約束のはじまり 上
ポータルを抜けると、
私はまた黄金樹の下へと戻ってきた。
「あ、あ、あ、あっ……遅刻する――!」
スクールバッグを背負い直し、
私は広場を全力で駆け抜ける。
「お嬢ちゃん、今日もずいぶん急いでるねぇ!」
「そこのお姉ちゃん! 果汁を一杯飲んでいかないかい!」
広場いっぱいに響く、元気な呼び込みの声。
きっとみんなには、
もう見慣れた光景なんだろう。
見慣れない制服を着た女の子が、
毎日のように学院へ向かって全速力で走っていく姿なんて。
「ありがとうございます! でも今日は、本当に遅刻しちゃうんです――!」
息を切らしながら叫び返す。
……けれど。
甘い果汁の誘惑には、
どうしても勝てなかった。
私の足は、おじさんの屋台の前でぴたりと止まってしまう。
「い、一杯ください……」
私は膝に手をつき、肩で息をしながらそう言った。
何度か深呼吸をして呼吸を整えると、
顔を上げ、人差し指を一本立てて見せる。
「あいよ!」
おじさんは威勢よく返事をすると、
木でできた大きめのカップを取り出し、新鮮な果物をぽんぽんと放り込んでいく。
「……ジューサーなのかな?」
私は不思議そうにその木製の機械を眺めながら、
中を覗き込もうと、そっとつま先立ちになった。
「それは企業秘密さ」
おじさんはいたずらっぽく笑いながら、
大きな手で投入口をひょいっと隠してしまう。
むぅ……。
どんな果物が入っているのか、
少しくらい見せてくれてもいいのに。
「はい、お待ちどうさん」
差し出されたのは、
小さな丸太をそのままくり抜いたような、不思議なコップだった。
中には鮮やかな果汁がたっぷりと注がれている。
「ありがとうございます!」
そう言いながら、
私はいつもの癖でポケットから財布を取り出そうとした。
……あ。
そうだった。
この世界では、
私たちの世界のお金は使えないんだ。
「あの、おじさん……」
私は困ったように笑いながら財布を見せる。
「私、これしか持っていなくて……」
おじさんは財布を見て、
それから私の顔を見つめた。
「なるほど。
君は魔法学院の生徒さんなんだね?」
「はい!」
私は何度も大きく頷いた。
「それなら、学院単位で支払っても構わないよ」
学院単位……?
私は首を傾げる。
そんなもの、あったっけ。
頭の中で、
分厚い学院案内のページを必死にめくってみる。
けれど、
まったく思い出せない。
私のぽかんとした顔を見て、
おじさんは苦笑した。
「まだ学院単位を持っていないなら……そうだね。」
少し考えてから、
南の方角を指差す。
「南の森へ行って、『キノコ樽』をいくつか採ってきてくれないかい?」
「でも……」
私は足元を見つめた。
「これから授業があるんです……」
靴のつま先が、
地面をこすった。
声も自然と小さくなっていく。
屋台の前でしばらく考え込んだあと、
私はスカートの裾をぎゅっと握りしめ、顔を上げる。
「……明日じゃ、だめですか?」
明日は土曜日。
向こうの学校はお休みだから、
朝早く来ればきっと間に合う。
「もちろん構わないさ」
おじさんはにっこり笑って、
果汁の入ったコップを私へ手渡してくれた。
手の中に伝わる、
木目のごつごつした感触。
……あれ?
私は思わず目を丸くする。
見た目は木なのに、
触ってみると少しだけ柔らかい。
不思議に思ってコップを持ち上げ、
じっと眺めていると――
「そのコップはね、食べられるんだよ」
おじさんが楽しそうに言った。
「えぇぇっ!?」
私は思わず固まってしまう。
これ……
食べられるの!?
あまりにも予想外の一言に、
頭の中が真っ白になった。
「ほらほら。」
おじさんは機械を拭きながら笑う。
「遅刻するんだろ?」
「あっ!」
私はようやく我に返る。
「ご、ごちそうさまです――!」
コップをしっかり握りしめると、
私は再び学院へ向かって走り出した。
背中の向こうから、
おじさんの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「まったく、今どきの子は元気だねぇ」
学院の正門までたどり着く頃には、
私はもう肩で大きく息をしていた。
「はぁ……はぁ……」
門に手をつきながら、
頭の中で自分の杖を思い浮かべる。
――杖。
ふわり。
淡い光が手の中へ集まり、
お気に入りのステッキが静かに姿を現した。
今日は、小さな星の飾りがついた、シンプルで可愛らしいステッキだった。
もう今では、
大きな声で呪文を唱えなくても、
心の中で思い浮かべるだけで杖を呼び出せるようになっていた。
私は少し嬉しくなって、
手の中のステッキを見つめる。
……先生に見せたら、
褒めてもらえるかな。
えへへ。
「七奈、急がないと本当に遅刻するよ」
低く響く声が、
大鉄門の奥から聞こえてきた。
「あっ、分かってます――!」
私は慌てて返事をする。
すると大鉄門は、
まるで苦笑するように少しだけ隙間を開けてくれた。
「ありがとう!」
私はその隙間をすり抜けるように学院の中へ飛び込み、
そのまま全力で走り出す。
「箒で飛べばもっと早いんじゃないか?」
後ろから、
大鉄門の声が追いかけてきた。
「あっ……」
私は走りながら目をぱちぱちさせる。
そうだった。
飛行魔法はもう習ったんだ。
箒だって、
ちゃんと一本支給されている。
……でも。
「あの箒、見た目が全然可愛くないんだよねぇ……」
思わず小さくつぶやく。
家へ持ち帰ったあと、
ベッドの下へ放り込んだままになっている。
いつか可愛い箒が手に入ったら、
その時はちゃんと乗ろう。
きっと。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン。
その瞬間、
学院中へ重たい鐘の音が響き渡った。
……あ。
終わった。
これは完全に遅刻だ。
どうしよう……。
私は教室の前まで走り、
息を整える間もなく扉を軽く叩いた。
コン、コン。
「入りなさい」
落ち着いた声が返ってくる。
私は恐る恐る扉を開けた。
「失礼します……」
頭を下げたまま、
入口で立ち止まる。
「森野さん」
「……はい」
「二つの世界を行き来している以上、
多少遅れる事情は理解しています。」
柚乃先生は静かな口調でそう言った。
私は恐る恐る顔を上げる。
……やっぱり。
何度見ても、
先生には見えないくらい小さい。
初めて会った時なんて、
普通に年下の女の子だと思ってしまったくらいだ。
ショッピングモールへ連れて行ってあげるね、
なんて話していたら――
その子がそのまま教壇へ上がっていった時は、
本当にびっくりした。
だって、
教壇と身長があまり変わらないんだもん。
「柚乃先生、私……」
「森野さん」
先生の視線が、
すっと私の右手へ向く。
……あ。
私は思わず固まった。
果汁の入ったコップを、
まだ持ったままだった。
慌てて背中の後ろへ隠す。
「次からは気をつけなさい。」
先生は小さくため息をつく。
「席についてください。」
「はい……」
私は肩をすぼめながら、
自分の席へ小走りで向かった。
……やっぱり。
こっちの学校も、
遅刻するとみんなの視線が痛い。
背中に視線が集まるだけで、
なんだか居心地が悪くなってしまう。
「失礼します……」
小さくつぶやき、
私は静かに椅子へ腰を下ろした。
「では、授業を再開します」
柚乃先生が黒板へ向き直る。
教室も再び静かになった。
「魔法は大きく二つの系統に分けられます。」
柚乃先生はチョークを手に取り、
黒板へさらさらと文字を書いていく。
「一つは『通常魔法』。」
「そしてもう一つが、『元素魔法』です。」
黒板には大きく二つの円が描かれ、
その片方から六本の線が伸びていく。
「元素魔法はさらに、
金・木・水・火・土・風の六属性に分類されます。」
先生の落ち着いた声が、
静かな教室へゆっくりと響く。
私はノートを開きながら、
一生懸命話を聞いていた。
……うん。
ちゃんと聞いている。
聞いているんだけど。
先生の声が心地よすぎて、
少しずつまぶたが重たくなってくる。
……ね、眠い。
その時だった。
ぱさっ。
机の上へ、
小さく折りたたまれた紙が滑ってきた。
私はそっと横を見る。
悠斗だ。
紙を開くと、
そこには小さな文字が書かれていた。
『七奈、さっき果汁買ってたの?』
私はこっそり杖を机の下へ向ける。
小さく魔力を流すと、
紙の上へ文字がふわりと浮かび上がった。
『うん。』
少しして、
また紙が滑ってくる。
『まだ学院に来てそんなに経ってないのに、
学院単位持ってるの?』
私は首を振る。
『持ってないよ。』
『だから明日、おじさんのお手伝いをするの。』
『南の森でキノコ樽を採ってくる約束。』
文字が浮かび上がるたびに、
悠斗は「なるほど」と何度も頷いていた。
私たちは夢中になって、
机の下で手紙をやり取りする。
そのせいで――
教室が、
いつの間にか静まり返っていることに、
まったく気づかなかった。
コツ。
コツ。
コツ。
誰かの足音が、
ゆっくりこちらへ近づいてくる。
……あれ?
私は顔を上げた。
「森野さん。」
「風祭くん。」
すぐ目の前には、
腕を組んだ柚乃先生が立っていた。
しまった。
これ、
完全に見つかった。
私と悠斗は同時に立ち上がる。
「す、すみません!」
「教室の後ろへ。」
先生は静かに言った。
「授業が終わるまで立っていなさい。」
「はい……。」
私たちは肩を落としながら、
教室の後ろへ移動する。
周りからは、
くすくすと笑い声が聞こえてきた。
「静かに。」
先生が一言そう告げるだけで、
教室はすぐに静まり返る。
やっぱり。
小さいのに、
すごい迫力だ……。
私は背筋を伸ばしたまま、
授業が終わるのをじっと待つことにした。
……
長かった。
とても長かった。
ようやく先生が本を閉じる。
「今日の授業はここまでです。」
その一言を聞いた瞬間、
私は心の中で大きくばんざいをした。
終わったぁ……。
教室を出ると、
私は思いきり大きく伸びをした。
「はぁぁ……」
ずっと立ちっぱなしだったせいで、
足が少しだけじんじんする。
「災難だったな。」
隣から悠斗が苦笑する。
「もう、悠斗のせいだよ。」
私は頬をふくらませながら睨む。
「えぇ?
最初に返事したの七奈じゃん。」
「だって悠斗が話しかけてきたんでしょ!」
「いやいや、返さなければよかった話だろ?」
「むぅ……」
言い返せない。
私は小さく唇を尖らせた。
悠斗はそんな私を見て、
声を上げて笑う。
「はははっ。」
「もう!」
私は軽く悠斗の腕をぽんっと叩いた。
二人で笑いながら、
赤い絨毯の敷かれた回廊を歩いていく。
天井には大きなシャンデリア。
窓から差し込む夕方の光が、
床へ長い影を落としていた。
「そういえばさ。」
悠斗が歩きながら言う。
「明日、キノコ樽を採りに行くんだろ?」
「あっ、そうだった!」
私は思い出したように顔を上げる。
「南の森だったよね。」
「うん。」
悠斗は頷いた。
「広場から少し歩いたところだよ。」
「じゃあ、一人で行こうかな。」
そう言うと、
「一人?」
悠斗は少し驚いたような顔になる。
「俺も一緒に行くよ。」
「えっ?」
私は思わず立ち止まった。
「いいの?」
「もちろん。」
悠斗は笑って肩をすくめる。
「七奈、一人だと絶対迷うだろ。」
「うっ……」
否定できない。
たぶん迷う。
絶対迷う。
私は目を逸らした。
「それに。」
悠斗は胸を張る。
「俺ならキノコ樽なんて、あっという間に山ほど集められる。」
そう言って、
勢いよく杖を取り出す。
「任せろ!」
どこかで見たような、
主人公らしい決めポーズ。
……。
私はしばらく黙って見つめたあと、
「……ぷっ。」
思わず吹き出してしまう。
「笑うなよ!」
「だって、そのポーズ……。」
私は肩を震わせながら笑う。
「すごく格好つけてるんだもん。」
「うるさいなぁ。」
悠斗は少し照れくさそうに頭をかいた。
しばらく笑ってから、
私は手に持っていたコップを持ち上げる。
「ねぇ、このコップ。」
「キノコ樽っていうんだよね?」
「そう。」
悠斗は頷く。
「木じゃなくて、
キノコの精霊が成長するときに脱ぎ捨てる殻なんだ。」
「精霊?」
私は丸太みたいな見た目のコップを、
もう一度じっくり眺める。
「これが?」
「そうそう。」
悠斗は笑う。
「乾燥すると木みたいになるけど、
中は柔らかいんだ。」
「へぇ……。」
私は恐る恐る、
端っこを小さくかじってみた。
サクッ。
その瞬間だった。
「おいしい!」
思わず目を見開く。
外はサクサク。
中はふわっと柔らかくて、
噛むたびにじゅわっと旨味が広がっていく。
「すごい!」
「見た目は木なのに!」
私は夢中になって、
もう一口かじる。
「これ、
とんかつみたい!」
悠斗は呆れたように笑う。
「七奈は食べ物のことになると、
本当に幸せそうだな。」
「だって美味しいんだもん。」
私は頬いっぱいにキノコ樽を頬張りながら答えた。
「じゃあ。」
悠斗が笑顔で言う。
「明日は昼頃に広場で待ち合わせな。」
「うん!」
私は元気よく頷く。
「約束だよ!」
「もちろん。」
悠斗も笑って親指を立てた。
私は残っていたキノコ樽を大事そうに抱えながら、
心の中でこっそり考える。
……これ。
たくさん持って帰れたら。
いつでも食べられるんじゃないかな。
へへへ。
想像しただけで、
なんだか幸せな気分になってしまう。
そんな私の顔を見て、
「……七奈。」
悠斗は苦笑した。
「また食べること考えてるだろ。」
「えっ。」
私は思わず肩をびくっと震わせる。
「な、なんで分かったの?」
「顔に全部書いてある。」
「えぇぇっ!?」
私は慌てて両手で自分のほっぺたを押さえた。
悠斗はとうとう吹き出してしまう。
「はははは!」
「もうっ!」
回廊には、
二人の笑い声がいつまでも響いていた。
気がつくと、
私たちはいつの間にか黄金樹の下まで戻ってきていた。
夕日に照らされた黄金樹は、
昼間とはまた違う優しい色に輝いている。
風が吹くたびに、
金色の葉がさらさらと揺れた。
「じゃあ、また明日な。」
悠斗が笑いながら手を振る。
「うん。」
私はにこっと笑って頷いた。
「明日、お昼に広場でね。」
「了解。」
悠斗は軽く手を上げる。
私は深呼吸をひとつすると、
頭の中に学校の体育倉庫を思い浮かべた。
積み重ねられたマット。
壁際に並ぶボール。
少しだけ埃っぽい空気。
景色をはっきり思い描くと、
杖をゆっくり持ち上げる。
「ポータル。」
杖の先から淡い光が伸び、
目の前の空間へ一枚の扉が描かれていく。
青い光がゆらゆらと揺れた。
「それじゃ。」
私はもう一度悠斗へ手を振る。
「また明日!」
「おう。」
その返事を聞いてから、私はポータルの中へ足を踏み入れた。
ふわり。
体が少しだけ浮き上がるような感覚。
次の瞬間には、
見慣れた体育倉庫の景色が目の前に広がっていた。
積み上げられたマット。
床に転がるサッカーボール。
少し色あせた跳び箱。
「よかったぁ……。」
私はほっと胸をなで下ろす。
ポータルにも、
ようやく慣れてきたみたい。
最初の頃は行き先をうまく思い浮かべられなくて、
川のすぐ近くへ出てしまったこともあった。
あの時は足を滑らせて、
そのまま川へ落ちてしまったんだよね。
びしょ濡れのまま帰ったら、
お父さんにもお母さんにもすごく心配されちゃったっけ。
思い出すだけで、
少しだけ恥ずかしくなる。
私は苦笑しながら体育倉庫の扉をそっと開けた。
夕日はまだ空の端に残っている。
これなら、
夕ご飯にも十分間に合いそう。
そんなことを考えながら歩き出した、その時だった。
「七奈!」
突然、
木陰から誰かが飛び出してきた。
「きゃっ!」
私は思わず肩を震わせる。
「千晴!?」
目の前には、
少し頬を膨らませた千晴が立っていた。
「びっくりしたぁ……。」
私は胸を押さえながら息をつく。
「もう、驚かさないでよ。」
「それはこっちのセリフだよ。」
千晴は腕を組んで、
じっと私を見つめる。
「最近ずっと『用事がある』って言ってたでしょ?」
「う、うん……。」
「だから気になって待ってたの。」
そう言うと、
千晴は私の横を通り過ぎ、
体育倉庫の中を覗き込んだ。
中には誰もいない。
いつも通り、
マットやボールが置かれているだけだった。
「……やっぱり誰もいない。」
千晴は不思議そうに首を傾げる。
「七奈、本当に何してるの?」
「あはは……。」
私は頭をかきながら笑う。
「最近ちょっとね。」
「一人で静かに考え事をしたい日が多くて。」
「だから、ここで少しだけぼーっとしてるの。」
もちろん、
本当のことなんて言えるはずがない。
千晴は少し黙ったまま、
私の顔を見つめていた。
やがて小さく息を吐くと、
そっと私の肩へ手を置く。
「七奈。」
その声は、
とても優しかった。
「何か悩みがあるなら、一人で抱え込まないでね。」
「私でよかったら、
いつでも話を聞くから。」
私は一瞬だけ言葉に詰まる。
胸の奥が、
少しだけ痛くなった。
……ごめんね。
本当は話したい。
でも、
話せないんだ。
私は精一杯笑顔を作る。
「ありがとう。」
「でも本当に大丈夫。」
「ちょっと疲れてるだけだから。」
千晴はしばらく私を見つめていたけれど、
やがて安心したように微笑んだ。
「そっか。」
「でも、無理だけはしないでね。」
「だって――」
千晴は照れくさそうに笑う。
「私たち、親友なんだから。」
夕焼け色の光が、
私たち二人をやさしく包み込む。
風が吹き抜け、
校庭の木々が静かに揺れていた。
「ただいまー!」
玄関のドアを開けると、家の中から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「おかえり。」
リビングから、お兄ちゃんが優しく笑いかける。
「今日は学校、どうだった?」
ローファーを脱ぎながら、私は元気よく答えた。
「うん! いつも通りだったよ!」
スクールバッグを肩から下ろしながらリビングへ向かう。
すると。
「あっ……!」
思わず足を止めた。
お兄ちゃんの隣に、
懐かしい姿がちょこんと座っていた。
「うさぎ先生!」
思わず声が弾む。
お兄ちゃんは私の反応を見て、小さく笑った。
「少し汚れてたからさ。」
「洗っておいたよ。」
そう言って、
うさぎ先生を両手で持ち上げる。
私は嬉しくなって、
思わず駆け寄った。
「ありがとう!」
受け取ると、
ふわりと石けんの優しい香りが鼻をくすぐる。
ぎゅっと抱きしめる。
やっぱり落ち着く。
胸元についた赤い宝石も、
あの日と変わらず静かに輝いていた。
まるで、
「おかえり」
って言ってくれているみたいだった。
その時。
「ご飯できたわよー!」
台所から、お母さんの明るい声が聞こえてくる。
テーブルの上には、
湯気の立つ料理が次々と並べられていく。
焼き魚。
お味噌汁。
それから、
お豆腐の炒め物。
どれも、
私の大好きなご飯だった。
「いただきます!」
家族みんなで手を合わせる。
お味噌汁から立ちのぼる湯気が、
食卓をふんわり包んでいた。
お兄ちゃんと、
お父さんと、
お母さん。
いつもと変わらない、
当たり前の夕食。
だけど今は。
この「当たり前」が、
少しだけ特別に感じる。
昼間は魔法学院。
夜は家族と過ごす時間。
まるで、
二つの世界を行ったり来たりしているみたい。
そんな毎日も、
悪くないかもしれない。
夜。
私はベッドへ潜り込み、
うさぎ先生を胸へぎゅっと抱きしめた。
明日は土曜日。
悠斗くんと一緒に、
南の森へ行く約束をしている。
どんな森なんだろう。
小さなうさぎさんはいるかな。
リスもいるかな。
それとも——
もっと不思議な生き物に出会えるのかもしれない。
そんなことを考えていると、
自然と頬がゆるむ。
「楽しみだなぁ……」
小さく呟いた声は、
誰にも届かないまま部屋へ溶けていった。
窓の外では、
夜風がカーテンをそっと揺らしている。
私はうさぎ先生をもう一度抱きしめる。
その温もりに包まれながら、
ゆっくりと目を閉じた。
やがて部屋には、
規則正しい寝息だけが静かに響いていた。




