秘密は、もう隠せない
太陽が屋根の上まで高く昇り、
数羽の小鳥が家の前の電柱にとまっている。
「七奈、もう少しゆっくり食べなさい」
台所から、お母さんの声が聞こえてきた。
食卓の真ん中には、焼きたてのトーストが並び、香ばしい匂いがふんわりと広がっている。
「今日は休みだけど、どこか遊びに行くのか?」
向かいに座るお兄ちゃんが、牛乳を飲む私を見ながら尋ねた。
「うん、ちょっとね。千晴と買い物に行く約束をしてるの」
私は両手でコップを包み込む。
ほんのりと温かい牛乳のぬくもりが、手のひらへじんわりと伝わってきた。
その言葉を聞くと、お兄ちゃんの視線が一瞬だけ止まる。
まるで、私の右手を見つめるように。
「気をつけろよ。あんまり遅くならないうちに帰ってこい」
「もう、お行儀が悪いんだから」
お母さんは真っ白なお皿を抱えながら、苦笑まじりに言う。
そして笑いながら、焼きたてのトーストを私の前へ差し出した。
「えへへ……」
私は照れくさそうに頭をかき、牛乳を飲み干すと、トーストを手に取って勢いよく立ち上がる。
「行ってきまーす!」
「いってらっしゃい」
背中越しに、お母さんとお兄ちゃんの優しい声が聞こえた。
♪ ♪ ♪
鼻歌を歌いながら、私は学校の体育倉庫へ向かって歩いていく。
時折、自転車がすぐ横をチリンチリンと音を鳴らしながら通り過ぎていった。
前方の路地を曲がった、その時だった。
「千晴ちゃん!?」
「七奈ちゃん?」
思いがけず、目の前でばったり鉢合わせになる。
「七奈ちゃん、もう体調は大丈夫?」
千晴は小首を傾げ、心配そうな笑顔を向けてきた。
「うん! もうすっかり元気だよ!」
私は満面の笑みで答える。
「でも珍しいね。今日は土曜日なのに、こんな朝早く起きてるなんて」
「あ、えっと……私、これから補習があるんだ!」
我ながら苦しい言い訳だ。
「じゃ、じゃあ先に行くね! 遅刻しちゃうから!」
私は慌てて手を振り、その場を駆け出した。
「えー? 七奈ちゃん、いつもの土曜日はお昼まで寝てるのに……」
千晴は小さく呟き、走り去る私の背中を見送る。
そして、どこか確信めいた笑みを浮かべた。
「……やっぱり。また『あそこ』へ行ってるんだ」
小走りで体育倉庫へたどり着く。
「今日はいつもより賑やかだなぁ。グラウンドに部活の人がたくさんいる……」
軽く息を整えながら周囲を見回す。
……よし。
誰も見ていない。
私はそっと扉を開け、一番奥の薄暗い場所へ歩いていった。
(ステッキ……!)
心の中で呼びかけると、淡い光とともに愛用の杖が手の中へ姿を現す。
今日は、緑色の若葉が飾られた可愛らしいデザインだった。
「ポータル」
静かに呟くと、目の前に青白い光の扉がゆっくりと開いていく。
最後にもう一度だけ体育倉庫の外を振り返り、私はその中へ飛び込んだ。
黄金樹の下では、一人の少年が息を切らしながら走ってきていた。
「はぁ……はぁ……やっと着いた……!」
悠斗は腰に手を当て、大きく肩で息をしている。
「あれ? 七奈はまだ来てないのか?」
その瞬間――
「きゃああああああっ!」
突然、頭上から悲鳴が響いた。
悠斗が反射的に空を見上げる。
そこには、緑のレースが飾られた白いワンピース姿の少女が、真っ逆さまに落ちてきていた。
「うわっ!?」
ドサッ。
「いたたた……」
私は頭を押さえながら、その場にぺたんと座り込む。
……あれ?
不思議と、お尻は全然痛くない。
何か柔らかいものの上へ落ちたような感触だった。
そう思っていると、
私の真下から一本の腕がにゅっと伸びてきた。
恐る恐る下を覗く。
そこには見事に下敷きになった悠斗がいた。
私は一瞬固まったあと、大慌てで飛び退く。
「ご、ごめんねっ!」
頭を下げながら謝るものの、笑いをこらえきれず肩が震えてしまう。
「ったく……相変わらず重いな」
悠斗は立ち上がり、服についた砂埃を払い落とした。
「ご、ごめんってば! ポータルを開く時、うっかり『空』を思い浮かべちゃったの!」
「頼むからダイエットしてくれ」
「えへへ……」
私は苦笑いを浮かべる。
むぅ……。
また太ってる扱いだ。
私、そんなに重くないのに。
「まあいいや。早く行こうぜ」
悠斗はマントの内側から一つのバッジを取り出し、私へ放り投げた。
「……これ、何?」
受け取ったバッジを見つめる。
中央にはサファイアのような青い宝石が埋め込まれていた。
「緊急用バッジだ」
悠斗は自分の胸元にも同じ物を留める。
「昨日、お前が帰ったあと藤代先生に報告しておいたんだ。危険な目に遭ったら、そのバッジへ魔力を流せ」
「これで怪物を追い払えるの?」
「いや。結界が張られる。それと同時に近くの巡回組へ救援信号が飛ぶ」
「巡回組って……私が最初に会ったあの人たち?」
黒いマントをまとった魔法使いたちの姿が脳裏によみがえる。
「そういうこと」
悠斗は頷いた。
「さあ、行こう」
私も胸元へバッジを留め、その後ろを追いかける。
南の森へ続く道を歩いていると、並ぶ建物がだんだん個性的になってきた。
「ねぇ、あのお花みたいな家は?」
「花屋」
「あっちは?」
私は一本の枯れ木のような建物を指差す。
「あれは鍛冶屋」
「へぇ。こっちの世界にも鍛冶屋があるんだ」
「店じゃ売ってない物は、鍛冶屋に頼むしかないからな」
私は周囲を見回しながら、小さく頷いた。
「それにしても、今日は人が少ないね」
「土曜日だからさ。みんな、お前たちの世界へ遊びに行ってる」
「えっ!? 勝手に行っていいの?」
「買い物くらいするさ」
悠斗は両手を頭の後ろで組みながら笑う。
「土曜日になると、みんな転移魔法陣を通って夕真さんの店へ行くんだ」
「あの時計屋さん?」
「そう。向こうで服を着替えて、そのまま街を歩いたりする」
「なるほど……」
魔法使いって、意外と身近にいるんだなぁ。
今度こっそり見つけて驚かせちゃおう。
へへへ。
その時、私はあることを思い出した。
「じゃあさ、この前こっそり向こうの世界へ行ってアンパン買ってたのは?」
「うっ……」
悠斗は分かりやすく体を震わせた。
「そ、それは買い忘れた物があって……」
「本当は買い置きを全部食べちゃったんじゃないの?」
私はくすくす笑いながら走り出す。
「違うって!」
顔を真っ赤にした悠斗が、慌てて追いかけてきた。
気が付けば、私たちは南の森の入口までやって来ていた。
見上げるほど巨大な木々が空を覆い隠し、昼間なのに森の中は薄暗い。
私は思わず悠斗の後ろへ隠れた。
「ねぇ……ゴブリンとか出ないよね?」
「ここは異世界ラノベじゃないって」
悠斗は呆れたように額へ手を当てる。
「行くぞ」
そう言って森へ踏み出した。
けれど、私はどうしても足が前へ出ない。
悠斗は振り返ると、小さくため息をついて戻ってきた。
そして、私の手をぎゅっと握る。
「えっ……?」
「怖いなら、俺から離れるな」
少年はいつものように自信満々な笑みを浮かべた。
「こ、怖がってなんかないもん」
私は深呼吸をひとつして、彼の手に引かれながら森の中へ足を踏み入れた。
森の中へ足を踏み入れると、大樹の枝葉が幾重にも重なり合い、空を覆い隠していた。
昼間のはずなのに、辺りは薄暗い。
足元には巨大な木の根がうねるように地面を這い、まるで生き物のようにゆっくりと息づいているようだった。
「足元、気をつけろよ」
悠斗に手を引かれながら、私は大きな根をよいしょ、とまたいでいく。
「はぁ……はぁ……」
思った以上に歩きづらい。
ようやく根を乗り越えると、その場へぺたんと腰を下ろした。
「こっちの木って……どれもこんなに大きいの?」
肩で息をしながら見上げる。
どこまで見ても幹が続いていて、てっぺんなんてまったく見えない。
「俺たちの世界じゃ普通だよ」
悠斗は慣れた様子で肩をすくめた。
「昔さ、誰かが『魔豆の種』を向こうの世界へ持ち出したことがあったらしいんだ。」
「へぇ?」
「そのあと豆のツルが天まで伸びて、大騒ぎになったらしい。」
「えぇっ!?」
私は思わず立ち上がる。
「それって……!」
「そう。お前たちの世界じゃ『ジャックと豆の木』って呼ばれてる話。」
「うそぉ……!」
私は目を丸くした。
「あれ、本当にあった出来事なの?」
「まあな。」
悠斗は苦笑しながら頷く。
「目撃者が多すぎて隠しきれなかったらしい。」
「だから向こうの世界では、童話ってことにしたんだってさ。」
「すごい……。」
私は思わず空を見上げる。
もしあの物語が本当にあった出来事なら――
雲の向こうまで続くあの豆のツルを、私も一度くらい登ってみたい。
きっと景色もすごく綺麗なんだろうなぁ。
「ちなみに。」
悠斗が悪戯っぽく笑う。
「シンデレラも、本当の話。」
「えぇぇっ!?」
私はまた大きな声を上げた。
「舞踏会も?」
「カボチャの馬車も。」
「魔法も?」
「全部。」
「すごーい!」
私は思わず胸の前で両手を合わせる。
「じゃあ、王子様も本当にいたんだ……。」
「もちろん。」
悠斗はくすっと笑う。
「夢、壊さなくてよかった。」
「もう!」
私は頬を膨らませる。
「そういうことは最初に言ってよ。」
「言ったら面白くないだろ。」
「むぅ……。」
私は唇を尖らせながらも、小さく笑ってしまう。
もし本当に舞踏会があったなら――
いつか私も、綺麗なドレスを着て踊ってみたいな。
そんなことを考えるだけで、なんだか少し幸せな気持ちになった。
少し休憩したあと、私たちは再び森の奥へ歩き始めた。
しばらく進むと、さらさらと澄んだ水音が耳に届く。
目の前には、小さな川が静かに流れていた。
「わぁ、川だ。」
私は身を乗り出して向こう岸を見る。
「橋はないの?」
「そんなもの必要ない。」
悠斗は自信満々に笑う。
「俺に任せろ。」
そう言うと、悠斗は杖を軽く掲げた。
「――《バブル》」
淡い光が弾ける。
次の瞬間、大きなシャボン玉のような泡がふわりと現れた。
「えっ、かわいい!」
泡はゆらゆらと揺れながら悠斗の横へ浮かぶ。
少年はその上へひょいっと飛び乗った。
ふわっ。
泡はそのまま水面へ降り立つ。
そして――
ぽよん。
ぽよん。
ぽよん。
弾むように川の上を跳ね始めた。
「すごーい!」
私は目を輝かせる。
「私もやる!」
杖を握り直し、大きく息を吸う。
「――《バブル》!」
すると今度は、ほんのり桜色をした可愛らしい泡が現れた。
「かわいい……!」
恐る恐る乗ってみる。
ふわっ。
まるでソファみたい。
柔らかくて、でもちゃんと身体を支えてくれる。
「行くよー!」
私は嬉しくなって、そのまま川へ飛び出した。
「待ってよー!」
「嫌だねー!」
少年は振り返ってあっかんべーをすると、泡の速度をぐんと上げる。
「もう、子どもなんだから……」
私は泡の上でバランスを取りながら、必死にその背中を追いかけた。
「七奈、遅いぞー!」
前を行く悠斗が得意げに叫んだ、その瞬間だった。
――パチン。
どこからともなく飛び出した鋭い枝が、悠斗の泡を容赦なく突き刺す。
少年の体が一瞬だけ宙へ浮き――
――バシャーーーン!!
豪快な水しぶきを上げて、小川へ真っ逆さまに落ちてしまった。
ようやく水面から顔を出した悠斗は、髪がワカメみたいにぺたんと張りつき、全身びしょ濡れになっている。
「あははははっ! 自業自得だよー!」
私はお腹を抱えて笑いながら泡を操り、その枝をひょいっと避けた。
「ほら、手貸して。乗せてあげる」
私が手を差し伸べると、悠斗は悔しそうな顔をしながらもその手を掴み、ピンク色の泡の上へとよじ登ってきた。
「くそっ、あの枝め……!」
「あはは、悠斗が油断するからでしょ」
私は笑いながら、二人乗りになった泡をポヨンポヨンと跳ねさせ、小川の流れに沿って進んでいった。
「あそこだ」
後ろから悠斗が岸辺の一角を指差した。
私は泡をゆっくりと岸へ寄せ、着地すると同時にひょいっと地面へ飛び降りる。
「――『ディスペル(散)』」
パチン、と小さな音を立てて泡が弾け、光の粒となって消えていった。
私は振り返り、まだ全身びしょ濡れの悠斗を見つめる。
「悠斗、大丈夫……? く、くすっ……」
その情けない姿を見ると、どうしても笑いが込み上げてしまう。
「悪かったな」
悠斗はふいっとそっぽを向くと、魔杖を構えた。
「――『ドライ(乾燥)』」
呪文が響くと同時に、服からふわりと湯気が立ち上り、あっという間に元のさらさらな状態へ戻っていく。
すごい……。
これって、もし洗濯物を干し忘れても、この魔法を使えば一瞬で乾かせちゃうのかなぁ。
今度、試してみよう。
「行くぞ。キノコ精霊は、たぶんあっちの巨木の下にいる」
「うん、分かった!」
悠斗が先頭を歩き、私はその後を追いかけた。
しばらく進むと、辺り一面がみずみずしい苔に覆われた場所へと変わっていく。
――ガサッ。
突然、すぐ横の草むらから物音が響いた。
「ひゃっ!?」
私はビクッと肩を震わせ、反射的に悠斗の背中へ隠れる。
悠斗は足音を殺しながら慎重に草むらへ近づき、私はその背中越しに、そっと中を覗き込んだ。
そこには、一匹の丸々とした小さな生き物がちょこんと座っていた。
お腹はぽんと丸く膨らみ、尻尾はリスのようにふさふさ。
そのお腹の真ん中には、ぐるぐると渦を巻く不思議な模様が描かれている。
「……可愛い」
私は悠斗の後ろから、小さく呟いた。
悠斗はほっと胸をなで下ろす。
「なんだ、シマモヨウネズミか」
「シマモヨウネズミっていうの?」
「ああ。こいつらはすごく寂しがり屋で、お腹にある渦模様が特徴なんだ」
説明が終わるか終わらないかのうちに、シマモヨウネズミは言葉が分かったかのように慌てて草むらの奥へ駆け込んでいった。
「よし、先を急ごう。もうすぐだ」
私たちは元の道へ戻り、そのまま森の奥へと歩き続けた。
どれくらい歩いただろう。
やがて、目の前に一本の巨大な古木が姿を現した。
その根元には、ドーム状にぽっかりと口を開けた不気味な樹洞がある。
「――『スターライト(星光)』」
悠斗が魔杖を掲げると、小さな星がふわりと現れ、彼の周りをくるくると漂い始めた。
「わぁ、お星様だ! 私もやってみよう!」
私は嬉しくなって魔杖を構える。
「――『スターライト』!」
……しーん。
期待とは裏腹に、私の周りには何も現れなかった。
「ちゃんと授業を聞いてないからだろ?」
悠斗はにやにやしながら私を見る。
「もう、うるさいなぁ……っ!」
頬をふくらませながら抗議すると、悠斗は肩をすくめて笑った。
樹洞の中へ足を踏み入れると、小さなキノコ精霊たちが地面の上で身を寄せ合い、静かに丸くなっていた。
「お邪魔します。少しキノコ樽を分けてもらえないかな?」
悠斗はキノコ精霊たちに向かって丁寧に一礼する。
改めて見てみると、この世界のキノコ精霊は私たちの世界のキノコよりずっと大きく、子猫くらいの大きさがあった。
……でも、見た目はやっぱりキノコだ。
「グゥ……グゥ……グゥ……」
キノコ精霊たちが何やら話し合っている。
もちろん、私には一言も分からない。
「なるほど、分かった」
悠斗はうなずくと、私の手を引いて樹洞の反対側へ歩き出した。
「えっ? 悠斗、あの子たちの言葉が分かるの?」
「いや、全然」
少年は少し照れくさそうに頭をかく。
「えぇーっ!?」
思わず大きな声が出てしまう。
「でもさ、キノコ精霊には葉っぱの傘を作ってあげれば大体解決するんだよ。」
「こういうの、慣れてるからさ」
悠斗は得意げに胸を張る。
「な、なるほど……?」
……本当にそうなのかなぁ。
半信半疑のまま見ていると、悠斗は地面へ落ちている大きな葉っぱを次々と拾い集め始めた。
「キノコ精霊は直射日光に弱いんだ。だから日よけになる傘が必要なんだよ」
「私たちの世界のキノコと一緒なんだね」
気が付けば、悠斗の腕の中には大きくて綺麗な葉っぱが何枚も積み重なっていた。
私も慌てて葉っぱ集めを手伝い始める。
しばらくすると、二人とも腕いっぱいに葉っぱを抱えていた。
「……ねぇ、これをどうするの?」
私は葉っぱの山を抱えながら、息を弾ませて尋ねる。
一枚一枚は軽いのに、ここまで集まると意外と重たい。
「地面に置け。俺の神業を見せてやる」
悠斗はニヤリと笑い、魔杖を葉っぱの山へ向けた。
「――『アンブレラ(傘)』!」
呪文が響くと同時に、葉っぱがふわりと宙へ舞い上がる。
やがて、それぞれが意思を持っているかのように組み合わさり、まるでパズルのピースのように形を作っていった。
数秒後。
立派な緑色の葉っぱの傘が完成した。
「わぁ……!」
思わず感嘆の声が漏れる。
「よし、届けるぞ」
悠斗は完成した葉っぱの傘を軽々と持ち上げ、そのままキノコ精霊たちのもとへ歩いていった。
傘を受け取ったキノコ精霊たちは大喜びし、樹洞の奥から十数個ものキノコ樽をゴロゴロと転がしてくる。
「うわぁ……! こんなにたくさん!」
思わず目を丸くしてしまう。
「ありがとうございます!」
私はキノコ精霊たちへ向かって深く頭を下げた。
「グゥ……グゥ……」
キノコ精霊たちは嬉しそうに何かを話している。
……やっぱり、一言も分からなかった。
私たちは来た道を引き返し、そのまま学院へ向かって急いだ。
けれど今回は、悠斗が私のピンク色の泡に一緒に乗っている。
なぜなら、彼は両手いっぱいにキノコ樽を抱えていたからだ。
あはは、今日は立場が逆転だね。
「ねぇ悠斗。そういえば、あの日、黄金樹の下で出会ったあの不気味な人って、一体誰だったの?」
私は後ろに座る悠斗へ振り返りながら尋ねた。
「俺も詳しくは知らない。ただ、院長先生が言うには、あいつは大量の魔力を手に入れるために黄金樹へ侵入したらしい」
「そんなにたくさんの魔力を集めて、一体何をするつもりなんだろう……」
私は首をかしげる。
「そこまでは俺たちにも分からない。院長先生なら何か知ってるかもしれないけどな」
「そっか……」
私は前を向き直り、あの日の出来事を静かに思い返していた。
そのときだった。
「おい七奈!! 前! 前見ろ――っ!!」
後ろから悠斗の悲鳴にも似た叫び声が飛ぶ。
「えっ?」
私は慌てて顔を上げた。
――時すでに遅し。
私たちの泡は、小川の真ん中にどっしりと構える大岩へ一直線。
「きゃああああああ――っ!!」
――ドッボーーーーン!!
森の中へ、今日一番大きな水しぶきが響き渡った。
午後。
西へ傾き始めた陽射しが、黄金樹の広場を優しく照らしている。
キノコ樽を両腕いっぱいに抱えた私と悠斗は、へとへとになりながら屋台まで戻ってきた。
「おぉ! こんなに採ってきてくれたのか!」
屋台のおじさんは、テーブルいっぱいに並んだキノコ樽を見るなり目を丸くした。
「ふっ。当然さ。なんたってこの俺が――」
悠斗が得意げに前髪をかき上げる。
「よし、これだけあれば十分だ。ご褒美に特製の果汁をご馳走してやるよ」
悠斗の自慢話が終わるより早く、おじさんはカウンターの下から例の木製ジューサーを取り出した。
ガコン、ガコン。
木の実が搾られる心地よい音が広場へ響く。
やがて私たちの手には、キンキンに冷えた果汁の入ったコップが握られていた。
私と悠斗は顔を見合わせ、どちらからともなく笑ってしまう。
「「いただきます!」」
甘酸っぱい果汁が、歩き疲れた体へじんわりと染み渡っていく。
「「ごちそうさまでした!」」
魔法世界の夕日は、今日もゆっくりと地平線へ沈んでいく。
その色は、私たちの世界よりほんの少しだけ濃いオレンジ色だった。
「また明日な、七奈」
「うん。また明日ね」
私は笑顔で手を振り返し、そっと魔杖を掲げる。
目の前に淡い光をまとったポータルが静かに開いた。
私はその光の中へ、一歩足を踏み入れる。
――体育倉庫。
薄暗い倉庫の奥で空間がゆらりと歪み、私は静かに元の世界へ戻ってきた。
「ふぅ……」
小さく息をつき、体育倉庫の重い扉へ手を掛ける。
ギィ……。
ゆっくりと扉を開けた、その瞬間だった。
「……七奈ちゃん」
聞き慣れた声。
だけど今、一番聞きたくなかった声。
私はゆっくりと顔を上げる。
夕暮れに染まる校庭。
その片隅に、千晴がぽつんと立っていた。
まっすぐに私を見つめる瞳には、もう迷いはない。
静かに。
けれど確信を込めた声で、千晴は口を開く。
「七奈ちゃんって……
──魔法少女、なんだよね?」
心臓が、どくん、と大きく鳴った。
「――え?」




