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二つの世界、交差する日常

「七奈、起きなさーい」


階段を上がってくる足音と一緒に、お母さんの声が近づいてくる。


ガラッ――。


「あら、もう起きてたの?」


私の部屋を覗いたお母さんは、中が空っぽなのを見ると、すぐ隣のお兄ちゃんの部屋へ向かった。


「悠真、ちょっと……あら?」


開いたドアの向こうには、同じ布団で眠る私たちの姿。


「七奈。またお兄ちゃんの部屋で寝てたの?」


「うぅ……夕べ、どうしても眠れなかったんだもん……」


私は寝返りを打って、布団を頭まですっぽりとかぶる。


「まったく、もう」


「早く起きて朝ごはん食べちゃいなさい」


お母さんは呆れたように笑いながら、小さく肩をすくめた。


「はーい……」


私の返事を聞くと、お兄ちゃんがガサッと布団をはね上げる。


「ふわぁ……」


「七奈、ちゃんと起きろよ。俺、先に歯磨きしてくるからな」


大きなあくびを一つして、お兄ちゃんは部屋を出ていった。


部屋には朝日がゆっくりと差し込み、カーテンが風に揺れる。


一階からは、お父さんが玄関へ向かう足音が聞こえた。


「行ってくる」


「いってらっしゃい」


お母さんの優しい声。


玄関の扉が閉まる音が、朝の静けさに小さく響いた。


……あと五分だけ。


そんなことを思いながら布団へ潜り直しかけて、


私はふっと昨日のことを思い出す。


(……そうだ。)


(今日は千晴ちゃんを魔法世界へ連れて行く日だった。)


ゆっくりと布団をめくり、私は小さく伸びをした。



「行ってきまーす!」


「行ってらっしゃい。気をつけてね」


お母さんの声に見送られながら、私は通学路を歩き始める。


ふと空を見上げる。


電線が空を横切っている。


その向こうには、どこまでも続く青空。


もし、この空をほうきで飛べたら。


きっと、もっと近くで、この青さを見られるんだろうな。


そんなことを考えていると、


前の方に見慣れた後ろ姿が見えた。


「千晴ちゃーん!」


私が手を振ると、千晴ちゃんが振り返る。


「七奈ちゃん、おはよう!」


朝日みたいな笑顔だった。


「千晴ちゃんって、相変わらず朝早いね」


「そんなことないよ。」


「朝ごはん食べるのが、ちょっと早いだけ」


「ふふっ、それだけ?」


「それだけ!」


二人で顔を見合わせて笑う。


そんな他愛もない話をしながら、私たちは学校の門をくぐった。



キーンコーンカーンコーン――。


昼休みを告げるチャイムが鳴る。


私と千晴ちゃんは、お弁当箱を持って校舎の階段へ腰を下ろした。


「七奈ちゃん、これあげる」


そう言って千晴ちゃんは、自分のお弁当から海老の天ぷらを一つつまみ、私のお弁当へそっと乗せた。


「えっ?」


「千晴ちゃん、食べないの?」


「最近ちょっと甘いもの食べ過ぎちゃってさ。」


「少しだけ控えようかなって」


照れくさそうに笑う千晴ちゃん。


「じゃあ、お返し!」


私は卵焼きを一つ摘んで、千晴ちゃんのお弁当に乗せた。


「交換成立!」


「えへへ」


階段の上に、小さな笑い声が響く。


しばらくして。


「七奈ちゃん。」


「今日も放課後、魔法学院?」


「うん。」


「今日も柚乃先生に鍛えられる予定。」


私は箸を止め、わざと肩を落としてみせた。


「へぇ。」


「柚乃先生ってどんな人なの?」


「魔法実技の先生なんだけどね。」


「普段はすっごく可愛いのに、授業になると急に厳しくなるんだよ。」


「ふふっ。」


「なんだか可愛い先生だね。」


「可愛いのは認める!」


「でも怒られるのは勘弁してほしい!」


私は思わず頬を膨らませる。


千晴ちゃんは声を上げて笑った。


その笑顔を見ていると、私まで楽しくなってくる。


「ねぇ、千晴ちゃん。」


「今日の放課後、一緒に魔法世界へ行ってみない?」


「えっ?」


「でも七奈ちゃん、授業あるんじゃ……」


「授業が終わったら街を案内するよ。」


「一緒に歩こう?」


千晴ちゃんの瞳がぱっと輝く。


「本当?」


「じゃあ、七奈ちゃんからはぐれないように、ちゃんと付いていかなきゃ。」


「うん!」


私は思わず笑顔になる。


放課後が、少しだけ待ち遠しくなった。



「よし、今日の授業はここまで。解散!」


先生の声が響くと同時に、教室のあちこちで椅子を引く音が重なり、生徒たちは一斉にスクールバッグへ教科書をしまい始めた。


「千晴ちゃん……」


私は斜め後ろの席へ、小さく声をかける。


千晴は私と目が合うと、小さくこくりとうなずいた。


私たちは時間を少しずらすように教室を出て、校舎の周りをぐるりと一周する。


誰にも見られていないことを確認してから、人影のない体育倉庫の前へそっと足を踏み入れた。


「なるほどね。いつも放課後になると七奈ちゃんがいなくなっちゃうから不思議だったけど……こんな秘密があったんだ」


千晴は少し息を弾ませながら、古びた倉庫の扉を見つめる。


「えへへ……ついに見つかっちゃった」


私は照れ笑いを浮かべながら体育倉庫の扉を押し開け、一番奥の薄暗い場所まで歩いていった。


(――杖よ、来い)


心の中で静かに呼びかける。


次の瞬間。


透き通るガラスのような一本の杖が、ふわりと私の手の中へ現れた。


今日の杖の先端には、小さな三日月。


その周りを、夜空からこぼれ落ちてきたような小さな星たちが、きらきらと取り囲んでいる。


「わあ……! 前と形が違うんだね。すごく綺麗……!」


「えへへ……そんなことないよ」


少し照れくさくなって、私は頭をぽりぽりとかいた。


「じゃあ、私の手をしっかり握っててね」


私は千晴の手をそっと握る。


手のひらから、少し緊張した彼女の温もりが伝わってきた。


「――ゲート、オープン」


小さく唱える。


すると目の前の空間がゆっくりと揺らぎ、まばゆい光に包まれた転移門が静かに姿を現した。


千晴の手に、きゅっと力が入る。


「七奈ちゃん……本当に、大丈夫?」


私はぎゅっと手を握り返して微笑んだ。


「大丈夫。」


「私を信じて。」


千晴は私の顔をじっと見つめる。


やがて覚悟を決めたように、小さくうなずいた。


「……うん!」


「それじゃあ、行こう!」


私たちは光の中へ一歩踏み出した。


眩しい光が視界いっぱいに広がり――


次の瞬間。


私たちは魔法世界の広場のすぐ近くへ、ふわりと舞い降りていた。


「千晴ちゃん、着いたよ」


私がそっと声をかけると、千晴は私の手をぎゅっと握ったまま、恐る恐る片目を開いた。


「わぁ……! 本当に果物のお家だ……!」


千晴は周囲の不思議な建物を見渡しながら、好奇心に満ちた目で辺りを見回している。


「あそこにあるのは普通の家だよ。ほら、あっちにあるのが、この街の街灯」


私は道の両脇に咲く、花の形をした街灯を指差した。


ぱっと見は、本物の花と見間違えてしまいそうなくらいだった。


「暗くなるとね、花が眠るみたいにうつむいて、やさしく光るんだよ。」


「素敵……まるで童話の絵本の中にいるみたい」


私と千晴が歩いていると、いつの間にかあの果汁の屋台の前にたどり着いた。


「おじさん、こんにちは!」


「お、お嬢ちゃん、また来たのか。おや、そっちの連れは?」


大叔のおじさんが千晴を見て目を丸くする。


「私の友達の千晴ちゃんです!」


私は両手を胸の前で合わせ、上目遣いでおじさんを見つめた。


「おじさん、私これから授業があるんだけど……私が戻るまで、この子をここで待たせてもらってもいい」


おじさんは私を見て、それから千晴を見た。


「ふーむ。……まぁ、前にお前がキノコの樽をたくさん運んでくれたからな。そのお駄賃ってことで、いいだろう」


おじさんはニヤリと笑ったが、すぐに人差し指をチッチッと振って言葉を続けた。


「ただし! 店が忙しくなったら構ってやれないからな?」


「はい! ありがとうございます、おじさん!」


「よしよし、ほら、遅刻する前に授業に行ってきな!」


「それじゃあ、私、先に授業に行ってくるね! 千晴ちゃんまた後で! おじさんもまたね!」


私は学院に向かって走り出した。


「行ってきまーす!」


振り返ると、おじさんと千晴が笑顔で大きく手を振ってくれていた


「あの大樹が、本当の学校なんですか?」


千晴が遠くそびえ立つ巨木を見上げ、不思議そうに尋ねる。


「あぁ、あの大樹そのものが魔法学院さ。ここに植えられてから、もう数え切れないほどの時が流れてるんだぜ」


おじさんは学院を見つめ、腰に手を当てて感慨深そうに呟いた。


「そうなんですね」


千晴はもう一度学院を見上げ、小さく息をついた。


「……あ、自己紹介がまだでした」

「私は――」



「遅れました! 柚乃先生!」


私は学院の広場へと駆け込み、息を整えながら列の最後尾へ滑り込んだ。


「森野さん、今日は遅刻してないわね?」


柚乃先生は私を見るなり、いたずらっぽく笑う。


「はい! これからも頑張ります!」


「よし、全員揃ったわね。それじゃあ、今日の授業を始めるわよ」


先生が軽く杖を振ると、一振りの杖が音もなくその手の中へ現れた。


「みんな、あそこに並んでいる空っぽのコップが見える?」


広場の先には、水の入っていないコップがずらりと並べられていた。


「今日は水魔法を使って、あのコップを満たしてもらいます」


先生は私たちを見回しながら続ける。


「授業で教えたこと、ちゃんと覚えてる?」


「元素魔法を使う時は、まず元素が身体に馴染む感覚を思い出すこと。それから魔力で、その流れを優しく導いてあげるの」


先生の杖先が、淡い青色に輝き始めた。


「じゃあ、お手本を見せるわね」


その言葉と同時に、先生の周りへ無数の小さな水滴がふわりと浮かび上がる。


水滴は糸で引き寄せられるように一つへ集まり、やがて杖先に透き通った大きな水球が生まれた。


「――いけ!」


先生が杖を振る。


水球は一直線にコップへ飛び、ぱしゃん、と澄んだ音を立てて弾けた。


飛び散った水がきらきらと光を反射しながら降り注ぎ、空っぽだったコップをあっという間に満たしていく。


「すごーい……!」


私たちから一斉に感嘆の声が上がった。


「よし、それじゃあ各自練習開始!」


先生が杖を下ろすと、生徒たちは思い思いにコップの前へ散っていく。


広場のあちこちで杖が掲げられ、小さな水滴が次々と宙へ浮かび始めた。


「みんな、真面目にやるのよー」


柚乃先生は笑顔のまま歩き回り、一人ひとりの様子を見ていく。


「七奈、七奈!」


隣から悠斗が嬉しそうに手を振った。


「俺の魔法、見ててくれよ!」


自信満々に杖を構える。


しばらくすると、悠斗の周りにも水滴が現れ、一つの水球へとまとまっていく。


「風祭くん、筋がいいわね」


通りかかった柚乃先生が感心したように頷く。


次の瞬間。


悠斗の水球は真っすぐコップへ飛び、見事に命中した。


「ほら! 俺だってやればできるだろ?」


「うん。前よりずっと上手になったね」


私がそう言うと、悠斗は得意そうに胸を張る。


「だろ? 俺はいつだって頼れる男さ!」


……あ。


調子に乗らせると面倒だから、この辺でスルーしておこう。


私は小さく苦笑しながら、遠くのコップへ視線を向けた。


私はコップの前へ静かに歩み出る。


そっと杖を構え、ゆっくり目を閉じた。


水。


冷たくて、やわらかい。


川のせせらぎ。


果てしなく広がる海。


空から静かに降り注ぐ雨――。


その景色が心の中ではっきりと結ばれた瞬間、私は静かに目を開く。


杖先をゆっくりと空へ向けた。


「あれ?」


近くにいた生徒が小さく声を漏らす。


「森野さん、何するつもり?」


周囲の視線が自然と私へ集まっていく。


私の身体の周りには、数え切れないほどの水滴が次々と浮かび上がっていた。


「――降り注げ!」


私は両手で杖を握り締め、コップの真上へ向けて振り上げる。


すると――


コップの上だけに、小さな雨雲が現れた。


しとしとと。


優しい雨が、狭い範囲だけへ静かに降り始める。


まるで植物を育てる恵みの雨のように。


雨粒は一滴も外へこぼれることなくコップへ注がれ、やがて静かに満たしていった。


一瞬の静寂。


そして。


パチ、パチパチパチ――!


大きな拍手が広場いっぱいへ広がる。


「森野さん、素晴らしいわ!」


いつの間にか隣へ来ていた柚乃先生が、ふらりと力の抜けた私の身体を優しく支えてくれた。


全身から力が抜ける。


膝が震え、私はその場へぺたりと座り込んでしまった。


「七奈! すげぇよ!」


悠斗も嬉しそうに駆け寄ってくる。


「ううん……そんなこと、ないよ……」


先生と悠斗に支えられながら、私は照れくさそうに笑った。


柚乃先生は杖先を私の額へ軽く当てる。


「森野さん」


「発想は満点。でも、まだ魔力量が追いついてないわね」


柔らかな光が杖先から溢れる。


「……ほら。これで少しは楽になった?」


回復魔法が身体へ染み渡った瞬間、重かった身体がふっと軽くなった。


「うん!」


「ありがとうございます、先生!」


その後も元素魔法の授業は続き――


気づけば、西日が学院をやわらかな橙色に染め始めていた。


「それじゃあ、今日の授業はここまで!」


「みんな、しっかり休むのよ!」


「はーい!」


帰り道。


「森野さん!」


「さっきの魔法、すごかった!」


授業が終わるや否や、何人ものクラスメイトが私の周りへ集まってきた。


「今度、教えてよ!」


「え、えっと……」


私は苦笑しながら頭を掻く。


「私も先生に教えてもらった通りにやっただけだから……」


「いやいや、それでもすごいって!」


「次の授業、俺とペア組もうぜ!」


「私とも!」


次々に飛んでくる誘いをなんとかかわしながら、私は心の中で小さくため息をついた。


(勉強ができるようになるっていうのも……意外と大変なんだなぁ)


「七奈!」


人混みをかき分けるようにして、悠斗が私の前へ飛び出してきた。


「このあと広場で遊ばないか?」


「行きたいのは山々なんだけどね」


私は申し訳なさそうに笑う。


「今日は友達と一緒に南の森林をお散歩する約束なんだ」


「えっ!?」


悠斗の声が一段大きくなる。


「あっちの世界の友達を連れてきたのか?」


「うん、そうなの」


「おいおい……」


悠斗は額を押さえ、大げさに肩を落とした。


「学年主任に見つかったらマジでヤバいぞ?」


そう言うと、自分の首を手刀で切る真似をする。


「こう……首がチョンパされるかも」


「わかってるってば」


私は声を潜め、人差し指を唇へ当てた。


「だから、内緒ね?」


「……絶対だからな」


悠斗は苦笑しながら頷いた。



果汁屋の屋台へ戻ると、千晴は裏手の椅子へ腰掛け、本を夢中になって読んでいた。


夕暮れの光がページを優しく照らしている。


(千晴ちゃん、本当に勉強家だなぁ……)


私は思わず頬を緩めながら近づいた。


「千晴ちゃん!」


「ただいま! 戻ったよ!」


その声に、千晴はぱっと顔を上げ、本を閉じる。


「七奈ちゃん、お帰りなさい!」


そして、私の隣に立つ少年へ視線を向けた。


「……あ、その子は?」


「この子は悠斗。」


「前に話した、例の男の子だよ」


「あぁ!」


千晴は何かを思い出したように目を丸くすると、私の耳元へ顔を寄せ、小さな声で囁いた。


「例の……七奈ちゃんの部屋へ、こっそり忍び込んできたっていう?」


「ちょっと!」


私は思わず頬を赤くする。


「それじゃ誤解されるってば!」


「あ、あの……」


悠斗は少し照れたように頭を下げた。


「悠斗って言います。よろしく」


「初めまして。」


千晴もにこりと笑う。


「千晴です。よろしくね」


夕日に照らされながら、一人の少年と二人の少女は並んで歩き始めた。


目的地は、学院南側に広がる森林。


「七奈ちゃん」


千晴が少し不安そうに辺りを見回す。


「森の中って……怪物とか出たりしない?」


「大丈夫、大丈夫」


私は笑って手を振る。


「安心しろよ」


悠斗も胸を叩いた。


「俺、これでも結構強いからさ」


「ちょっと悠斗」


私はくすっと笑う。


「前の探索で、一番最初に川へ落ちたの、誰だったっけ?」


「それを言うなら!」


悠斗はすぐに言い返す。


「七奈だって一緒に落ちただろ!」


「あはは!」


三人の笑い声が森へ響く。


木漏れ日の差し込む小道を歩きながら、私たちはいつの間にか深い森の奥までやって来ていた。


「ここの木、本当に大きいね……」


千晴が見上げる先には、空まで届きそうな巨木が何本もそびえている。


「うん。」


私は頷く。


「だから、迷子にならないようにちゃんと付いてきてね」


「へへ」


私は胸を弾ませる。


「今日は花紋ネズミに会えるかなぁ」


あの小さくて可愛い生き物の姿を思い浮かべるだけで、自然と笑顔になってしまう。


やがて私たちは、見慣れた小川のほとりへ辿り着いた。


「――バブル!」


私と悠斗が同時に杖を振る。


ぽんっ。


二つの大きな泡が、目の前へふわりと現れた。


「わぁ……!」


千晴の瞳がきらきらと輝く。


「綺麗……!」


「千晴ちゃん」


私は泡へ乗り込みながら手を差し伸べた。


「これからこの泡に乗るから、しっかり私に捕まっててね」


「うん!」


千晴は少し緊張しながらも、私の手をぎゅっと握る。


二つの泡は水面へ静かに浮かび上がり――


ぽよん。


ぽよん。


まるで水の上を跳ねる風船のように、小川をゆっくり渡っていく。


夕焼け色に染まった水面へ、小さな波紋が幾重にも広がっていった。


太陽が西の山へ沈みかけた頃。


私たちはようやく対岸へ辿り着いた。


「あぁ……」


千晴が大きく息を吐く。


「今日は本当に楽しかった!」


最初の緊張はすっかり消え、満面の笑みが夕日に照らされていた。


「うん」


私も嬉しくなって笑う。


「また今度、絶対に連れてきてあげるね」


「約束だよ?」


「うん、約束!」


「――待って」


不意に、悠斗が足を止めた。


振り返ると、人差し指を口元に当て、「静かに」という合図を送ってくる。


そのもう片方の手は、自分の胸元にある学院の『緊急徽章』を指していた。


見ると、徽章は赤い光を激しく点滅させている。


「どうしたの……?」


私は思わず声を潜めた。


悠斗は視線を周囲へ巡らせながら、小さく答える。


「緊急徽章が反応してる。」


「この近くに、異常な魔力を持った何かがいる。」


「えっ……」


千晴の表情が強張る。


「まさか、本当に怪物が……?」


「いや。」


悠斗は静かに首を横へ振った。


「怪物の魔力じゃない。」


彼は徽章の向きをゆっくり確かめる。


赤い光は、森のさらに奥――誰も足を踏み入れないような深い場所を指し示していた。


「……人だ。」


「誰かいる。」


「どうする?」


私は小さな声で尋ねる。


悠斗は少しだけ考え、


「……様子を見よう。」


とだけ答えた。


「――イーグルアイ(鷹の眼)」


悠斗が杖の先で、私たち三人の額を軽く叩く。


その瞬間だった。


景色が一気に広がる。


遠くの木々の葉脈まで見えるほど視界が鮮明になり、まるで森全体がすぐ目の前へ引き寄せられたようだった。


「あっちだ。」


悠斗が静かに指差す。


私たちは草むらへ身を伏せ、葉の隙間からそっとその先を覗き込む。


そこにいたのは――


一人の男だった。


男は私たちへ背を向けたまま、何かを握り締めている。


夕日に照らされたその手には、十数枚もの黄金樹の葉があった。


けれど、その輝きはどこか弱々しい。


「あれ……」


千晴が息を呑む。


「何なの……?」


私は目を凝らした。


「あれ……院長先生がくれた葉っぱに似てる。」


「あの葉っぱって、何に使うの?」


「魔力を大量に蓄えておける特別な魔力貯蔵器ストレージだよ。」


そう答えながらも、私の視線は男から離れなかった。


男は懐へ手を入れる。


そして取り出したのは――


一匹の小さな花紋ネズミ。


地面へ静かに横たえられたその身体は、ぴくりとも動かない。


「悠斗……」


私は小さく囁く。


「あれって……」


「ああ。」


悠斗も表情を曇らせた。


「花紋ネズミだ。」


ほんの一拍置いて、


「……たぶん、もう死んでる。」


思わず息を呑む。


「あの人……何をするつもりなんだろう。」


「静かに。」


悠斗は視線を逸らさない。


「見てろ。」


男はゆっくりと杖を掲げる。


その切っ先は、動かないネズミへ向けられた。


次の瞬間――


空気が震えた。


森全体が低く唸ったような錯覚。


肌が粟立つほど濃密な魔力が、一気に周囲へ溢れ出す。


同時に、男の握る黄金樹の葉がみるみる黒く変色し、乾いた音を立てながら枯れていった。


「おい……!」


悠斗が思わず息を呑む。


「見ろ……!」


私たちは目を見開いた。


死んでいたはずの花紋ネズミが――


ゆっくりと。


本当にゆっくりと。


その瞳を開いたのだ。


ネズミは身体を震わせながら起き上がる。


目の前の男を一瞬だけ見つめると、


次の瞬間、


怯え切ったように森の奥へ駆け去っていった。


静寂。


男は逃げていくネズミを見つめたまま、一歩も動かない。


やがて、その肩が小さく震え始める。


それは喜びなのか。


それとも恐怖なのか。


私には分からなかった。


ただ、


その背中だけを見つめ続ける。


あの立ち姿。


あの背格好。


見間違えるはずがない。


胸が、どくん、と大きく鳴る。


まさか……


そんなはず……


「……矢野先生」





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