いつも通りの、その先で
夜の街を、街灯の明かりが明るく照らしていた。
空を見上げれば、バナナみたいな月が、もう高いところまで昇っている。
(あああっ、もっと速く走ってよぉぉぉ!)
夜の道を走りながら、何度も腕時計へ目を落とす。
――20時15分。
「うぅ……」
家へ続く道の先。
門の前に、誰かが立っていた。
きょろきょろと辺りを見回しながら、何かを探している。
その姿が見えた瞬間。
走っていた足が、少しずつ止まっていった。
「……」
「お母さん!」
もう一度、勢いよく駆け出す。
私の声に気づいて、お母さんがこちらを振り返った。
「七奈!」
「もう、どこに行ってたの?
こんなに遅くまで――」
その言葉が終わるより先に。
ぎゅっ。
お母さんへ抱きついた。
「……七奈?」
「……」
「どうしたの?」
「なんでもない……」
そう答えたまま、お母さんの胸へ顔を埋める。
お母さんは、しばらく何も言わなかった。
ただ。
私の頭を、そっと撫でてくれた。
「七奈」
「……うん」
「今度から、こんなに遅くなっちゃ駄目だからね」
「うん……」
少しだけ震えた声で答える。
それから顔を上げて、お母さんへ笑った。
◇
お母さんが電話をしてから、しばらくして。
お父さんとお兄ちゃんも、外から帰ってきた。
どうやら、二人で私を探しに行っていたらしい。
そして。
当然というか。
その日の夕食では、お父さんにたっぷり叱られることになった。
「まったく、こんな時間までどこに行ってたんだ」
「連絡くらいしなさい」
「……はーい」
「『はーい』じゃない」
「……はい」
食卓を囲みながら、みんなの小言を聞く。
私は何も言わず。
ぱく。
もう一口。
ぱく、ぱく。
いつもより少しだけ多く、ご飯を口へ運んだ。
ぽたっ。
「……」
白いご飯の上へ、一滴だけ何かが落ちた。
慌てて、もう一口かき込む。
(……今日のご飯)
(なんだか、ちょっとしょっぱいな)
◇
夜。
ベッドへ横になり、窓の外を眺める。
夜空では、いくつかの星が時々小さく瞬いていた。
窓辺の小さな芽も。
いつの間にか、また少しだけ大きくなったような気がする。
「……ただいま」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
うさぎさんを、ぎゅっと抱きしめる。
その温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
それから数週間。
私は、いつもと変わらない毎日を過ごしていた。
昼間は学校へ行って。
放課後になれば、柚乃先生のところで魔法の勉強。
「七奈ちゃん、気をつけて帰るのよ」
「森野さん、ちゃんと集中してください」
「は、はいっ!」
……。
(みんな心配してくれるのは、嬉しいんだけど。やっぱり、ちょっとだけ疲れるかも。えへへ……)
◇
今日も放課後になると、いつものように魔法学院へやって来た。
「柚乃先生、来ましたー!」
手を振りながら、目の前の女の子へ駆け寄る。
(……正確には、先生なんだけどね)
「森野さん、最近は遅刻しなくなりましたね」
「えへへ。これからも頑張ります!」
「そうですか。
先生も期待していますよ」
やがて。
柚乃先生が、集まった私たちを見回した。
「それでは、皆さん揃ったようですね」
「今日は前回の続きをします」
そう言って、柚乃先生は一枚の黄金葉を取り出した。
「今日も前回と同じように、自分の魔力を黄金葉へ蓄えてもらいます」
続いて取り出したのは、すでに魔力が蓄えられた黄金葉。
葉の表面が、夕日の中できらきらと輝いている。
「それでは皆さん、始めてください」
「はーい!」
周りの生徒たちを見回す。
(私も、遅れないようにしなくちゃ)
小さく頷いて、前回もらった黄金葉を取り出した。
広場では。
みんながそれぞれ杖を構え、黄金葉へ魔力を注ぎ始めていた。
「皆さん、できるだけ自分の魔力を使ってくださいね」
「そうすることで、少しずつ扱える魔力の量も増えていきますから」
柚乃先生は、広場で練習する生徒たちの間を歩いていた。
時々、
手の中で杖をくるりと回しながら、
一人ひとりの様子を見ていく。
「七奈」
「ん?」
声に振り向くと、悠斗がこちらへ顔を寄せてきた。
「見ろよ、俺の黄金葉!」
得意そうに差し出された手の上には、一枚の黄金葉。
まだそれほど強い輝きではないけれど。
葉の表面には、すでに細かな金色の光が瞬いていた。
「わぁ……」
思わず、顔を近づける。
「すごい……」
「だろ?」
悠斗は、両手を腰に当てる。
「何たって、俺だからな!」
(すごい自信……)
私は自分の黄金葉へ目を落とした。
「よし」
杖を構える。
「私もやってみよう」
目を閉じて。
身体の中にある魔力へ、ゆっくりと意識を向ける。
「……?」
その時。
何かが、身体の奥に触れたような気がした。
(……あれ?)
もう一度、意識を集中させる。
身体の中にある魔力が、どこかへ引っ張られている。
ほんの少しずつ。
細い糸で、遠くから引かれているみたいに。
「……変なの」
目を開ける。
手にした杖を、じっと見つめた。
「私、まだ何もしてないのに……」
「どうした?」
悠斗が、横から顔を覗き込んでくる。
「うーん……」
首を傾げる。
「分かんない」
「なんかね、身体の中の魔力が変なの」
「変?」
「うん」
胸元へ手を当てる。
「何かに、引っ張られてるような……」
「え?」
悠斗も目を閉じた。
「……」
「……」
しばらくして。
ぱちっ。
目を開ける。
「別に何も感じないぞ?」
「えぇ……?」
「七奈、具合悪いんじゃないか?」
そう言うと。
悠斗は、私の周りをぐるぐる回り始めた。
右から。
じーっ。
左から。
じーっ。
「……」
「……何?」
「いや」
また反対側へ回る。
じーっ。
「ちょっと!」
思わず振り返る。
「そんなふうに見ても、分かるわけないでしょ!?」
「……それもそうだな」
「もう!」
「……あっ!」
悠斗が、ぽんっと拳を手のひらへ打ちつけた。
「柚乃先生ー!」
「ええっ!?」
慌てて悠斗を見る。
「ちょっと、わざわざ先生を呼ばなくても――」
「どうしましたか、風祭さん?」
声を聞いた柚乃先生が、こちらへ歩いてきた。
「七奈の魔力が、なんか変らしいです」
「ちょっと悠斗!」
柚乃先生が、私を見る。
「どうしたのですか、森野さん?」
「えっと……」
もう一度、胸元へ手を当てる。
「身体の中の魔力が」
「何かに、引っ張られているような気がするんです」
「引っ張られている……?」
柚乃先生の表情が、少しだけ変わった。
私の手を取り、そっと目を閉じる。
「……」
しばらく。
何も言わない。
やがて。
「……おかしいですね」
小さく呟いて、目を開けた。
そして。
手にした杖を、静かに掲げる。
「――現れなさい」
杖先から、青い光が溢れ出した。
光は空中で集まり。
少しずつ。
翼を作り。
長い脚を作り。
やがて――
一羽の大きな鶴となって、広場へ降り立った。
「わぁっ!」
私だけじゃない。
周りにいた生徒たちも、一斉に声を上げる。
鶴の身体は、透き通るような水色。
その中を。
まるで小さな川のように、青い魔力がゆっくりと流れていた。
「すごい……」
見上げる。
私よりも、ずっと大きい。
「柚乃先生、これは何ですか?」
「皆さん」
柚乃先生が、私たちの方へ振り返った。
「これは、『具象化』と呼ばれる魔法です」
「先生!」
一人の生徒が、手を上げる。
「具象化って、何ですか?」
「そうですね……」
柚乃先生は、後ろに立つ鶴へ手を向けた。
「魔力には、本来決まった形がありません」
「具象化とは、そんな魔力に一時的な形を与える魔法です」
「へぇー!」
「じゃあ、先生は鶴が好きなんだ!」
「私も鶴、かわいいと思う!」
広場のあちこちから、声が上がる。
「こほん」
柚乃先生が、小さく咳払いをした。
「……形は、術者のイメージによって変わります」
そう言って、もう一度鶴へ目を向けた。
「……」
透き通った身体の中を。
青い魔力が、静かに巡っている。
でも。
「……あれ?」
目を細める。
身体を流れていた魔力の中から。
細い光が、一本。
また一本。
ゆっくりと外へ流れ出していた。
風に流されているわけじゃない。
まるで。
何かに引かれているように――
同じ方向へ。
「……南?」
思わず呟く。
「南の方に、
流れていってる……?」
「……」
柚乃先生が。
一瞬だけ、こちらを見た。
「……先生?」
けれど。
すぐに、鶴へ視線を戻す。
その眉が、わずかに寄っていた。
(……あれ?)
(柚乃先生が、こんな顔するの)
(初めて見たかも……)
なんだろう。
胸の奥が、少しだけざわざわする。
(もしかして……)
(何か、起きてるのかな)
「――皆さん」
柚乃先生の声が、広場へ響いた。
「今日の授業は、ここまでにします」
「え?」
柚乃先生が、杖を軽く振る。
すると。
大きな鶴は、ゆっくりと翼を広げた。
ぱさっ。
一度。
もう一度。
そして。
青い光の粒となって、空へ消えていった。
「今日練習した黄金葉は、次の授業で確認します」
「それでは」
「今日は、これで終わりです」
一瞬。
広場が静かになる。
そして――
「やったー!」
「今日は早い!」
「先生、ありがとうございましたー!」
何人かの生徒は、嬉しそうに飛び跳ねていた。
でも。
私は。
足早に学院の建物へ向かっていく、柚乃先生の背中を見つめていた。
「……」
(やっぱり)
(何か、あったのかな……)
「七奈」
「……ん?」
悠斗が、隣へやって来る。
「何見てるんだ?」
「うーん……」
柚乃先生が消えていった方を見る。
「なんか」
「何か起きそうな気がする」
「考えすぎだろ」
悠斗は、気にした様子もなく笑った。
「それよりさ」
「今日は珍しく早く終わったんだし、どこか遊びに行かないか?」
「えぇー……」
少しだけ考える。
そして。
前に遅く帰った日のことを、思い出した。
「……やめとく」
「また遅く帰ったら、この前みたいに怒られちゃうもん」
「そっか……」
悠斗は、少し残念そうに肩を落とした。
「じゃあ、帰り道気をつけろよ」
「うん!」
手を振る。
「じゃあね、悠斗!」
「またな!」
私はそのまま、家へ続く道を歩き始めた。
◇
街では。
いつもと変わらず、たくさんの人が行き交っていた。
私は俯きながら。
小さな石が敷き詰められた道を、ゆっくりと歩いていく。
(柚乃先生)
(すごく急いでたなぁ……)
足元の小石を、こつん。
軽く蹴る。
(やっぱり、何かあったのかな……)
その時だった。
ばさっ。
「……え?」
何かが。
空から、私の目の前へ落ちてきた。
「……小鳥?」
慌てて、その場へしゃがみ込む。
両手で、小さな鳥をそっと抱き上げた。
「大丈夫……?」
鳥はまだ。
小さく翼を、ぱたぱたと動かしている。
でも。
その力は。
少しずつ。
弱くなっていた。
「……え?」
◇
南の森。
その奥深くにある、一つの洞窟。
周囲から。
目には見えない魔力が、絶え間なく流れ込んでいた。
森から。
空から。
生き物たちから。
洞窟の近く。
一匹の花紋鼠が、小さな顔を覗かせる。
きょろ、きょろ。
不思議そうに、洞窟の中を見つめた。
その瞬間。
ぱたっ。
小さな身体が、地面へ倒れた。
身体から。
細い光が。
一筋。
また一筋。
ゆっくりと抜け出していく。
洞窟の奥へと、吸い込まれていった。
――コツ。
――コツ。
靴音が、洞窟の中に響く。
夕日が。
ちょうど洞窟の入口から差し込み。
男の顔を、わずかに照らした。
「……あと少しだ」




