2.夏休み初日、午後
「わ……期待してたより、ちゃんとレディースフロアって感じしてる」
ショッピングモールのエスカレーターを上がったところで、沙織が感嘆の声を漏らした。
夏休み初日の午後。
佳織と沙織は、最近改装されたばかりのフロアに来ていた。
以前この階に来たときは、雑貨店や小さなゲームコーナー、家族向けの店が混在していて、通路を行き交う人の層もばらばらだった。
買い物をしていても、佳織に視線を向ける男子や男性客がどうしても目に入ってしまい、落ち着いて店を見て回れる場所とは言いづらかった。
けれど、改装後のフロアは雰囲気がまるで違っていた。
明るい色合いの通路に沿って、アパレルショップやコスメショップ、アクセサリーの店が並んでいる。
店先には涼しげな夏服や淡い色のバッグ、サンダル、髪飾りが飾られ、通路を歩く客も友人同士の女子や母娘連れがほとんどだった。
「ね、これなら佳織も色々見やすそうじゃない?」
沙織は楽しそうに辺りを見回す。
「うん。前と全然違うね」
佳織も頷いた。
改装前に来たときより、ずっと歩きやすそうだった。
視線を気にしながら通路を急いで抜ける必要もなさそうで、沙織がここに来たがっていた理由も分かる気がした。
それでも、胸の奥には少しだけ引っかかるものが残っていた。
終業式の日も、結局言えなかった。
あの公園で急に帰ってしまったこと。
帰り際、良規の方を見られなかったこと。
謝りたいと思っていたのに、その一言を伝えられないまま夏休みに入ってしまった。
学校で顔を合わせる機会が減ると分かっているからこそ、そのことが小さな後ろめたさになって残っている。
「……佳織」
隣を歩いていた沙織が、そっと声をかけた。
「まだ気にしてる?」
「え?」
「柳井くんのこと」
佳織は小さく息を止めた。
「……そんなに分かる?」
「そりゃ分かるよ。付き合い長いしね」
沙織は責めるようには言わなかった。
いつもの穏やかな声で、少しだけ笑う。
佳織は視線を落とした。
「終業式の日も、結局言えなかったから」
沙織は少しだけ考えるように前を見た。
「仕方ないよ。あの流れだと、無理に話しかけても悪目立ちしちゃうから、柳井くんも困るだろうしさ」
「でも……」
「夏休みが終わったら、また普通に会うんだし。そのときで大丈夫だよ」
「……うん」
「それに、きっと柳井くんも、怒ってるとかそんな感じじゃないと思う」
その言葉に、佳織は少しだけ黙った。
良規が怒っているところは、確かに想像しづらい。
それでも、簡単には割り切れなかった。
沙織はそれ以上深く聞かず、近くのアパレルショップへ視線を向けた。
「でも、せっかく来たんだし、今日はまず買い物。悩むのは、また今度!」
「……うん」
佳織は小さく頷いた。
胸の奥に残っていたものが消えたわけではない。
けれど、沙織がいつも通りの明るさで前へ進んでくれるだけで、少しだけ息がしやすくなった。
***
「ねえ、佳織! これ、どう?」
アパレルショップの一角で、沙織が明るい声を上げた。
沙織が手に取っていたのは、上下で揃ったセットアップだった。
体に沿うタイトめのトップスと、落ち感のあるワイドパンツ。
淡い色合いでまとめられているのに、全体の線はすっきりしていて、今っぽい大人っぽさがあった。
「可愛い。沙織にすごく似合うと思う」
佳織は笑顔で頷いた。
「ほんと?」
「うん。カッコいい感じも、沙織っぽい」
「こういうの、去年あたりからよく見るし、試してみたかったんだよね。じゃあ、ちょっと試着してみようかな」
沙織が嬉しそうに笑う。
店内には、白や水色、淡い黄色の夏服が並んでいた。
薄手のブラウスやスカート、軽い羽織りものもあり、どれも涼しげに見える。
「佳織も何か見てみたら?」
「うん」
沙織に促され、佳織も近くの棚へ目を向けた。
薄い生成りのブラウスに、小さな刺繍が入っている。
派手ではないけれど、柔らかくてきれいなシルエットだった。
「それ、佳織に似合いそう」
「そうかな」
「うん。上品だし、こういうの着たら、絶対綺麗」
「絶対って」
佳織が少し笑うと、沙織は真顔で頷いた。
「絶対」
「……じゃあ、試着してみるだけ」
「ん、私も試着してみるだけ」
沙織は楽しそうに笑った。
そのまま二人は店の奥のコーナーへ移動する。
以前なら、佳織は通路側に近い場所に立つだけでも少し身構えていた。
けれど今日は、店内を歩いていても、肩に入る力がいつもより少ない。
そのことに気づいて、少しだけ安心しかけたときだった。
通路を歩くカップルの男性客が、ちらりとこちらを見た。
ほんの一瞬だった。
けれど、隣にいた女性がその視線に気づき、鋭い目つきで佳織を見る。
佳織は気づかないふりをした。
何かをしたわけではないのに……
それでも、さっきまで少し軽くなっていた胸の奥が、ほんの少しだけ冷える。
沙織が何も言わずに、佳織の隣へ寄った。
「佳織、試着室、ちょうど二つ空いてるって」
「あ……うん」
沙織は事情を確かめようとはしなかった。
ただ、いつも通りの明るい声で、店の奥へと視線を向けてくれた。
そのさりげなさに、佳織は少しだけ救われる。
***
一通り服を見終えると、二人は浴衣コーナーのある別の店へ移動した。
店内には華やかな柄の浴衣や帯がずらりと並び、夏らしいディスプレイに彩られている。
朝顔、金魚、花火。
淡い色のものから、落ち着いた紺地のものまで、見ているだけで夏祭りの夜を思い出すようだった。
「佳織は浴衣、新しいの買わないの?」
沙織がさりげなく尋ねる。
「うーん、うちにあるの、多分まだ着られるし、今回はいいかなって」
佳織は少し悩んだように、浴衣の並ぶ棚を見つめた。
いま手持ちの浴衣は一昨年買ったもの。
身長も伸びているし、新しいものを買ってもいいと思う。
けれど、今のところ着ていく予定もない。
この近くでも夏祭りがあるのは知っているが、大勢の人がいるかと思うと、あまり気が乗らなかった。
また、あんな怖い目に遭うのは……
「そっか。でも、これとか絶対似合うのになぁ」
ディスプレイでマネキンが着ている浴衣を見ながら、沙織は残念そうに言う。
「佳織、浴衣似合うし」
「そんなことないよ」
「あるよ。絶対ある」
「また、絶対っていう」
「本当だよ」
沙織はそう言いながらも、無理に勧めることはしなかった。
「まあ、それならまた今度にしよっか」
「うん」
佳織は小さく頷いた。
浴衣の鮮やかな色を見ていると、夏祭りに行きたい気持ちがまったくないわけではないと分かる。
けれど、二人だけで行くことを考えると、どうしても少し身構えてしまう。
そのことを、沙織も分かっているのだと思った。
***
買い物のあとは、同じモールの中にあるスイーツ専門のカフェでひと休みすることにした。
華やかなデザートが並ぶショーケースに目を向けながら、二人は席につく。
席の周りは買い物帰りの女性客が多く、店内には甘い香りと落ち着いた話し声が満ちていた。
「やっぱり、ショッピングの後はカフェに限るよね」
沙織が満足そうに、冷たいフルーツティーを一口飲みながら言う。
「うん。こういうの、夏休みって感じする」
佳織も、ストローをくわえながら微笑んだ。
カフェの冷房が心地よく、外の蒸し暑さを忘れさせてくれる。
「……そういえば、柳井くんって、こういうスイーツも詳しいのかな?」
沙織がふと話題を変えた。
「柳井くん?」
佳織は思わず聞き返す。
「ほら、相沢くんが言ってたじゃん。ケーキ屋とかで材料とか語り出すんだって」
「あ……うん」
佳織はテーブルの上のデザートへ視線を落とす。
「でも……知ってても、さすがにこの店には来たことないんじゃないかな。女子ばっかりだし」
「だよね。ここに柳井くん一人で座ってたら、ちょっと絵面的にすごいし」
沙織が笑いながら言うと、佳織も思わず吹き出した。
無表情に近い顔で、淡々とメニューを見ている良規。
周囲が女性客ばかりでも、本人はあまり気にせず、普通にスイーツの説明を始めそうな気もする。
「でも、相沢くんが言ってたよね。おすすめのメニューとか、詳しく教えてくれるって」
「うん」
「見た目とのギャップ、すごいよね」
沙織が楽しそうに言うと、佳織もその姿を思い浮かべて、つい笑ってしまう。
良規がこの店のショーケースの前に立って、真顔でケーキを見比べているところ。
それを想像すると、少しおかしくて、でも不思議と嫌ではなかった。
「じゃあさ、今度柳井くん誘って、ここに連れてくれば?」
「えっ……なんで私が?」
佳織は一瞬、焦ったように目を見開いた。
そしてすぐに、慌てて両手でカップを持ち直す。
「私が一緒に来られないときに、ボディガードお願いしてみたら? ほら、相沢くんが言ってたじゃん。柳井くん、強いらしいし、困ったことがあったら頼んでみてもいいかもって」
「え、そんなの……護衛みたいで悪いよ……」
「いいじゃん。ご褒美に、きっと食べたことないここのスイーツご馳走してあげれば」
「ご褒美って……」
「佳織がスイーツ選んでる横で、柳井くんが無言で立ってるっていう構図、見てみたいなぁ」
「……や、やめてよ。想像したら変な汗出てきた」
頬を赤らめながら、佳織は視線を逸らし、カップに口をつけた。
その様子に、沙織はくすくすと笑い続けていた。
ひとしきり笑ったあと、ふと沙織が通路の方を見ながらぽつりと呟く。
「今年の夏祭り、やっぱりやめておこっか」
「うーん……」
佳織は少し考え込んだ。
「行きたい気持ちはあるんだけど、二人だけだとちょっと……ね」
「うん、分かる。お祭りって楽しいけど、ああいう場って声かけられることも多いし、なんか落ち着かないんだよね」
「……だよね」
佳織も少しため息をついた。
夏祭りの雰囲気は好きだ。
屋台の灯りも、浴衣も、夏の夜の空気も。
けれど、知らない人に見られたり、声をかけられたりすることを考えると、素直に楽しみとは言い切れなかった。
「まあ、今年はいいかな」
「うん……来年また考えよっか」
二人は納得したように頷いた。
ショーケースに残る色とりどりのスイーツが、冷たい光を反射している。
外では夏休みが始まったばかりなのに、ほんの少しだけ、予定のない夏の夜が遠く感じられた。




