魔法学院へ入学!上
「ただいまー」
「おかえり!」
玄関に立ったまま、私はリビングを見た。
お母さんが床を掃除している。
「お父さん、まだ帰ってないの?」
「もう少し遅くなるみたいよ」
外はだんだんと暗くなっていく。
食卓を囲んで、三人で夕食を食べた。
「ちゃんと野菜も食べなさい。好き嫌いはダメよ」
お母さんが青菜をつまんで、私の茶碗に入れる。
「七奈、今日は学校どうだった?」
お父さんが新聞を置いて、私に笑いかけた。
「……普通かな」
テレビの音と、食器の音が混ざって響く。
でも、
何かが少し足りない気がした。
「七奈、七奈」
「……誰?」
耳元で、知っている声がした。
ケーキを買ってくれた時の声。
プレゼントをくれた時の声。
「……ん」
目を開けると、私はベッドの上にいた。
「お兄ちゃん……帰ってきたの?」
部屋の中は少し散らかっている。
本棚の本が床に落ちていて、入口の近くには大きな鉄鍋まで置かれている。
熱気が、ゆっくりと立ちのぼっていた。
私は無意識に横へ手を伸ばす。
……よかった。
うさぎさんは、ちゃんとそこにいた。
ベッドの上に座り直し、頭を押さえる。
何が起きたのかを思い出す。
風の塊。
まぶしい光。
そして——
「大丈夫かい、七奈」
ベッドのそばに、滕代先生がいた。
優しい目で私を見ている。
手にはコップがあった。
緑色の縁取りがあり、どこか木のような温もりがある。
受け取ると、ひんやりとして気持ちいい。
「滕代先生……」
私は顔を上げた。
「悠斗くんは?」
「安心しなさい。隣の部屋にいるよ」
先生は軽く笑って、私の頭を撫でた。
「あの子は余波で気絶しただけだ。少し休めば大丈夫だよ」
「それよりもね」
先生の視線が、私の横に向く。
「正確に言えば、そのうさぎが君たちを守ったんだ」
「うさぎさんが?」
私はうさぎさんを見る。
いつも通り、そこに静かに座っているだけだった。
「中に、かなり強い魔力が込められていた」
先生は言葉を区切る。
「ただ、防御魔法は一度きりのものだったみたいだね。もう効力はない」
私はコップを置き、うさぎさんを抱きしめた。
「そっか……うさぎさんが守ってくれたんだ」
「それで、それは本当にお兄さんがスーパーで買ったものなのかい?」
先生はうさぎさんをじっと見つめる。
「はい。何軒も回って、やっと買ったんです」
先生は小さく息を吐いた。
「……誰かが魔法道具を外に持ち出したということか」
その時——
「七奈、目が覚めたか」
ドアが静かに開いた。
白いローブを着た男が入ってくる。
「学院長」
先生が立ち上がり、軽く頭を下げる。
「えっ……学院長?」
私は目の前の男を見る。
年齢は滕代先生とあまり変わらない。
もっと白髪で長いひげの人を想像していた。
学院長は少し笑った。
「魔法の世界は、思っていたものと少し違うだろう?」
私は小さく頷いた。
「では、こういう世界は楽しいかい?」
また頷く。
「空を飛ぶかぼちゃの列車とか、大きな果物の家とか……」
学院長は満足そうに笑った。
「七奈。魔法使いになりたいかい?」
私は一瞬うなずきかけて——
すぐに首を強く振った。
「い、いいえ。ここは綺麗だけど……危ないです」
「なぜ普通の子を入学させようとしているんですか」
滕代先生が焦ったように言う。
学院長は軽く手を振った。
「空を飛べることや、物を動かせることは素敵だと思わないかい?」
「それは……そうですけど」
私はうさぎさんを見る。
そして顔を上げた。
「でも私は、お兄ちゃんのそばで普通に暮らしたいです」
言った瞬間、胸が小さく跳ねた。
「あ……家族と一緒にいたいって意味です!」
学院長は優しい目で私を見た。
「七奈、君の選択を尊重しよう」
杖が軽く動くと、緑色の光が浮かぶ。
「ねえ、学院長」
私はその光を見つめたまま言った。
「朝ごはんに間に合いますか?」
学院長は吹き出した。
その笑いとともに、杖の光もふっと消える。
「七奈、ここでのことを忘れたいかい?」
「学院長!」
滕代先生が驚いて振り返る。
私は少しうつむいた。
思い出す。
空から落ちたこと。
果物の家。
かぼちゃの列車。
そして——
「守るよ」と言った悠斗の声。
私は首を振った。
学院長は静かに頷く。
「なら、その記憶は残そう」
「え……?」
「黄金樹と悠斗を救った、君への報酬だ」
「私が……?」
「君が矢野を止めなければ、間に合わなかった」
学院長はうさぎさんを見る。
「だから、そのまま持って帰りなさい」
次の瞬間、杖が強く光った。
光が広がっていく。
世界が白く溶ける。
——
「七奈、起きる時間だよ」
目を開けると、見慣れた部屋だった。
机。カーテン。朝の光。
隣には、うさぎさん。
「七奈、早く起きろよ」
ドアの向こうからお兄ちゃんの声。
「朝ごはん遅れるぞ」
「起きてるよ!」
朝の光が、いつも通り部屋に差し込んでいた。
お昼休み。
私は千晴と一緒に校庭の階段に座って、お弁当を食べていた。
「千晴、あのね。私、昨日ね、魔法使いの夢を見たんだ」
「本当?」
千晴は箸を動かしながら、ミートボールを口へ運ぶ。
「うん。男の子と一緒に箒に乗って、空を飛んでね……」
千晴はくすっと笑った。
「アニメの見すぎじゃない? ほら、早く食べなよ」
「そうかなぁ……」
私は苦笑いしながら、お弁当を食べ始めた。
放課後。
私はいつもの帰り道を歩いていた。
夕日が体をぽかぽかと温めてくれる。
ふと横を流れる小川へ目を向ける。
水は静かに流れていた。
その時だった。
少し離れた場所で、大きな水しぶきが上がる。
私は思わずそちらを見た。
一匹の子猫が水の中でもがいていた。
今にも沈んでしまいそうだった。
「大変!」
私は慌てて川辺へ駆け下りる。
草むらの近くに落ちていた枝を拾い、子猫へ向かって差し出した。
でも——
届かない。
私は地面に這いつくばり、精いっぱい手を伸ばす。
あと少し。
あと少しなのに。
もし……
私にも魔法が使えたら。
もし悠斗くんみたいに、杖を持っていたら——。
そう思った瞬間だった。
胸の奥で、小さな水滴が静かな湖へ落ちたような感覚がした。
目の前に一本の杖が現れる。
「えっ……」
私は枝を放り出し、その杖を握った。
昨日の出来事……
やっぱり夢じゃなかったんだ。
考える暇なんてなかった。
私は杖を子猫へ向ける。
「浮いて……お願い、浮いて!」
必死に叫ぶ。
でも子猫は流されていく。
「どうして……!」
私は杖を見つめた。
その時だった。
『魔法を使う時は、ちゃんと集中するんだ』
悠斗くんの声が頭に浮かぶ。
箒に乗って飛んでいた時の姿も思い出した。
私は静かに目を閉じる。
集中。
ただ、それだけ。
心の中が少しずつ静かになっていく。
「──浮遊」
その言葉を口にした瞬間。
体の奥から何かが少しだけ抜けていくような感覚がした。
私は目を開ける。
杖を持つ手はまだ震えている。
けれど——
子猫が。
本当にふわりと宙へ浮かんでいた。
「えっ……」
思わず息を呑む。
私……
本当に魔法が使えたんだ。
子猫は空中で足をばたばたさせながら、ゆっくり岸へ近づいてくる。
その時。
「──瞬間移動」
後ろから声が聞こえた。
私は驚いて振り返る。
「学院長……」
慌てて杖を後ろへ隠した。
「もう見えてるよ」
学院長は楽しそうに笑った。
まるで最初から全部知っていたみたいだった。
夕日の中。
私は学院長と並んで川辺の階段へ座った。
「学院長……どうして私が杖を持っているんですか?」
私は手の中の杖を見つめる。
夕日に照らされ、木目が優しく浮かび上がっていた。
学院長は穏やかな声で言う。
「黄金樹の下で起きたことを思い出してごらん」
「えっと……
風が吹いて……
それから……」
私ははっと顔を上げる。
「もしかして……あの水滴ですか?」
「そうだよ」
学院長は静かに頷いた。
「君を療養室へ運んだ時には、もう君の中に小さな魔力が宿り始めていた。」
「だから……
あの時あんなことを聞いたんですね。」
学院長は微笑んだ。
「魔法学院の生徒を選ぶのは、黄金樹だけじゃない。」
少し間を置く。
「その人の心も見ているんだ。」
学院長は私を見つめた。
「七奈。
魔法学院へ来る気はないかい?」
私は言葉を失う。
「私は……
私は……」
学院長は優しく続けた。
「君が普通の暮らしを望んでいることは知っている。」
「だけど。」
「大切なものを守る力があった方が、もっと安心できると思わないかい?」
私は小川を見る。
助けた子猫。
そして——
少し頼りなくて。
でも誰より優しかった魔法使いの少年。
「私……」
私はゆっくり顔を上げた。
「行きます。」
学院長は優しく微笑んだ。
夕日に照らされたローブが、ゆっくりと大きな法衣へ姿を変える。
次の瞬間。
景色がゆらりと揺れた。
世界全体が光に包まれていく。
そして——
瞬きをした、その瞬間。
私たちは再び、
黄金樹の下へ立っていた。




