1.初夏の稽古、揺るがぬ静けさ
蝉の声が響き始めた、夏休み初日の朝。
まだ陽は高くない。
それでも空気はすでに湿り気を帯びていて、じっとしているだけでも肌に薄く汗がにじむようだった。
静かな住宅街の一角に、柳井家の道場はあった。
年季の入った木造の建物は、周囲の家並みから少しだけ切り離されたように佇んでいる。
軒下に入ると、陽射しを避けた影がひんやりとして、外の暑さが少しだけ遠のいた。
翔と涼子は、その道場の縁側に並んで腰を下ろしていた。
今日は夏祭りの準備も兼ねて、三人で買い物に行くことになっている。
良規は朝の稽古が終わってから合流する予定だったため、翔と涼子は迎えがてら、柳井家まで来ていた。
玄関へ回らず、庭先から道場の方へ足が向いたのは、もしまだ稽古中なら呼び鈴で邪魔をしたくないし、なんなら覗き見してみるか、といういつもの流れだった。
「……お。やっぱり、まだやってるな」
翔がぽつりと呟いた。
道場の中から聞こえるのは、短い気合いの声と、畳を踏む、ごく小さな音。
それから、道着の布が擦れるかすかな響き。
涼子も隣で耳を澄ませる。
「静かだよねえ」
「派手に音立てる稽古じゃないからな」
「それは、わたしでも分かるけど……」
涼子はそう言いながら、少しだけ開いている木戸の隙間へ視線を向けた。
中では、良規が一人で型を繰り返していた。
無駄のない動きだった。
踏み込む足、向きを変える腰、腕の軌道。
速いわけではない。
荒々しいわけでもない。
けれど、ひとつひとつの動きに、余計なものがまったくない。
涼子は良規の稽古を初めて見るわけではなかった。
中学の頃から翔と一緒に何度か見たことがあるし、良規がただ運動が得意という程度ではないことも知っている。
それでも、こうして改めて見ると、やはり何度か見たことのある、他の門下生とは違う。
その時も、今も、良規だけは動きの質が別のものに見えた。
「……何回か見てるけどさ」
涼子が小さく言う。
「やっぱり、良規って変だよね」
「変って言うな」
翔は苦笑する。
「でも、涼子でも分かるんだな」
「うん。分かる。まあ、すごいのは分かるんだけど、何がどうすごいのかまでは、私にはちゃんと分かんない」
涼子は道場の中を見つめたまま続ける。
「中学のときに見たけど、翔も充分すごいって思ったし」
「いや、俺と良規は全然違う」
翔は即答した。
その声には、茶化すような軽さがなかった。
涼子が横を見ると、翔は道場の中を見たまま、いつになく真面目な顔をしていた。
「そんなに違う?」
「違う」
短く答えてから、翔は少しだけ息を吐く。
「俺は、まあ、稽古してそこそこ強くなっただけだよ。あいつは……なんていうか、同じ場所にいるようで、立ってるところが違う」
「立ってるところ?」
「んー、上とか下とかじゃなくてさ。見てる景色が違うっていうか……次元ってやつ」
翔はそこで一度言葉を切った。
道場の中で、良規の動きが変わる。
静かだった空気が、ほんのわずかに張り詰めた。
踏み込みは大きくない。
けれど、涼子は思わず背筋を伸ばした。
何かが来る。
そう感じた瞬間には、良規の身体はすでに次の動きへ移っていた。
音はほとんどない。
なのに、空気だけが切り替わる。
涼子は無意識に息を止めていた。
「……今の、何?」
「型の一部」
「あれ、型なの?」
「俺も説明しろって言われると困る」
「やれと言われても、あんなふうに出来るやつなんて、いない」
翔は苦く笑った。
「でも、ああいうのを見るたびに思うんだよ。あいつが本気に近いところまで行ったら、俺でも止められる気がしない」
その言葉は、冗談には聞こえなかった。
涼子は翔の横顔を見る。
「翔が、そこまで言うんだ」
「ああ」
翔は視線を動かさない。
「昔からそうだった。普段の良規は、まあ、あんな感じだろ。無口で、面倒くさがりで、本読んでばっかで、妙なところで律儀で」
「うん。そこはよく知ってる」
「でも、あいつが試合とか勝負の中で、一段深いところに入るとさ」
翔は少しだけ言葉を探すように黙った。
「感情が消えるんだよ」
涼子は何も言わなかった。
道場の中では、良規が変わらず淡々と動いている。
表情は静かで、息は乱れていない。
それなのに、翔の言葉を聞いたあとでは、その静けさが少しだけ違って見えた。
「なんか、怖いくらいだね」
涼子がそっと聞く。
翔はすぐには答えなかった。
「怖いっていうか……」
小さく笑う。
「なんて言えばちゃんと伝わるかな……何を言っても足りないんだよな」
「それでも、翔は良規のそばにいるんだね」
涼子の言葉に、翔は肩をすくめた。
「ま、それはそれ、これはこれだな」
「そこ、軽く言うんだ」
「重く言うことでもないだろ」
翔はそう言って、少しだけ表情を緩める。
そのまま、翔の視線はすぐに道場へ戻る。
良規の動きが、ふっと止まった。
それまで張り詰めていた空気が、ゆっくりほどけるのが、ここまで伝わってくる。
良規は畳の上で正座し、静かに呼吸を整えていた。
汗が首筋を伝っている。
それでも表情はほとんど変わらない。
涼子は小さく息を吐いた。
「……終わった?」
「たぶんな」
翔は縁側から立ち上がる。
「さて、覗き見はここまでにして、ちゃんと玄関から声かけるか」
「最初からそうすればよかったんじゃない?」
「稽古中に邪魔するよりいいだろ」
「それはそうだけど、覗き見は悪趣味じゃない?」
「良規なら気づいてるだろうし、怒らねえよ」
翔が当然のように言うと、涼子は少し呆れたように笑った。
良規と翔は、それを許される関係なのだと、涼子も分かっている。
良規はたぶん、二人がそこにいたことに気づいている。
それでも何も言わない。
翔もそれを分かっているから、こうして縁側に座っていられる。
涼子は立ち上がりながら、もう一度だけ道場の中を見た。
良規は立ち上がり、手ぬぐいで汗を拭っていた。
さっきまで全身から発していたものは、もうその背中には感じられない。
いつもの、良規だった。
翔はその姿をちらりと見てから、小さく息を吐いた。
「……ほんと、相変わらずだな」
「何が?」
「いや、なんでもないよ」
翔はそう言って、道場から視線を外した。
夏の朝の風が、軒下を抜けていく。
涼しいというほどではない。
それでも、張り詰めていた空気を少しだけ和らげるような風だった。
二人は縁側を離れ、柳井家の玄関へ向かった。




