、なんでそんなに足速いんだよ……」
黄金樹に手をつき、肩で息をしている。
私も息を切らしながら笑う。
「誰が私を運動オンチって言ったのよ」
「降参!」
「俺の負け!」
夕陽が黄金樹を黄金色に照らしていた。
木漏れ日が葉の隙間から幾筋も差し込み、広場を柔らかく染めている。
私と悠斗は樹の根元へ腰を下ろし、人々が家路へ向かう姿をぼんやり眺めていた。
葉擦れの音だけが静かに響く。
しばらくして。
「七奈。」
悠斗がぽつりと口を開いた。
「少しは元気出たか?」
私は笑って肩をすくめる。
「だーかーら、なんでもないってば」
少しだけ沈黙が流れる。
私は帰っていく人たちを眺めながら、小さく尋ねた。
「ねぇ、悠斗。」
「悠斗は、この街のこと好き?」
「もちろん。」
答えは迷いなく返ってきた。
「だから俺、魔法を勉強してるんだ。」
悠斗は空を見上げる。
夕焼けに染まる空の向こうには、学院の大樹が静かにそびえていた。
「俺さ。」
「立派な魔法使いになって、この街のみんなを守りたいんだ。」
私はその横顔を見つめる。
さっきまで笑っていた少年の瞳は、今は真っ直ぐ未来だけを見つめていた。
「……もし。」
私は小さく呟く。
「誰も守れなかったら?」
悠斗は少しだけ黙った。
風が吹き抜ける。
黄金樹の葉が、さらさらと揺れた。
そして彼は、静かに笑う。
「その時は。」
「きっと悔しい。」
「すごく傷つくと思う。」
私は思わず彼を見る。
悠斗は笑ったまま続けた。
「だから。」
「その日が来ないように、今できることを全部やるんだ。」
「後悔だけは、したくないから。」
そう言って立ち上がる。
夕陽を背に立つその姿は、いつもより少しだけ大人に見えた。
私は黄金樹の根元に座ったまま、その背中を静かに見上げる。
院長先生の言葉。
柚乃先生の笑顔。
そして、悠斗の覚悟。
少しずつ。
少しずつだけれど。
私の中で何かが変わり始めている気がした。
「……うん。」
私は小さく微笑む。
「頑張ってね、悠斗。」
「ただいまー」
「おかえりなさい」
リビングから、掃除機のブォォォという音とともに、お母さんの声が聞こえてきた。
靴を脱ぎ、私はそのままリビングへ足を踏み入れる。
「あれ? お兄ちゃんは?」
いつもならソファに座ってテレビを見ているはずの姿が、今日は見当たらない。
広々としたソファだけが、ぽつんと空いていた。
「悠真とお父さんなら、スーパーへ買い物に行ってるわよ。」
「そっか。お母さんは一緒に行かなかったんだ」
掃除機をかけるお母さんの背中へ近づき、私はそっと手を差し出した。
「お母さん、それ貸して」
「ありがとう」
お母さんは微笑みながら掃除機を私へ手渡し、自分はダイニングテーブルへ向かってコップの水を一口飲んだ。
私は掃除機を動かしながら、リビングをゆっくりと掃除していく。
「七奈も、すっかりお姉さんになったわね」
「えへへ」
少し照れくさくなって、私はまた掃除機を動かし始めた。
窓から吹き込む夕方の風が、カーテンをふわりと揺らしていた。
◇
夜。
家族みんなで食卓を囲む。
今日の夕飯は、とんかつだった。
揚げたての香ばしい匂いが、食卓いっぱいに広がっている。
「「「「いただきまーす!」」」」
四人の声が重なり、一斉に箸が動き始めた。
「ん〜!」
思わず頬が緩む。
やっぱり、お母さんの作るとんかつは世界一だ。
お兄ちゃんがお味噌汁を飲みながら笑う。
「そんなに嬉しそうな顔しなくても、誰も七奈の分は取らないぞ」
「分かってるもん」
私はお皿を抱えるようにして、とんかつを守る。
その様子を見て、お父さんとお母さんまで笑い出した。
何気ない笑い声が、温かな食卓いっぱいに広がっていく。
――こんな時間が、私は好きだった。
◇
夜。
自分の部屋のベッドの中で、私はうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた。
昼間、院長先生が話してくれた物語。
そして最後に聞いた、あの言葉。
どうしても頭の中から離れない。
「うぅ……眠れない」
私はぬいぐるみを抱えたまま、そっとベッドを降りた。
部屋のドアを静かに開け、そのまま廊下を歩く。
昔からの約束通り、お兄ちゃんの部屋のドアは、いつでも私が入れるように少しだけ開けられていた。
小さい頃、怖い夢を見た夜も、私は何度もこうしてこの部屋へ逃げ込んだ。
私は足音を忍ばせながらベッドへよじ登り、そのまま掛け布団の中へ潜り込む。
「七奈?」
「どうしたんだよ」
突然現れた私を見て、お兄ちゃんが少し驚いたような声を漏らした。
「眠れなくなっちゃったの」
「だから、一緒に寝る」
「まったく……俺の布団を分捕るなよ?」
「ぶ、分捕ったりしないもん!」
私はお兄ちゃんの腕をぽかぽかと軽く叩く。
静まり返った部屋の中では、扇風機だけが規則正しく首を振っていた。
しばらく無言の時間が流れる。
私は背中越しに、小さく呼びかけた。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「もし……もしもいつか、私に何かあったら」
「お兄ちゃんは、助けに来てくれる?」
少しだけ沈黙が落ちた。
「急にどうしたんだよ」
「そんな縁起でもないこと言うな」
「『もしも』の話だってば」
私は少しだけ笑いながら答える。
背中合わせになったまま、お互いの体温だけが静かに伝わってきた。
「……そんなの」
「助けに行くに決まってるだろ」
私はゆっくり寝返りを打ち、お兄ちゃんの背中を見つめる。
「えへへ……」
「じゃあ、もし間に合わなかったら?」
お兄ちゃんはゆっくりこちらへ身体を向けた。
暗闇の中でも、その視線だけは真っすぐ私へ向けられている気がした。
「そんな未来には、させない」
低く、それでも迷いのない声だった。
私は思わず目を丸くする。
お兄ちゃんは照れ隠しをするように、また背中を向ける。
少しの沈黙。
やがて、静かな声が届いた。
「……でも」
「もし、本当にそんな日が来たら」
「お前が昔言ってた願い事は、全部俺が代わりに叶えてやる」
「七奈がこの世界に生きていた証を、誰にも消せないくらい残してやる」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「……そっか」
「あぁ」
「だからもう寝ろ」
「明日は学校だぞ」
「うぇぇぇっ!」
私は勢いよく目を開いた。
「完全に忘れてた!」
お兄ちゃんが思わず吹き出す。
「ほら、もう寝ろ」
「寝坊するなよ」
「うぅ……」
私は布団の中へ潜り込み、うさぎのぬいぐるみを胸に抱き寄せた。
院長先生。
柚乃先生。
悠斗。
そして、お兄ちゃん。
今日、みんなが私に話してくれた言葉を、一つずつ思い返していく。
みんな違う言葉だった。
でも、不思議と、同じことを伝えているような気がした。
「……命って、なんなんだろう」
小さく呟く。
まだ、答えは分からない。
でも——
きっと、急いで見つけるものじゃない。
「……明日の授業が終わってから、また考えよう」
私はうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、ゆっくりと目を閉じた。
窓の外では、夏の夜風だけが静かにカーテンを揺らしていた。




