まだ、帰りたい
「――矢野!」
悠斗が叫ぶ。
そのまま私の前へ一歩出ると、
遠くの屋根に立つ男を睨みつけた。
「……」
矢野先生は何も答えない。
ただ静かに、私たちへ視線を向ける。
その目が、
胸元で止まった。
「……なるほど」
視線を落とす。
さっきの魔力に反応したのか、胸につけていた徽章が、淡い光を放ちながら点滅していた。
「魔法学院は今、
こんな若い生徒まで鏡の世界へ入れているのか」
矢野先生は小さく息を吐く。
「白川も、ずいぶんと甘くなったものだな」
「何をしに来たんだ」
悠斗が低い声で問いかける。
杖を握る手に、
少しだけ力がこもった。
けれど。
矢野先生は答えなかった。
もう、
こちらを見てすらいなかった。
遠くの空へ目を向け、
小さく舌打ちする。
「……面倒だ」
手にした杖を、
静かに掲げる。
次の瞬間。
その姿が煙のように揺らぎ――
ふっ。
跡形もなく消えてしまった。
「……消えた?」
思わず呟く。
悠斗は何も答えなかった。
ただ、
矢野先生が立っていた屋根を、
しばらく睨みつけていた。
でも。
「……悠斗」
「ああ」
周囲を見回す。
さっき風に吹き飛ばされた人々が、
再びゆっくりと立ち上がっていた。
一人。
また一人。
こちらへ向かって歩き始める。
「帰りたい……」
「待ってくれ……」
「俺たちも……」
じり。
じり。
少しずつ、
その距離が縮まっていく。
私と悠斗は背中を寄せ合い、
もう一度杖を強く握りしめた。
(どうしよう……)
(私、まだ――)
(まだ、お家に帰りたい……!)
(お父さんにも、お母さんにも――)
(お兄ちゃんにも、まだ会いたい……!)
(誰か……)
(誰か、助けて!)
その時だった。
「――上がれ」
「……え?」
聞き覚えのある声が、空から降ってきた。
思わず顔を上げる。
灰色の空に、
いつの間にか一枚の赤い絨毯が浮かんでいた。
中央には、
精巧な星の模様が刺繍されている。
「絨毯……?」
次の瞬間。
するすると、一本の長い縄が垂れてきた。
「早く掴まれ」
私と悠斗は顔を見合わせる。
「……どうする?」
「掴むしかないだろ!」
二人同時に、縄へ飛びついた。
(掴まなかったら、今度こそ本当に終わっちゃう!)
私たちが掴まった瞬間。
縄が、ものすごい勢いで巻き上げられる。
「えっ」
「ちょ、ちょっと――」
「速い速い速いぃぃぃ!」
「しっかり掴まっていろ」
男の声が、絨毯の風切り音と一緒に耳へ届く。
「そんなこと言われてもぉぉぉ!」
どうにか絨毯の上へ這い上がる。
「はぁ……」
「た、助かった……」
そこでようやく、私たちは声の主が誰なのか分かった。
「……滕代先生!」
滕代先生は、私たちへ背中を向けたまま絨毯を操っていた。
その肩では、
一羽のフクロウがくるりと首だけをこちらへ向ける。
「ホゥ」
その姿を見た途端、張りつめていた力が少しだけ抜けた。
「滕代先生、ありがとうございます!」
「また先生に助けてもらっちゃいました……」
少し申し訳なくなって、
頭をかきながら笑う。
滕代先生は、前を向いたまま答えた。
「教師として当然のことをしただけです」
「ただし」
「……はい?」
滕代先生が、ゆっくりと振り返る。
眼鏡を押し上げながら、
私と悠斗をじっと見た。
「なぜ、あなたたちがここにいるのですか?」
「……」
私と悠斗は、同時に目を逸らした。
「えっと……」
「院長先生の授業です!」
慌てて答える。
「鏡の世界で一日過ごしてきなさいって」
「院長が?」
滕代先生は、しばらく黙り込んだ。
「……相変わらず」
小さく息を吐く。
「何を考えているのか、分からない人ですね」
「とにかく」
再び前へ向き直る。
「一度、時計屋へ戻りましょう」
「はい!」
「お願いします!」
◇
帰り道。
私たちは、赤い絨毯の上から街を見下ろしていた。
雲がすぐ横を、ゆっくりと流れていく。
滕代先生の肩では、
フクロウが時々くるくると首を回していた。
じーっ。
少しだけ近づいてみる。
「……ホゥ?」
フクロウの首が、
くるりとこちらへ向いた。
「……」
「ホゥ」
ぱたぱた。
小さく翼を動かす。
「ふふっ」
思わず笑ってしまう。
「かわいい……」
「ホゥ」
「ねぇねぇ」
「……ホゥ?」
「さっきから何を見てるの?」
「ホゥ」
「ふふっ」
その様子を眺めているうちに、
ふと気になった。
「そういえば、滕代先生」
「何ですか?」
「先生は、どうして鏡の世界にいたんですか?」
少しだけ、沈黙が流れた。
「それは」
滕代先生は、前を向いたまま答える。
「今のあなたたちが知る必要はありません」
「えぇ……」
思わず頬を膨らませる。
「またそれですかぁ」
◇
やがて。
赤い絨毯は、
時計店の前へゆっくりと降りていった。
地面へ足をつける。
すると。
「……あ」
店の前には、
院長先生が静かに立っていた。
「院長先生!」
院長先生はこちらを見る。
「滕代」
「矢野の件は、
どうでしたか?」
それから。
滕代先生の後ろにいる、
私と悠斗へ視線を向けた。
「……七奈と悠斗も一緒でしたか」
「途中で少々、
面倒なことになっていましたので」
滕代先生が、
ちらりと私たちを見る。
「連れて戻りました」
「……」
私と悠斗は。
ぴしっ。
同時に背筋を伸ばした。
(ま、また怒られる……?)
(今度こそ、
院長先生に告げ口されちゃう……?)
恐る恐る、
滕代先生を見る。
けれど。
「それより」
滕代先生は眼鏡を押し上げた。
「矢野についてですが」
懐から、
数枚の写真を取り出す。
「これを」
「……写真?」
私と悠斗も気になって、
横からひょこっと顔を覗かせた。
「……」
「……」
どの写真も、
少し――
いや。
かなり傾いていた。
「これ……」
「何を撮った写真なんだ?」
悠斗が首を傾げる。
どうにか分かるのは。
一人の男が、
杖を手に何かをしていること。
そして。
その足元に――
大量の黄金葉が、
散らばっていることだった。
「……あれ?」
悠斗が写真へ顔を近づける。
「この葉っぱ」
「全部、
枯れてないか?」
私も目を凝らす。
一枚。
二枚。
三枚。
どの黄金葉も、
以前見たような輝きを、
完全に失っていた。
「なぜ……?」
院長先生が、
静かに答える。
「中に蓄えられていた魔力を」
「すべて使い切ったからです」
「……全部?」
院長先生は答えなかった。
ただ。
写真の中の、
光を失った黄金葉を見つめている。
一枚。
二枚。
数え切れないほど。
そのすべてが、
枯れていた。
「……はぁ」
やがて。
院長先生は、
深く息を吐いた。
そして、
私たちへ背を向ける。
「滕代」
「二人を学院へ戻してください」
「分かりました」
滕代先生が杖を掲げる。
空中へ、
一枚の鏡が現れた。
杖を軽く振ると、
鏡面がゆらりと揺れ、
淡い光を放ち始める。
「行きますよ」
「はい」
滕代先生が、
先に鏡の中へ入っていく。
私と悠斗も、
その後へ続いた。
鏡へ足を踏み入れた。
その時だった。
背後から。
院長先生の小さな声が、
耳へ届いた。
「……花紋鼠を一匹蘇らせるだけで」
「これほどの魔力を……」
「……え?」
思わず振り返る。
(蘇らせる……?)
(復活には、
魔力が必要なの?)
でも。
問いかけるより先に。
鏡の光が、
私たちを包み込んだ。
◇
鏡の世界。
人気のない屋根の上に、
一人の男が再び姿を現した。
矢野は、
しばらくその場に立ち尽くしていた。
ふと。
先ほどの声が、
耳の奥に蘇る。
――七奈、先に行け!
――でも――
――早く!
「……」
矢野は、
ゆっくりと目を閉じた。
「……もし」
拳を、
強く握りしめる。
「もし、あの時」
「俺にも力があったなら……」
しばらくの沈黙。
やがて。
「……晴奈」
小さく、
その名前を呼ぶ。
「もう少しだけ」
「もう少しだけ、待っていてくれ」




