3.迫る声と夏祭りの誘い
ショッピングモールを出て、少し歩いたところで、後ろから馴れ馴れしい声がかかった。
「ねえ、お姉さんたち、ちょっといい?」
佳織と沙織は、ほとんど同時に足を止めた。
振り返ると、若い男が二人立っていた。
年齢は、二人より少し上くらいに見える。
片方は、襟元を大きく開けたシャツから、太い銀色のチェーンを覗かせていた。
もう片方は派手な柄のシャツを雑に羽織り、明るく染めた髪を手でかき上げている。
どちらも薄い笑みを浮かべたまま、佳織たちの方へ近づいてきた。
「可愛いね、二人とも。さっきから気になってたんだよね」
「これからどこ行くの?」
男たちは、佳織たちの顔を下から覗き込むようにして話しかけてくる。
沙織がすぐに一歩前に出た。
「すみません、急いでいるので」
はっきりと断り、佳織の手を取って、そのまま立ち去ろうとする。
それでも、男たちは引き下がらなかった。
「そんな冷たいこと言わずにさ、ちょっとくらい話そうよ」
「二人だけ? だったらなおさら、四人の方が人数増えて楽しいって」
佳織は、じわりと嫌な汗が滲むのを感じた。
こういう場面は、初めてではない。
声をかけられること自体は、何度もあった。
いつもなら、沙織と二人で強く断って、足早にその場を離れれば、それ以上は追ってこないことが多い。
けれど、今日は違った。
沙織が歩き出そうとすると、チェーンをつけた男がその進路へ身体を入れた。
柄シャツの男も斜め後ろに回り、佳織たちが横を抜けようとする道を塞ぐように動く。
「本当に急いでいるので」
沙織がもう一度、きっぱりと言う。
佳織も隣で小さく頷いた。
「すみません」
けれど、チェーンをつけた男は笑ったまま近づいてくる。
「えー、じゃあさ、君らの行くとこまで一緒に行こうよ。それならいいじゃん」
「そうそう。別に取って食うわけじゃないし」
柄シャツの男が、軽く笑いながら言う。
その声が、妙に近く聞こえた。
通りを歩いていた人が、何人かこちらを見た。
けれど、柄シャツの男がその視線に気づき、横目で睨む。
「何見てんだよ」
低く吐き捨てるような声だった。
足を緩めていた通行人が、気まずそうに視線を逸らす。
少し離れたところにいた女性がスマホを握り直したが、すぐには動けずにいた。
佳織の脳裏に、春休み前の、同じように逃げ場を塞がれたときの恐怖がよぎる。
息が浅くなる。
顔から血の気が引き、身体が強張っていくのが、自分でも分かった。
沙織がそれに気づいたように、佳織の前へ出ようとする。
その瞬間だった。
「ちょっとだけでいいって」
チェーンをつけた男が、沙織の腕を掴んだ。
「やめてください」
沙織の声が鋭くなる。
男はすぐには離さなかった。
むしろ、笑ったまま手に力を込める。
「そんな怖い顔しなくても——」
「おい」
男たちの声を遮るように、低く、静かな声が割って入った。
大きな声ではなかった。
けれど、その場の空気だけが、ふっと切り替わった。
佳織が振り返ると、少し離れたところに良規と翔、涼子が立っていた。
「……っ」
男たちが、一瞬だけ動きを止める。
良規は、そのままの歩幅で近づいてきた。
表情はいつもとほとんど変わらない。
けれど、視線だけは、沙織の腕を掴んでいる男の手元へ向いていた。
「手を離せ」
短い言葉だった。
男はすぐには反応しなかった。
言い返そうとしたのか、口元がわずかに動く。
その前に、良規は沙織の腕を掴んでいた男の肩へ、そっと手を置いた。
強く掴んだようには見えない。
押したわけでもない。
ただ、手を置いただけだった。
その瞬間、男の身体がビクッと反応し、掴んでいた沙織の手がスッと離れる。
沙織は急いで佳織の手を取り、男たちから距離を取った。
涼子がすぐに、佳織と沙織の前へ回り込む。
「大丈夫?」
涼子が短く尋ねる。
「うん。大丈夫」
沙織は小さく頷いた。
涼子はそのまま、佳織にも視線を向ける。
「柊さんも?」
「……うん」
佳織も小さく頷いた。
声は出た。
けれど、身体はまだ硬直したままで、浅く息をするのが精一杯だった。
良規は男の肩に手を置いたまま、何も言わない。
男は驚いたような顔を良規に向けたまま、動きを止めていた。
「……良規、もういいだろ」
翔が静かに、良規に声をかける。
その言葉と同時に、良規が男の肩からゆっくりと手を離した。
男は、一瞬だけその場に固まった後、ようやく一歩後ずさりながら息を吐いた。
「え……?」
「なんで……?」
男は自分の肩と良規を交互に見て、小さく呟く。
その目と声には、混乱が滲んでいた。
柄シャツの男は、チェーンをつけた男の様子を見て、ようやく異変に気づいたようだった。
さっきまでの余裕は消え、良規たちと周囲を見回したあと、気まずそうに視線を逸らす。
「行こうぜ」
柄シャツの男が低く言った。
男たちは舌打ちをしながら、「チッ、つまんねぇ」と捨て台詞を吐き、足早にその場を離れていった。
男たちが人混みの中に消えていくのを見届けて、佳織は、知らないうちに止めていた息をゆっくり吐いた。
沙織は掴まれた腕を一度だけさすった。
表情は落ち着いているが、その手がわずかに震えていた。
「……助かったよ。ありがとう」
沙織が、ふぅっと大きく息を吐き出してから言う。
翔がいつもの調子に戻すように、軽く笑った。
「いや、俺らもたまたまここに用があったからさ。気にしないでよ」
「ほんと、でもいいタイミングだったね。よかった」
涼子もそう言って、沙織と佳織を見る。
良規は何も言わず、男たちが去っていった方向を一度だけ確認していた。
それからようやく、いつものように視線を戻す。
通りの向こうでは、さっきまで足を止めていた人たちが少しずつ歩き出していた。
それでも、何人かの視線はまだこちらに残っている。
「このままだと落ち着かないだろ。少し移動しようぜ」
翔が周囲を見ながら言った。
涼子も頷く。
「うん。落ち着けるところまで行こ」
佳織と沙織は、二人に促されるように頷いた。
五人はそのまま少し歩き、人の流れから外れた、モール脇の広めの歩道へ出た。
植え込みのそばにはベンチがあり、涼子が佳織と沙織をそこに座らせる。
「二人とも、本当に大丈夫?」
涼子が改めて尋ねる。
「うん。私は大丈夫」
沙織が答える。
「佳織は?」
「……うん。大丈夫」
佳織も頷いた。
助けてもらえたことで、呼吸は少しずつ戻っていた。
けれど、身体に入っていた力が完全に抜けたわけではなかった。
目の前に、良規がいる。
ずっと謝りたいと思っていた相手が、今、すぐそこにいる。
そう意識した瞬間、別の緊張が胸の奥に生まれた。
謝らなければと思っていたこと。
結局、言えないまま夏休みに入ってしまったこと。
そして今また、助けてもらってしまったこと。
佳織は、そっと良規の方を見た。
良規はいつも通りの顔で立っている。
さっき男たちに向かっていったときの静かな圧は、もうどこにも見えない。
「あの……柳井くん」
佳織が声を出すと、良規がこちらを見る。
「助けてくれて、ありがとう」
まずは、そう言った。
「いや、通りかかっただけだから」
良規は淡々と答えた。
本当に、特別なことをしたつもりはないような声だった。
その返事に、佳織は一度だけ目を伏せる。
言うなら、今しかない。
けれど、言葉はすぐには出てこなかった。
隣で、沙織が小さく佳織を見る。
その視線は急かすものではなかった。
けれど、今なら言えるよ、というような静かな後押しがあった。
佳織は、鞄の持ち手を軽く握る。
「あの……それと」
良規は何も言わずに待っていた。
佳織は息を吸う。
「この前、公園で……急に帰って、ごめん」
言えた。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮まり、佳織は顔を伏せた。
良規は、すぐには反応しなかった。
沈黙に耐えきれず、佳織がそっと顔を上げると、良規はわずかに目を見開いていた。
謝られたこと自体が意外だったように、一瞬だけ戸惑った顔をしている。
謝られる理由を、すぐには受け取れずにいるようだった。
翔が、それを見て小さく息を吐く。
「あー、柊さん……こいつ、むしろ自分が何かやらかしたかくらいに思ってたからさ。気にしなくていいよ」
そう言ってから、翔は良規の方を見る。
「ほら、お前が心配することなかったろ」
良規は翔を見た。
少しだけ、困ったような表情を浮かべる。
それだけで、翔の言ったことが本当なのだと分かった。
佳織は少しだけ目を見開いた。
良規が怒っていたわけでも、何も気にしていなかったわけでもない。
むしろ、自分が何か悪いことをしたのかもしれないと、そう思っていたのだ。
そのことが分かった瞬間、胸の奥に残っていた後ろめたさが、少しだけほどけた。
「……そうだったんだ」
佳織は小さく呟く。
良規は何か言おうとしたように見えたが、結局、言葉にはしなかった。
翔と涼子が顔を見合わせ、そろって小さく肩をすくめる。
良規は少し困ったように視線を逸らした。
そのやり取りがあまりにも自然で、佳織はようやく肩の力が抜けるのを感じた。
沙織も、隣で小さく息を吐いている。
それを見て、涼子が口を開いた。
「そういえばさ。二人って、今年の夏祭り行く予定ある?」
急に話題が変わり、佳織は一瞬だけ瞬きをした。
沙織も、涼子を見る。
「夏祭り?」
「うん。この近くの。来週だったよね?」
翔が頷く。
「ああ。俺らもその準備で、ちょうど今日モールに来てたんだよ」
「準備?」
沙織が聞き返す。
「まあ、涼子が色々見たいって言うからさ」
「人のせいにしないでよ。翔も結構乗り気だったじゃん」
「まあな」
翔と涼子のやり取りに、場の空気が少しだけ軽くなる。
佳織と沙織は顔を見合わせた。
「……実は、さっきやめておこうかって話してたの」
沙織が言う。
「え、そうなの?」
涼子が目を丸くする。
「うん。行きたい気持ちはあるんだけど、二人だけだとちょっと不安で」
佳織も小さく頷いた。
さっきのことがあったあとでは、その不安は余計に現実味を持っていた。
「まあ、二人とも目立つし、さっきみたいなのがあるとね」
涼子は眉を下げる。
「お祭りって人も多いし、声かけてくる人もいるし。二人だけだと落ち着かないかもって」
沙織がそう言うと、翔があっさりと口を開いた。
「だったら、みんなで行けばいいじゃん」
「え?」
佳織が思わず聞き返す。
「どうせ俺たち行く予定だったし。大勢の方が楽しいだろ」
「いや、でも……悪いし」
沙織が少し遠慮がちに言う。
「何が?」
翔は不思議そうに首を傾げた。
「人数増えるくらい、別によくない?」
「良規もいるしね」
涼子がにこっと笑う。
「今日みたいなことがあっても、たぶん、世界で一番安心」
「なんだよ、それ」
良規が小さく言うと、涼子は肩をすくめた。
「だって、その通りでしょ?」
その言い方に、沙織が少し笑う。
佳織は、良規の方を見た。
涼子はすかさず、良規に話を振る。
「ねえ、いいよね?」
良規は急に話を向けられて、少しだけ間を置いた。
それから、いつもの静かな調子で言う。
「……まあ、構わない」
「ほら、良規もいいって。これで決定ね」
「柳井くん、本当にいいの? 強引じゃない?」
沙織が思わず笑う。
「いいのいいの。良規、嫌ならちゃんと嫌って言うから。せっかくだし、夏祭り、行けるなら行った方が絶対いいよ」
涼子が明るく言う。
翔も軽く頷いた。
「そうそう。屋台も、人数いる方がいろいろ分けられるしな」
「屋台の食べ物目当てなんだ」
沙織が笑うと、翔は当然のように言った。
「夏祭りなんて、半分屋台目的だろ」
涼子が呆れたように笑い、沙織もつられて笑う。
佳織も、少しだけ口元を緩めた。
さっきまで、今年はやめておこうと思っていた夏祭り。
人の多さも、知らない人の視線も、声をかけられることも。
考えれば不安はまだある。
けれど、五人で行くのなら。
そう思うと、さっきまで遠く感じていた夏祭りの夜が、少しだけ近くなる気がした。
そして、その中に良規もいる。
その事実に気づいた瞬間、佳織の胸がほんの少しだけ高鳴った。
佳織は小さく息を吸い、もう一度、良規の方を見た。
良規は、いつも通り静かに立っている。
けれど、教室で見るより、少し穏やかな顔に見えた。
それだけで、胸の奥に小さな温かさが灯る。
こうして、夏休み最初の予定に、思いがけず新しい約束が加わった。




