ただいま
翌日の放課後。
千晴ちゃんと校門で別れると、そのまま足早に器材室へ向かった。
「じゃあ、また明日ね!」
「うん、また明日!」
手を振り合って別れると、私は急ぎ足で廊下を進む。
器材室の扉を開け、いつものように転移門をくぐる。
次の瞬間には、見慣れた魔法学院の景色が目の前へ広がっていた。
「七奈、来たか」
院長先生が穏やかに微笑む。
「はい!」
元気よく返事をすると、その隣には悠斗の姿もあった。
「あれ?」
「悠斗も今日の授業、一緒なの?」
「うん」
悠斗は小さく頷く。
その時だった。
院長先生は足元に置いてあった袋を持ち上げ、中から二着のローブを取り出した。
「今日はこれを着てもらいます」
私と悠斗へ、一着ずつ手渡される。
「わぁ……」
受け取ったローブを広げてみる。
深い紫色の布地に、裾には細い金色の刺繍が入っていた。
思わず指先でそっとなぞる。
「院長先生、これは……?」
院長先生は静かに答えた。
「気配隠しの外套です」
「鏡の世界では、必ず着ていてください」
「フードも、絶対に外してはいけません」
思わず悠斗と顔を見合わせる。
「鏡の世界って……」
「そんなに危ない場所なんですか?」
二人で外套を羽織りながら尋ねる。
思っていたよりずっと軽い。
さらりとした手触りで、寝巻きを着ているみたいに柔らかかった。
「鏡の世界には」
院長先生はゆっくりと言葉を続ける。
「亡くなった人たちが暮らしています」
「亡くなった……人?」
思わず息を呑む。
隣では悠斗も少し驚いたような顔をしていた。
「院長先生」
「鏡の世界って、どんなところなんですか?」
悠斗が興味津々といった様子で尋ねる。
院長先生は楽しそうに笑った。
「ははは」
「それは着いてからのお楽しみです」
そう言うと、少しだけ真剣な表情になる。
「ですが、一つだけ」
「外套だけは、絶対に脱がないこと」
私と悠斗は顔を見合わせ、
「「はい!」」
声を揃えて返事をした。
◇
院長先生の後ろについて歩き、学院の十二階へ向かう。
「院長先生」
「どうして十二階なんですか?」
私が尋ねると、
院長先生は歩きながら答えた。
「鏡の世界への入口は、この階にあります」
やがて足が止まる。
目の前にあったのは、見覚えのある扉だった。
「あっ」
思わず声が漏れる。
「滕代先生のお部屋……」
そして、すぐに思い出す。
「あっ!」
「あの鏡ですね!」
初めてここへ来た時。
滕代先生は鏡を軽く叩くと、そのまま鏡の中へ入っていった。
院長先生は微笑みながら頷く。
「ええ」
「行きましょう」
扉を開け、そのまま部屋の奥へ。
本棚の横にある大きな鏡の前で立ち止まる。
院長先生は杖を取り出すと、
鏡を軽く――
コン。
と叩いた。
すると。
鏡の中の景色が、水面のようにゆらりと揺れる。
映っていた部屋は少しずつ霞み、
やがて別の景色が浮かび上がった。
「えっ……!」
思わず一歩後ずさる。
鏡の向こうに映っていたのは、
夕真さんの時計店だった。
「夕真さんのお店……!」
現実とまったく同じ景色が、
鏡の中に広がっている。
「さあ」
院長先生は振り返って微笑んだ。
「行きましょう」
そう言うと、何の迷いもなく鏡の中へ歩いていく。
「七奈」
悠斗がそっと手を差し出した。
「ちゃんとついて来いよ」
差し出された手と、
鏡の向こうの世界を見比べる。
少しだけ胸がどきどきする。
でも――
「うん」
私はその手をぎゅっと握り返した。
そして二人で、一歩ずつ鏡の中へ足を踏み入れた。
◇
「七奈、着いたぞ」
悠斗の声が聞こえ、ゆっくりと目を開ける。
目の前に広がっていたのは、どこか灰色がかった街並みだった。
時計店は静かにそこに佇み、
辺りには物音ひとつない。
一瞬だけ、
現実へ戻ってきたのかと思った。
「悠斗……」
そっと手を離し、辺りを見回す。
「ここが……鏡の世界?」
細い路地も。
時計店も。
石畳も。
見覚えのある景色ばかりだった。
「……変だな」
現実と、そっくり。
ううん。
そっくりなんてもんじゃない。
まるで、そのまま写したみたいだった。
その時だった。
「景色を見るのは後にしましょう」
時計店の扉がゆっくり開き、
院長先生が中から姿を現した。
私たちの前まで歩いてくると、小さな徽章を二つ差し出す。
「これは緊急用の徽章です」
「必ず身につけておいてください」
私と悠斗はそれぞれ受け取り、胸元へ付ける。
院長先生は穏やかに微笑んだ。
「今日の授業は、とても簡単です」
「鏡の世界を、一日歩いてきてください」
「歩くだけ?」
悠斗は路地の先に広がる街並みを見つめた。
「でも院長先生」
「七奈は夜までに家へ帰らないといけませんよね?」
院長先生は頷く。
「心配はいりません」
「鏡の世界は、現実より時間の流れが半日ほど遅いのです」
「午後になったら、ここへ戻ってきてください」
「なるほど」
思わずほっと胸をなで下ろした。
「七奈、行こう」
気づけば悠斗はもう路地の入口まで歩いている。
外の景色を覗き込みながら手を振った。
「あっ、待って!」
慌てて駆け寄る。
その途中で、ふと思い出した。
「院長先生」
足を止めて振り返る。
「どうして今日の授業、私たち二人だけなんですか?」
院長先生は少しだけ笑うと、そっと肩へ手を置いた。
「それは授業が終わったら話しましょう」
そう言ってから、少し表情を引き締める。
「それから――」
「決して、自分たちの正体を知られてはいけません」
思わず姿勢を正す。
院長先生は静かに続けた。
「もし、生きている人間だと知られれば」
「彼らはあなたたちへ執着します」
「中には、襲ってくる者もいます」
「どうしてですか?」
思わず尋ねる。
院長先生は少しだけ目を伏せた。
「すべての人が」
「過去を受け入れられるわけではありませんから」
その言葉だけが、静かな路地へ残った。
「……分かりました」
院長先生はまた穏やかな笑顔へ戻る。
「では、行ってらっしゃい」
帽子をもう一度深く被り直し、
角で待っている悠斗のところへ駆けていった。
◇
「七奈、おそーい」
悠斗が笑いながら振り返る。
「院長先生に注意すること教えてもらってたの」
「じゃあ大丈夫だ」
そう言って笑う。
「まずは街を歩いてみよう」
「俺もここへ来るのは初めてなんだ」
そう言うなり、私の手を引いて走り出した。
「わっ、悠斗!」
「そんなに急がなくてもいいのに!」
「大丈夫、大丈夫」
「院長先生から先に聞いてるから」
「ほら、行こう!」
◇
商店街へ出ると、
現実と変わらない店先が並んでいた。
どの店も扉を開け、
店の中では人影が棚を整理したり、商品を並べたりしている。
思わず店の中を覗き込む。
「ねぇ、悠斗」
そっと耳元で話しかける。
「この人たちって……」
「もう亡くなってるんだよね?」
「それなのに、どうして働いてるの?」
悠斗も店の中を眺めながら答えた。
「院長先生が言ってた」
「亡くなった人は、記憶を持ったまま鏡の世界でもう一度人生を歩くらしい」
「えぇ……」
思わず肩が落ちる。
「じゃあ私、また学校行かなきゃいけないの?」
「それはちょっと嫌かも……」
悠斗が思わず吹き出した。
「七奈らしいな」
しばらく歩いてから、もう一つ気になっていたことを尋ねる。
小さく頷き、その後ろを歩いていく。
◇
商店街を抜けると、公園へ出た。
「ふぅー」
悠斗は長椅子へどさっと腰を下ろす。
「まだ全然歩いてないのに」
思わず苦笑してしまう。
私も隣へ座り、
手でベンチを軽く叩いてみる。
「かたい……」
辺りを見回すと、
小さな噴水が静かに水を吹き上げていた。
「あっ……」
思わず笑みがこぼれる。
昔、お兄ちゃんとよくここで遊んだっけ。
かくれんぼって言いながら、
お兄ちゃんはいつも噴水の周りをぐるぐる走って。
結局、ただの追いかけっこになっちゃうんだよね。
「ねぇ、悠斗」
ベンチへ座ったまま足をぶらぶら揺らす。
「今の私の家って、どんな感じなんだろう」
悠斗は少し考えてから答えた。
「そんなに変わってないと思う」
「時間も半日しか違わないし」
「そっか」
少し考えてから、もう一つ気になった。
「じゃあ……」
「今、あそこには誰が住んでるんだろう?」
悠斗は立ち上がる。
「見に行けば分かるさ」
にっと笑って手を差し出した。
「行こう」
「うん!」
頭の中の記憶を頼りに、
二人で家への道を歩き始める。
空を見上げると、
電線は蜘蛛の巣みたいに空を横切っていた。
遠くには、
見慣れた庭の木が少しだけ顔を覗かせている。
「……今と、変わらないんだ」
思わず、小さく呟いた。
◇
「この辺だよな」
悠斗が門柱の表札を指さした。
そこには、確かに――
『森野』
と書かれている。
「うん……たぶん、ここ」
門の陰から、そっと庭を覗き込む。
見慣れた庭。
小さな物置。
庭の隅に植えられた木も、
記憶の中とほとんど変わっていなかった。
その時だった。
庭の奥で、
一人のおじいさんが箒を手に、落ち葉を掃いている。
「あれ……」
思わず目を細める。
あの背中。
箒を動かす仕草。
ゆっくり歩く姿まで――
どこか懐かしい。
胸の奥が、小さくざわめいた。
「……おじいちゃん?」
庭で箒を動かすその姿を見ていると、
昔のことを思い出した。
田舎へ帰るたび、
おじいちゃんは家の前まで迎えに来てくれた。
「帰ってきたか」
そう笑うと、
台所へ向かって、
畑で採れたばかりのさつまいもを、
一本一本、
丁寧に洗ってくれる。
その横で、
お兄ちゃんと二人、
早く食べたくてそわそわしながら待っていたっけ。
「悠斗……」
小さく名前を呼ぶ。
「……中へ入りたい」
その一言に、
悠斗は少しだけ困ったような顔をした。
「駄目だよ。」
そう言って、
そっと私の腕をつかむ。
「見つかったら大変なんだから。」
「でも……」
胸元のマントを、きゅっとつまんだ。
「これがあるでしょ?」
「気配は隠せるよ。」
悠斗は苦笑いしながら首を振る。
「でも。」
「七奈の顔も、声も、そのままだ。」
「見られたら、すぐ気付かれちゃう。」
「……そっか。」
小さく笑ってみせる。
でも、
視線は自然と地面へ落ちていた。
「じゃあ……帰ろうか。」
そう言って、
一歩だけ後ろへ下がる。
背中を見つめていた悠斗が、
小さく息をついた。
「……しょうがないな。」
私は振り返る。
悠斗は少し照れくさそうに笑っていた。
「少しだけだよ。」
「俺が連れて行く。」
「でも。」
「絶対に帽子は脱がないこと。」
「声も出さないこと。」
「約束できる?」
思わず何度も頷いた。
「うん!」
思わず振り返る。
嬉しくて、
涙が少しだけ滲んだ。
「……ありがとう。」
そう言うのが精一杯だった。
悠斗は照れくさそうに頭をかく。
「あとで院長先生に怒られても知らないからね。」
◇
二人でもう一度門の前まで戻る。
悠斗は塀へ手を添え、
静かに杖を掲げた。
「――透過」
杖先が淡く光る。
すると、
固いはずの塀が、
水面のようにゆらりと揺れた。
真ん中へ、
人ひとり通れるくらいの穴が、
静かに開いていく。
「行こう」
小さく頷き、
二人でそっと塀をくぐった。
家の中へ耳を澄ます。
聞こえてきたのは、
包丁がまな板を叩く音。
鍋の蓋が小さく揺れる音。
その音だけで、
胸の奥が少しだけ温かくなる。
昔と何も変わらない、
おばあちゃんの台所だった。
悠斗は今度は家の壁へ杖を向ける。
淡い光が静かに広がり、
壁には人ひとり通れるほどの小さな穴が開いた。
息を潜めながら、
二人で家の中へ足を踏み入れる。
台所では、
おばあちゃんが野菜を刻んでいた。
まな板の上には、
洗ったばかりの野菜が並んでいる。
包丁を動かす手も、
その優しい後ろ姿も、
記憶の中と少しも変わっていなかった。
小さい頃、
悪さをすると、
おばあちゃんは庭の細い枝を持ってきて、
「めっ」
なんて言いながら、
軽くお尻を叩いた。
でも。
そのあと決まって、
「もう怒ってないよ。」
そう笑って頭を撫でてくれた。
リビングのソファの陰へ身を隠す。
柱の隙間から、
そっと台所を覗いた。
目の前には、
懐かしい後ろ姿。
もう二度と会えないと思っていた人。
それが今、
ほんの数歩先にいる。
「あなた、ご飯ですよ。」
台所から、
おばあちゃんの優しい声が響く。
「はいはい。」
おじいちゃんがゆっくり歩いてきた。
食卓へ並んだのは、
焼き魚と、
青菜のおひたし。
昔と変わらない、
どこか懐かしい食卓だった。
「ねえ。」
「悠真たちは今頃どうしてるかしらね。」
おばあちゃんがぽつりと呟く。
おじいちゃんは魚をほぐしながら笑う。
「さあな。」
「でも。」
「元気でやってれば、それでいい。」
その言葉を聞いた瞬間、
肩が小さく震えた。
隣で悠斗が、
「しっ。」
そう言って人差し指を立てる。
小さく頷き、
唇をぎゅっと噛んだ。
「あなたこそ。」
「毎日写真ばっかり見てるじゃない。」
「……お互い様だ。」
二人は顔を見合わせて笑った。
思わず、
私もソファの陰で、
くすっと笑ってしまう。
食事を終えると、おじいちゃんは居間をあとにして、寝室へ戻っていった。
台所では、おばあちゃんが静かに食器を洗っている。
私と悠斗は足音を忍ばせながら台所の前まで歩き、小さく戸を開けた。
水の流れる音。
お皿が重なる優しい音。
その後ろ姿は、記憶の中のおばあちゃんと少しも変わっていなかった。
「……七奈。」
悠斗が小さな声で呼ぶ。
「そろそろ戻ろう。」
「……うん。」
名残惜しく戸を閉める。
そのまま廊下へ戻ろうとした、その時だった。
廊下に並んだ植木鉢の枝が、ふわりとローブのフードへ引っかかった。
「あっ……」
小さな音を立てて、フードが肩まで滑り落ちる。
「しまった……!」
悠斗が慌てて枝を外そうと手を伸ばした。
その瞬間。
――ガシャン。
台所から、食器の割れる音が響く。
静まり返った家の中へ、大きく響いた。
「……?」
おばあちゃんがゆっくり振り返る。
不思議そうに廊下へ視線を向けながら、静かに歩いてくる。
手には、まだ菜箸が握られていた。
居間へ姿を現したその時――
おばあちゃんは足を止めた。
ローブをまとった少年。
そして、その隣に立つ少女。
少女の横顔を見た瞬間、
おばあちゃんの表情が静かに揺れる。
「……ななちゃん?」
小さく震えた声。
その一言で、
時間が止まったようだった。
思わず振り返る。
目の前には、
信じられないものを見るような顔のおばあちゃんが立っていた。
「……おばあちゃん。」
その声が漏れた瞬間。
私はもう駆け出していた。
「おばあちゃん……!」
勢いよく抱きつくと、
おばあちゃんは少し驚いたように目を丸くして、
すぐ優しく抱きしめ返してくれた。
「まあまあ……。」
「ななちゃん。」
「大きくなったねぇ。」
その声を聞いた途端、
張りつめていたものがほどける。
涙がぽろぽろと零れていった。
「おばあちゃん……。」
「会いたかった……。」
おばあちゃんは何も言わず、
昔と同じように頭を優しく撫でてくれる。
「よしよし。」
「泣かなくていいよ。」
物音を聞いたおじいちゃんも寝室から姿を現した。
私たちを見ると、
少し目を見開き、
やがて穏やかに笑う。
「……本当にななちゃんか。」
「ずいぶん大きくなったな。」
私は涙をぬぐいながら、大きく頷いた。
「うん。」
「今は高校二年生なの。」
「魔法学院にも通ってるんだよ。」
「そうか。」
おじいちゃんは安心したように頷いた。
「立派になったな。」
私は慌てて涙を拭き、
笑顔を作る。
「私ね。」
「今、とっても元気だよ。」
「お父さんも、お母さんも。」
「お兄ちゃんも、みんな元気。」
そう言ったのに、
涙だけは止まらなかった。
おばあちゃんは少し笑って、
涙を指で拭ってくれる。
「それなら安心だねぇ。」
「慎吾には、煙草を吸いすぎないように伝えてね。」
「それから悠真。」
「朝ご飯はちゃんと食べるんだよって。」
「うん!」
「ちゃんと伝える!」
私は何度も頷いた。
少し黙ったあと、
胸の奥から言葉がこぼれる。
「おばあちゃん。」
「私……。」
「二人を元の世界へ帰す方法、探すから。」
「私、前よりずっと魔法が使えるようになったの。」
「だから――」
言い終わる前に、
おばあちゃんは静かに首を横へ振った。
「ありがとう。」
「でもね。」
「もう十分なんだよ。」
私は息を呑む。
おばあちゃんは優しく笑った。
「ななちゃんが元気で。」
「こんなに大きくなって。」
「また会えた。」
「それだけで、おばあちゃんは幸せ。」
「もう何も思い残すことはないよ。」
その笑顔は、
昔と何も変わらなかった。
帰る時間が近づく。
玄関まで、おじいちゃんとおばあちゃんが見送ってくれた。
「ななちゃん。」
「朝寝坊は駄目だよ。」
思わず笑ってしまう。
「うん!」
「ちゃんと起きる!」
おばあちゃんは満足そうに頷いた。
「いい子。」
「またおいで。」
私は大きく頷く。
「うん。」
「また来るね。」
「約束。」
悠斗と並んで歩き出す。
何歩か進んだところで、
悠斗がそっと声をかけた。
「……七奈。」
「そろそろ行こう。」
「……うん。」
もう一度だけ、
胸の奥で「ありがとう」と呟く。
振り返らなかった。
きっと振り返ったら、
おばあちゃんはまた笑って、
大きく手を振ってくれる気がしたから。




