黄金の葉が舞う夜
「あの背中……」
思わず息を呑む。
それに、あの杖の形。
見間違えるはずがない。
「……矢野先生?」
小さく、その名が口からこぼれた。
隣で悠斗も目を細める。
「……あいつだ」
「二人とも、何の話をしてるの? あの人、誰?」
千晴ちゃんが不安そうに男を見つめ、小声で尋ねた。
「前に黄金樹の下で、私を襲った人だよ」
「えっ……」
千晴ちゃんの肩がびくっと震え、私の背中へそっと身を寄せる。
私は悠斗の袖を軽く引いた。
「悠斗。急いで戻って、滕代先生に知らせよう」
悠斗は男から目を離さないまま、小さく頷く。
「ああ。行こう」
私たちは息を潜め、草むらの中を少しずつ後ずさる。
枝を踏まないように。
葉を揺らさないように。
慎重に、慎重に。
やがて森の入口まで戻ると、ようやく三人そろって小さく息を吐いた。
◇
「はぁ……はぁ……」
千晴ちゃんは服についた土を払いながら、私を見つめた。
「七奈ちゃん……あの人が、七奈ちゃんを襲った人なの?」
「うん」
私は力強く頷く。
「だから、早くここを離れよう」
「うん……!」
その返事と同時に、悠斗はもう杖を構えていた。
「――疾行」
短く唱え、ゆっくりと杖を振り下ろす。
次の瞬間。
ふわり、と身体が軽くなった。
「わぁ……!」
思わず声が漏れる。
「すごい!」
悠斗は少し照れくさそうに笑った。
「ただの基礎魔法だよ」
「でも、風の元素魔法みたい」
「俺もよく分からないんだ」
そう言って肩をすくめる。
「とにかく急ごう!」
私たちは学院へ続く道を、一気に駆け出した。
◇
商店街へ戻る頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まり始めていた。
通りに並ぶ花灯は、花が眠るようにゆっくりとうつむき、やわらかな橙色の光を灯している。
店の窓からは温かな明かりが漏れ、昼間は賑わっていた屋台広場も、今は机だけが静かに残されていた。
そんな広場を横切るように、私たちは学院へ向かって駆けていく。
学院の大樹の根元へ辿り着くと、千晴ちゃんは私が初めて乗った時と同じように、蔦の移動ルートへおそるおそる足を乗せた。
「じゃあ千晴ちゃん、絶対に手を離さないでね」
「う、うん……」
蔦がふわりと浮かび上がる。
次の瞬間。
「きゃあああぁぁっ!」
千晴ちゃんの悲鳴が夜の学院へ響いた。
蔦は枝から枝へ滑るように駆け抜け、そのまま大きな鉄門の前まで一気に私たちを運んでくれる。
「七奈ちゃん……!」
「今の、すっごくスリルあった……!」
胸を押さえながら大きく息を吐く千晴ちゃんを見て、思わず笑みがこぼれた。
「大丈夫?」
「最初はびっくりしたけど……一回乗ったら、そんなに怖くないかも」
そう言って、千晴ちゃんは私の手をぎゅっと握ったまま笑う。
悠斗は杖で鉄門を軽く叩いた。
ゴォォォ……
昼間みたいな元気な声ではなく、眠そうな低い音を響かせながら、鉄門はゆっくりと口を開いていく。
(そっか……鉄門も夜は眠るんだ)
そんなことを思いながら、ふと腕時計へ目を落とす。
──十九時三十分。
「やばっ!」
思わず声が漏れた。
「千晴ちゃん、見て!」
慌てて腕時計を見せる。
「どうしよう……お母さんたちに心配かけちゃうよ……!」
「ほんとだ……!」
千晴ちゃんも時計を覗き込み、目を丸くした。
「急ぐぞ!」
振り返った悠斗が声を張る。
「先に滕代先生を探そう!」
そう言うや否や、一目散に走り出した。
「待ってよー!」
私たちも慌ててその後を追いかける。
◇
「急げ、急げ!」
悠斗が先頭に立ち、学院の中を駆け抜けていく。
私は千晴ちゃんの手を握ったまま、その後を追った。
「十二階」
悠斗の声に応えるように、目の前の階段がふわりと浮かび上がる。
「え、ええぇっ!?」
突然動き出した階段に、千晴ちゃんが慌てて私の腕へしがみついた。
「大丈夫、大丈夫」
その手をぎゅっと握り返す。
「ちゃんと一緒にいるから」
「う、うん……!」
階段は私たちを乗せたまま、するすると上へ昇っていく。
やがて十二階へ着くと、悠斗は迷うことなく廊下を駆け、一つの部屋の前で足を止めた。
◇
コン、コン。
「失礼します」
「入れ」
低い声が返ってくる。
部屋へ入ると、滕代先生は本棚の前に立ち、青い表紙の本を手にしていた。
「滕代先生」
悠斗が一礼する。
先生は本を閉じると、静かにこちらへ視線を向けた。
まず悠斗を見て。
続いて私へ。
そして、その視線は私の隣に立つ千晴ちゃんのところで止まった。
「……森野さん」
「その子は誰だ?」
「え、えっと……」
肩がぴくりと跳ねる。
「わ、私の友達です……」
しまった。
千晴ちゃんを外で待っててもらうの、すっかり忘れてた……!
どうしよう。
どうしよう……!
滕代先生は小さく息を吐いた。
「森野さん」
「学院の規則は覚えているな?」
「……はい」
うつむいたまま、小さく頷く。
その時だった。
「あの!」
千晴ちゃんが私の前へ一歩踏み出した。
「七奈ちゃんは悪くありません!」
「私が無理を言って連れてきてもらったんです!」
「それに……」
ぎゅっと拳を握りしめる。
「私が勝手について来たから、魔法学院のことも知ってしまったんです!」
滕代先生は黙って千晴ちゃんを見つめる。
「だとしても――」
「滕代先生」
悠斗の声が、先生の言葉を遮った。
さっきまでの少し頼りない表情はもうない。
「もっと重要なことがあります。」
「先に、それを聞いてください。」
先生の眉がわずかに動く。
「風祭くん」
「学院の規則は――」
「南の森林で、矢野を見ました」
その一言で。
部屋の空気が変わった。
滕代先生の表情から、わずかに残っていた穏やかさが消える。
「……何だと」
「何を見た」
悠斗は胸元の徽章を外し、先生へ差し出した。
「これを見てください」
先生は徽章を受け取り、静かに目を落とす。
森で緊急反応を起こした痕跡が、淡くその表面へ残っていた。
「……ふむ」
やがて先生は顔を上げる。
「矢野は、南の森林で何をしていた」
私は森で見た出来事を、一つずつ順番に話した。
黄金樹の葉。
花紋ネズミ。
そして――
死んだ命が、再び目を開いたこと。
話し終えた瞬間。
部屋は水を打ったような静けさに包まれた。
「……死んだ花紋ネズミを、生き返らせたというのか」
滕代先生は額へ手を当てる。
「見間違いではないな?」
「はい」
私ははっきり頷いた。
「私たち三人とも、確かに見ました」
滕代先生は深く息を吐く。
「……最近は、本当に問題ばかりだ」
しばらく考え込んだあと、静かに口を開いた。
「お前たちは今日はもう帰りなさい」
「私はすぐ院長先生へ報告に行く」
「えっ、でも千晴ちゃんの――」
悠斗が何かを言いかける。
「行くよ!」
私はその腕をぐいっと引っ張った。
「えっ!? ちょっ――」
千晴ちゃんも慌てて私たちの後を追いかける。
私たちは部屋を飛び出し、一目散に廊下を駆け抜けた。
バタン!
勢いよく扉が閉まる。
部屋の中では――
「……何か、大事なことを忘れている気がするな」
滕代先生は首を傾げる。
「……まあいい」
「先に院長先生へ報告しなければ」
そう呟くと、本を机へ置き、そのまま部屋を後にした。
◇
「はぁ……!」
「危なかったぁ……!」
私は悠斗の腕を引いたまま、一階まで一気に駆け下りた。
ようやく足を止めると、大きく息を吐く。
悠斗は呆れたように私を見た。
「なぁ」
「千晴さんのこと、本当にあれでよかったのか?」
「いいの、いいの!」
私は何度も頷く。
「滕代先生が何も言わなかったんだから、このまま帰ればセーフ!」
「お前があそこで喋り続けてたら、絶対先生も思い出してたって!」
「……あぁ」
悠斗は苦笑しながら頭を掻いた。
「確かに、それはありそうだな」
「でしょ?」
思わず吹き出す。
「俺も滕代先生に怒られるのは勘弁だし」
「ほらね」
二人で顔を見合わせて笑った。
その横で、
「ふふっ」
千晴ちゃんも小さく笑う。
張りつめていた空気が、ようやく少しだけやわらいだ。
「じゃあ」
私は千晴ちゃんの手を握り直す。
「私たちはもう帰るね」
「これ以上遅くなると、お母さんたちが心配しちゃうから」
「おう」
悠斗は軽く手を振った。
「また明日」
その言葉とともに、一振りの箒がふわりと手の中へ現れる。
「二人とも、気をつけて帰れよ」
「悠斗もね」
私も笑って手を振り返した。
悠斗は箒へまたがると、そのままゆっくりと夜空へ浮かび上がっていく。
やがて、その姿が夜の空へ溶け込んで見えなくなる。
私は千晴ちゃんと顔を見合わせた。
「じゃあ、私たちも帰ろっか」
「うん!」
◇
夜風に吹かれながら、私たちはゆっくりと黄金樹の広場へ向かって歩いた。
「千晴ちゃん」
少し照れくさくなって笑う。
「今日は本当にごめんね」
「本当は街をもっと案内するつもりだったのに、あんなことに巻き込んじゃって……」
千晴ちゃんは小さく首を振った。
「そんなことないよ」
「私のせいで、二人とも先生に怒られそうになっちゃったし……」
少し俯いたあと、ふっと笑みを浮かべる。
「でもね」
「今日は本当に楽しかった」
「えっ、本当に?」
思わず足を止める。
千晴ちゃんは私を見つめ、優しく頷いた。
「うん」
「また来たいって思った」
その言葉が、胸の奥へすっと染み込んでくる。
気がつくと、私も笑っていた。
「もちろん!」
「また一緒に来ようね!」
「うん!」
笑い合いながら、二人で黄金樹の前まで歩いていく。
夜の黄金樹は昼間よりずっと静かで、それでも変わらず優しく街を見守っていた。
私は立ち止まり、大きく枝を広げる黄金樹を見上げる。
(今日も、いろんなことがあったなぁ……)
そう思った、その時。
ひらり。
黄金色の葉が一枚、私の肩へ舞い降りた。
続いてもう一枚。
今度は千晴ちゃんの頭へ、そっと舞い降りる。
まるで――
「ようこそ」
そう語りかけるように。
「わぁ……」
千晴ちゃんは驚いたように葉っぱを手に取り、そっと見つめた。
私はその様子を見て、小さく微笑む。
「帰ろっか」
「うん」
私は杖をそっと構えた。
「――ゲート、オープン」
目の前に光の転移門が静かに開く。
私たちは並んで、その光の中へ足を踏み入れた。
◇
「ただいまー!」
玄関の扉を開けると、お母さんがすぐに顔を出した。
「おかえりなさい。今日はずいぶん遅かったじゃない」
少し心配そうな顔で、私を見つめている。
「千晴ちゃんと、ちょっと寄り道してたの」
「もう……暗くなる前には帰ってきなさい」
お母さんは小さくため息をついた。
すると、リビングからお父さんの声が聞こえてくる。
「まあまあ。もう高校生なんだから、少しくらい寄り道くらいするさ」
「あなたは甘いんです!」
お母さんが少しだけ頬を膨らませる。
「えへへ……」
私は照れ笑いを浮かべながら、そのまま洗面所へ逃げ込んだ。
◇
夜。
私は昨日と同じように、うさぎさんを抱えて、お兄ちゃんの部屋へそっと忍び込む。
「お兄、お兄」
「今日も一緒に寝てもいい?」
「またか」
お兄ちゃんは振り返り、困ったように笑った。
「今度は何があった?」
私はうさぎさんを抱えたまま、少しだけ黙り込む。
「昨日ね……怖い夢を見たの」
「どうせまた怪物に追いかけられる夢だろ?」
「違うもん!」
私はうさぎさんを抱いたまま、お兄ちゃんの足を軽くつつく。
「はいはい。俺の負け」
「ほら、早く寝ろ」
お兄ちゃんは苦笑しながら、布団の端を少しだけ空けてくれた。
私はその隣へ潜り込み、そっと身体を寄せる。
部屋には、扇風機が規則正しく首を振る音だけが流れていた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「昨日ね……花紋ネズミが生き返る夢を見たの」
「カモンネズミ?」
「何だ、それ」
「ち、違う!」
「模様のあるネズミ!」
慌てて言い直すと、お兄ちゃんは小さく笑った。
「お兄ちゃん」
「今度は何?」
少し迷ってから、私は静かに尋ねる。
「動物を生き返らせる魔法って、本当にあると思う?」
お兄ちゃんは少しだけ考えてから答えた。
「さあな」
少し間を置いて、続ける。
「でも、早く寝ないと明日遅刻するぞ」
「うぇぇ……」
私はうさぎさんをぎゅっと抱きしめながら寝返りを打った。
部屋は再び静けさに包まれる。
私の意識も、ゆっくりと眠りの中へ溶けていった。
――その時。
部屋のドアが、そっと開く音がした。
「……お兄ちゃん?」
眠気の中、私は小さく呟く。
返事はない。
やがて――
パタン。
静かな部屋に、ドアが閉まる音だけが小さく響いた。




