もう一度だけ
もう会えないと思っていた人に、
もう一度会えた。
それがどれほど幸せなことなのか。
今の私には、
まだうまく言葉にできなかった。
時計屋へ戻る道を、
悠斗の手をぎゅっと握ったまま歩いていく。
でも。
曲がり角を一つ過ぎたところで、
とうとう我慢できなくなった。
「……っ」
目の奥に溜まっていたものが、
一気に溢れ出す。
私は電柱のそばにしゃがみ込んだ。
足元では、
数匹のアリが何事もなかったように、
せわしなく行き来している。
悠斗は何も言わなかった。
ただ、
私の隣へそっとしゃがんでくれた。
「ゆ、悠斗……」
「うん」
すぐそばから、
優しい声が返ってくる。
「ここにいるよ」
その一言を聞いた途端、
また涙が溢れた。
気づけば、
悠斗の胸へ顔を埋めていた。
「わっ……七奈?」
「うぅ……」
「な、泣くなよ。泣くなって……」
悠斗は困ったように、
両手を宙へ浮かせている。
背中へ伸ばしかけては止まり、
今度は頭の上で迷っている。
「……しょうがないな」
やがて、
背中をぽん、ぽん、と優しく叩いてくれる。
「よしよし」
「もう泣かないの」
「……バカ悠斗」
「えっ?」
「俺、また何か変なこと言った?」
「バカ」
ぽか。
「バカ、バカ!」
ぽか、ぽか。
悠斗の胸を、
握った拳で何度も軽く叩く。
「ちょっ、なんでだよ!」
どれくらい、
そうしていたのだろう。
ようやく涙が落ち着いて、
そっと顔を上げた。
目の前では、
悠斗が困ったような顔でこちらを見ている。
「……少しは落ち着いた?」
「べ、別に」
慌てて目元を拭う。
「子供じゃないんだから」
「さっきのは……ちょっとだけ、取り乱しちゃっただけ」
「そっか」
悠斗はそれ以上何も言わなかった。
ただ、
いつものように笑う。
「でも、気にするなよ」
「え?」
「七奈が家族とまた会えたんだ」
少し照れくさそうに鼻の下をこすると、
にかっと笑った。
「俺だって、自分のことみたいに嬉しいよ」
「……ありがとう」
また泣きそうになって、
慌てて俯く。
もし。
矢野先生も、
晴奈先輩にもう一度会えたなら。
きっと――
「七奈?」
「……ううん。なんでもない」
顔を上げる。
「もう大丈夫!」
「本当に?」
「本当!」
「じゃあ、戻ろうぜ」
悠斗が立ち上がり、
こちらへ手を差し出した。
その手を少しだけ見つめる。
そして――
ぎゅっと握り返した。
ちょっとおっちょこちょいで。
ものすごく強いわけでもなくて。
時々、
頼りないところもあるけれど。
でも。
やっぱり、
悠斗は悠斗なんだ。
「……ありがとう、悠斗」
「ん?」
「なんでもない!」
私はその手を握ったまま、
もう一度歩き始めた。
◇
見覚えのある公園が、
ゆっくりと視界へ入ってくる。
私たちはもう一度、
さっきのベンチへ腰を下ろした。
空は相変わらず灰色で、
時折、数羽の鳥が静かに横切っていく。
「ねぇ、悠斗」
「ん?」
悠斗がこちらを振り返る。
「鏡の世界って……」
ベンチに座ったまま、
足をぱたぱたと揺らす。
「院長先生が言ってたほど、
怖いところじゃないのかもね」
「そうだなぁ……」
悠斗はそう答えながら、
ぼんやりと空を見上げた。
そして。
「はぁ……」
小さなため息をつく。
「……悠斗?」
「俺の家族も、
今頃どうしてるのかなって」
その横顔は、
どこか寂しそうに見えた。
さっきまで、
ずっと私のそばにいてくれた悠斗。
何も言わず、
泣き止むまで待ってくれた悠斗。
今度は――
「じゃあさ!」
勢いよく立ち上がる。
「悠斗の家にも行ってみようよ!」
「え?」
悠斗は少し驚いたように顔を上げた。
「でも、俺の家は向こうの世界の田舎の村だぞ」
「ここから直接行くのは無理だと思う」
「一度、時計屋に戻らないと」
「そっか……」
少しだけ肩を落とす。
でも。
すぐに顔を上げた。
「じゃあ、戻ろう!」
「え?」
「時計屋に!」
悠斗が目をぱちぱちさせる。
「いや、それって……」
「院長先生に怒られないか?」
「大丈夫!」
胸を張って答える。
「院長先生なら、
きっと分かってくれるよ」
「ほら!」
ベンチに座ったままの悠斗へ、
今度は私の方から両手を差し出した。
「早く行こう!」
悠斗は差し出された手を見つめる。
「……よし!」
差し出した手を、
悠斗がぎゅっと握る。
そのまま勢いよく立ち上がった。
「行くか!」
「うん!」
さっきは、
悠斗が私の手を引いてくれた。
だから今度は。
私が、
悠斗の手を引く番だ。
◇
午後になると、
昼頃よりも少しだけ空気が涼しくなっていた。
通りを行き交う人の姿も、
いつの間にか増えている。
「鏡の世界の人たちも、
やっぱり暑いのは苦手なのかな」
「言われてみれば、
確かに涼しくなったな」
悠斗は辺りの店を見回してから、
灰色の空を見上げた。
私もつられて顔を上げる。
空の色は相変わらずなのに、
街は少しずつ賑やかになっていた。
その時。
「……あっ」
甘い匂いが、
ふわりと鼻先をくすぐった。
思わず足を止める。
すぐ隣には、
小さなスイーツショップ。
ショーケースの向こうには、
色とりどりのケーキやアイスが並んでいる。
「ねぇねぇ、悠斗」
「ん?」
「ここのアイスとかケーキって……」
じっとショーケースを見つめる。
「私たちが食べても大丈夫なのかな?」
「いや……」
悠斗は少し考えてから、
首を横に振った。
「さすがに駄目だろ」
「えぇー……」
思わず頬を膨らませる。
「でも、すっごく美味しそうなのに」
「駄目なものは駄目」
「むぅ……」
名残惜しくショーケースを見つめていると、
悠斗が私の手をつかんだ。
「ほら、行くぞ」
「えっ、ちょっと!」
そのままぐいぐい引っ張られていく。
「待ってよぉーーっ!」
◇
悠斗に手を引かれたまま、
人通りの増えた通りを進んでいく。
すれ違う人たちが、
時折こちらへ不思議そうな視線を向けていた。
「お二人さん」
不意に、
道端から声が飛んでくる。
「そんなに急いで、
どこへ行くんだい?」
「えっ?」
思わず振り返りそうになる。
けれど、
悠斗はそのまま歩き続けた。
少し先から、
別の声も聞こえてくる。
「あのお年寄りたち、
ずいぶん元気だねぇ」
「まあ、
もうすぐ『終わり』が近いからね……」
「……終わり?」
その時だった。
「そこのお二人」
目の前に、
大柄な男が立っていた。
思わず足を止める。
「おや、ずいぶん急いでるねぇ?」
男は人の良さそうな笑顔を浮かべている。
「よかったら、
車で送っていこうか?」
「えっ?」
「あ、いえ!」
慌てて首を横に振る。
「大丈夫です!」
「ありがとうございます!」
「そんなに遠慮しなくてもいいさ」
男は笑いながら、
通りへ手を上げた。
「行きたい場所を言ってくれれば――」
すうっ。
一台のタクシーが、
男のすぐ横へ滑り込んできた。
「……え?」
思わず目を瞬く。
車は確かに、
私たちの目の前で止まった。
でも。
運転席には――
誰もいなかった。
「……悠斗」
小さく名前を呼ぶ。
「見るな」
悠斗が私の前へ半歩出た。
「俺たちが行く場所は、
車じゃ入れないんです」
男へ向かって、
小さく頭を下げる。
「お気遣い、
ありがとうございます」
「そうかい?」
男は少し残念そうに頭を掻いた。
「じゃあ、
道中気をつけてな」
「はい」
悠斗が私の手を握り直す。
「行くぞ」
耳元で、
小さな声がした。
「……うん」
男の横を通り過ぎる。
その瞬間だった。
ブォン――!
背後で、
大きな音が響く。
「きゃっ!」
さっきまで止まっていた無人のタクシーが、
突然、勢いよく走り出した。
車体が通りを駆け抜け、
一瞬で遠ざかっていく。
その時。
巻き起こった強い風が、
私たちの外套を大きく煽った。
「あっ――」
フードが、
ふわりと持ち上がる。
するり。
頭から、
滑り落ちた。
「……」
一瞬。
通りから、
音が消えた。
話し声も。
足音も。
店先から聞こえていた物音さえも。
誰もが足を止めていた。
そして。
ゆっくりと。
こちらを振り返る。
「……悠斗」
「ああ……」
悠斗の声が、
わずかに強張っていた。
一人。
また一人。
周囲の人々の目が、
私たちへ向けられていく。
「……あんたたち」
誰かが、
ぽつりと呟いた。
「生きてるな?」
背筋が、
ぞくりと冷えた。
「……え?」
一歩、
後ろへ下がる。
ざわ。
ざわざわ。
止まっていた人々が、
少しずつこちらへ集まり始める。
「生きてる……」
「本当に?」
「この気配……」
「間違いない」
さっきまで普通に歩いていた人たち。
店先で話していた人。
荷物を運んでいた人。
みんなが、
私たちを見ている。
「……いいなぁ」
誰かが、
ぽつりと呟いた。
「え?」
「お前たちは……」
その人は、
泣きそうな顔で私たちを見つめていた。
「まだ、生きてるんだな……」
その一言をきっかけに。
周囲から、
いくつもの声が聞こえ始める。
「帰れるのか……?」
「元の世界に?」
「家族のところへ……?」
一人。
また一人。
私たちへ向かって、
手を伸ばす。
「悠斗……」
「七奈」
悠斗が私の手を、
強く握った。
「走るぞ」
「えっ――」
「走れっ!」
その声と同時に、
私たちは駆け出した。
「待って!」
背後から、
一斉に声が上がる。
「待ってくれ!」
「行かないでくれ!」
「俺も連れていってくれ!」
「帰りたい……!」
「家族に会いたい!」
「もう一度だけ……!」
足音が、
どんどん近づいてくる。
「ひゃあああっ!」
思わず叫びながら、
悠斗の手を握って走る。
(このバカフード!)
(どうして肝心な時に限って、
脱げちゃうのよぉぉぉ!)
慌ててフードを被り直す。
でも。
もう遅かった。
「そっちだ!」
「待ってくれ!」
「逃がすな!」
「生きてる人間だ!」
「七奈、こっち!」
「わっ!」
悠斗に腕を引かれ、
角を勢いよく曲がる。
通りを走り抜ける私たち。
その後ろを、
大勢の人たちが追いかけてくる。
まるで、
警察と泥棒の追いかけっこ。
……なんて。
そんな呑気なことを考えている場合じゃない。
「悠斗!」
「何だ!」
「これ、本当にまずくない!?」
「見れば分かるだろ!」
「だよねぇぇぇ!」
また角を曲がる。
「こっち!」
「待って、悠斗!」
その先を見た瞬間。
足が止まった。
「……あ」
高い壁。
行き止まりだった。
「悠斗……」
「……ごめん」
「もう!」
振り返る。
路地の入口には、
追いかけてきた人々が集まり始めていた。
一人。
二人。
十人。
その後ろからも、
次々と人影が現れる。
「見つけた……」
「待ってくれ……」
「頼む……」
「俺たちを置いていかないでくれ……」
さっきまでの怒鳴り声とは違う。
震えるような声だった。
「俺は……」
一人の男が、
ふらふらと前へ出る。
「まだ、死にたくなかった……」
その声に。
誰かが、
小さく呟いた。
「……俺もだ」
「どうして……」
「どうして俺だけが、
こんなところにいるんだ……?」
「帰りたい……」
別の誰かが呟く。
「家族に会いたい……」
「もう一度だけでいい……」
「もう一度……」
「お前たちは……」
誰かの声が、
震えていた。
「お前たちは帰れるのに……」
少しずつ。
人々が近づいてくる。
私は杖を握りしめた。
怖い。
でも。
その声を聞いていると、
胸の奥が苦しくなる。
少し前まで。
私だって、
もう一度おじいちゃんとおばあちゃんに会いたいと思っていた。
もし。
私がこの世界に残されていたら――
もし、
もう二度とお父さんやお母さん、
お兄ちゃんに会えないとしたら。
私は。
この人たちと違うと言い切れるのだろうか。
「七奈!」
「……っ!」
悠斗の声で我に返る。
目の前に、
誰かの手が伸びていた。
「お願いだ……」
男の目から、
涙が零れていた。
「俺も……」
「俺も、連れていってくれ……!」
その手が、
私の腕をつかもうとする。
「……っ!」
思わず杖を構えた。
「――アクア!」
水の塊が弾け、
男を後ろへ押し返す。
「うわっ……!」
その瞬間。
人々の表情が変わった。
「魔法……」
「生きてる……」
「本当に、生きてるんだ……!」
「こいつらなら……」
「もしかしたら……」
「俺たちも……!」
ざわめきが、
一気に大きくなる。
「七奈、下がれ!」
悠斗が私の前へ出る。
二人で杖を構えながら、
少しずつ後ろへ下がっていく。
一歩。
また一歩。
そして。
背中が、
冷たい壁へぶつかった。
「……悠斗」
「分かってる」
悠斗が振り返り、
壁へ杖を向ける。
「――透過!」
杖先から光が走る。
固い壁が水面のように揺れ、
人ひとり通れるほどの穴が開いた。
「七奈、先に行け!」
「でも――」
「早く!」
「う、うん!」
穴へ飛び込む。
「待て!」
「逃がすな!」
背後から、
無数の手が伸びてくる。
「悠斗!」
「今行く!」
悠斗も飛び込むように、
壁の向こうへ滑り込んできた。
「はぁ……」
「はぁ……」
二人で息を切らしながら、
顔を見合わせる。
「た、助かった……?」
「たぶん……」
その時。
私は、
ゆっくりと前を向いた。
「……悠斗」
「ん?」
「私たち……」
声が震える。
「完全に、
囲まれちゃったみたい」
「……え?」
壁の向こう側。
そこにも。
人。
人。
人。
すでに大勢の人々が、
私たちを取り囲んでいた。
「……嘘だろ」
悠斗が、
小さく呟く。
私は少年と背中合わせになり、
杖をぎゅっと握りしめた。
「悠斗」
「何だ?」
「どうする?」
「……俺に聞くなよ」
「えぇ……」
じり。
人々が、
一歩近づく。
私たちも、
杖を構え直した。
逃げ道は――
もう、
どこにもなかった。
「――行け」
次の瞬間。
空気が、
裂けた。
ゴォッ――!
「……っ!?」
激しい風が、
私たちの目の前へ叩きつけられる。
人々の間を切り裂くように、
巨大な風の刃が地面を走った。
「きゃあっ!」
思わず腕で顔を覆う。
群衆が一斉に後ずさる。
「七奈!」
「だ、大丈夫!」
風が止む。
ゆっくりと、
顔を上げる。
「今の……」
悠斗は答えなかった。
ただ。
強く杖を握りしめたまま、
遠くの屋根を睨んでいる。
「悠斗……?」
その視線を追う。
灰色の空の下。
遠く離れた屋根の上に、
一人の男が立っていた。
風に揺れる外套。
手にした杖。
「……お前」
低い声。
次の瞬間。
悠斗が叫んだ。
「――矢野!!」




