4. 言えないひと言
翌朝、佳織はいつもより少し早く学校に向かっていた。
昨日の公園でのことが、ずっと頭の片隅に残っていた。
急に帰ってしまったこと。
帰り際、良規の方を見られなかったこと。
そして、自分で口にした言葉に、自分で戸惑ってしまったこと。
――柳井くんと仲良いって、そう思ってくれてるのかな。
思い返すだけで、顔に熱が戻りそうになる。
別に、深い意味で言ったわけではなかった。
しらたまが懐いてくれたのが嬉しくて、少しだけ気持ちが浮いていただけだ。
そう思おうとしても、あのときの自分の声が、やけに遠くにまで響いたような感覚だけは消えてくれなかった。
(……昨日は急に帰って、ごめん)
心の中で、何度か繰り返す。
それくらいなら、言えるはずだ。
昨日、何も言わずに帰ってしまったことを、ただ謝るだけなのだから。
教室の前で、佳織は一度だけ小さく息を吸った。
朝の廊下はまだ静かで、遠くから運動部の掛け声がかすかに聞こえてくるくらいだった。
この時間なら、いつものように良規だけが教室に来ているかもしれない。
そう思いながら、佳織は扉を開けた。
けれど、教室には誰もいなかった。
窓際の席にも、良規の姿はない。
机の上には何も置かれておらず、朝の光だけが静かに差し込んでいた。
「……」
言おうとしていた言葉が、行き場をなくす。
誰もいない教室は、いつもより広く感じた。
良規がいないことに少しほっとしたような、逆に肩透かしを食らったような、どちらともつかない気持ちになる。
佳織は自分の席に鞄を置き、椅子に腰を下ろした。
少しして、ひとり、またひとりとクラスメイトが教室へ入ってくる。
教室の空気が、少しずつ朝のざわめきを帯びていった。
良規が来たのは、それからしばらくしてからだった。
珍しく、他の生徒たちとほとんど変わらない時間だった。
良規はいつも通りの顔で教室へ入り、自分の席へ向かう。
佳織は一瞬だけ顔を上げた。
けれど、周りにはもう何人もクラスメイトがいる。
今ここで、一人で良規の席へ行って話しかけることなんてできなかった。
(……今は、無理)
佳織はそっと視線を落とした。
朝に言えなかった言葉は、そのまま胸の奥に残った。
***
昼休み。
佳織は沙織と並んで、教室で弁当を広げていた。
教室にはいつも通り昼を済ませる生徒たちが残っている。
ただ、どこか少しだけ空気が違う気がした。
「今日は、相沢くんと水瀬さん、食堂みたいだね」
沙織が卵焼きを箸で持ち上げながら、何気ない調子で言った。
「……そうなんだ」
「だからかな。いつもよりクラスに活気がない気がする」
沙織は小さく笑う。
「二人がいると、なんだかんだ賑やかだもんね」
「そうだね」
佳織も頷きながら、無意識に窓際の席へ目を向けた。
良規の席も空いていた。
沙織はその視線を追うようにして、少しだけ首を傾げる。
「今日は、柳井くんもいないね」
「……うん」
佳織は短く返した。
普通にしているつもりだった。
けれど、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
朝は話せなかった。
昼も、良規は教室にいない。
今日のうちに一言だけでも言えればと思っていたのに、タイミングは思っていたよりも簡単には来てくれなかった。
佳織は弁当箱の端を見つめ、それからふと思いついたように顔を上げた。
「あ……飲み物、持ってくるの忘れた」
沙織が目を向ける。
「買ってくる?」
「うん。すぐ戻るね」
佳織はできるだけ自然にそう言って、財布を手に席を立った。
本当は、忘れてはいない。
持ってきた水筒が、鞄の中に入っている。
ただ、食堂の方へ行く理由が欲しかった。
廊下に出ると、昼休みの校舎はいつもより騒がしい。
食堂へ向かう生徒、戻ってくる生徒、廊下の端で立ち話をする生徒たち。
佳織が歩いていると、すれ違う生徒の視線がいくつかこちらへ向いた。
慣れている。
けれど、平気なわけではない。
それでも足を止めずに進むと、食堂の入口近くにある自販機が見えてきた。
その向こうの席に、翔と涼子がいた。
そして、良規も一緒だった。
佳織の足が、ほんの少し止まる。
良規はトレイを前にして、翔と涼子と何か話している。
声までははっきり聞こえない。
少しだけ近づけば、話しかけられるかもしれない。
飲み物を買ったあと、偶然のようにそばを通ればいい。
そう思った瞬間だった。
「は? ニ回目?」
翔の声が、食堂のざわめきの中で思ったより大きく響いた。
近くの席の生徒たちが、いっせいにそちらを見る。
翔はすぐに咳払いをして座り直したが、一度集まった視線は、しばらくその周辺に残った。
佳織は自販機の前で、動けなくなった。
今、あそこへ行けば、間違いなく目立つ。
翔と涼子と良規のところに、自分が近づいていくところを、食堂にいる生徒たちに見られる。
それだけではなかった。
佳織の周りにも、すでにいくつかの視線があった。
自販機の前にいるだけなのに、ちらちらとこちらを見ている生徒がいる。
何かを言われたわけではない。
けれど、その視線の中を抜けて、良規のところへ行く勇気は出なかった。
(……無理)
佳織はボタンを押し、出てきたペットボトルを取る。
もう一度だけ、食堂の方へ目を向けた。
良規は翔と涼子に何かを話しているようだった。
そこに、自分の入る場所はないように見えた。
佳織はペットボトルを抱えるように持ち、来た道を戻った。
教室に戻ると、沙織が顔を上げた。
「おかえり」
「うん」
「混んでた?」
「……少し」
佳織はそう答えて、自分の席に座った。
沙織は何かを感じ取ったようだったが、それ以上は聞かなかった。
ただ、いつも通りの声で午後の授業の話に戻してくれた。
そのさりげなさに、佳織は少しだけ救われた気がした。
***
午後には、期末テストが返却された。
教室は、答案用紙が返されるたびに騒がしくなっていく。
点数を見て肩を落とす生徒もいれば、友人と見せ合って笑っている生徒もいる。
その中で、涼子の声がぱっと弾んだ。
「補習、回避!」
翔が振り返る。
「おお、やったじゃん」
「ほんとギリギリだったけど! でも回避は回避!」
涼子は答案を握りしめ、嬉しそうに翔の方へ身を乗り出した。
「良規、見て! 私の夏休み、無事確保!」
「よかったな」
良規は淡々と答えていたが、涼子は気にした様子もなく、嬉しそうに話し続けている。
翔も笑いながらそれに付き合っていた。
教室の何人かが、その賑やかさに目を向ける。
佳織は、自分の席からその様子を見ていた。
今なら、良規は教室にいる。
けれど、翔と涼子も一緒にいる。
しかも、涼子の声で周囲の視線もそちらへ向いている。
そこへ自分が行くことは、やっぱりできなかった。
(……また、言えなかった)
昨日のことを謝りたいだけなのに。
急に帰ってごめんと、一言伝えたいだけなのに。
それだけのことが、こんなにも難しい。
***
放課後。
帰り支度をしていると、沙織がそっと近づいてきた。
「佳織、今日ちょっと寄っていかない?」
「……どこに?」
「この前の喫茶店」
沙織は軽く鞄を持ち直しながら言う。
「他にも美味しそうなのあったから、また行きたいって思ってたんだ」
佳織は少しだけ目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「……うん。行きたい」
駅前通りから少し外れた喫茶店は、今日も静かだった。
店内には一組の客がいるだけで、話し声も控えめだった。
奥の窓際の席に座ると、佳織はようやく息をつけた気がした。
二人は前と同じように、アイスコーヒーを注文した。
佳織はプリンアラモード、沙織はフルーツタルト。
運ばれてきた皿を前にして、沙織はまずタルトを一口食べ、満足そうに目を細めた。
「やっぱり、ここのケーキおいしい」
「うん」
佳織もスプーンでプリンをすくい、口に運ぶ。
濃いカスタードの甘さと、ほろ苦いカラメルのソースがゆっくり広がった。
けれど今日は、その味に集中しきれなかった。
沙織はしばらく何も聞かなかった。
アイスコーヒーを一口飲み、タルトをもう一口食べてから、ようやく静かに口を開く。
「今日、何かあった?」
佳織はスプーンを持つ手を止めた。
「……うん」
「柳井くんのこと?」
一瞬、驚いて沙織を見る。
沙織は、さもありなん、といった感じに、
いつもの穏やかな笑顔で佳織を見返す。
「うん」
小さく頷く。
沙織は、ただ、続きを待ってくれている。
佳織は少しずつ話した。
昨日、公園で良規に会ったこと。
白い猫に名前がついていて、しらたまだと聞いたこと。
しらたまが自分に寄ってきて、撫でさせてくれたこと。
良規が、それを少し珍しそうに見ていたこと。
そして、自分で言ってしまった言葉のこと。
「……柳井くんと仲良いって、そう思ってくれてるのかな、って」
口にした瞬間、また顔が熱くなった。
佳織はアイスコーヒーのグラスへ視線を落とす。
「言ってから、自分でびっくりして。それで、なんか……そこにいられなくなって」
沙織は少しだけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「そっか」
「嫌だったわけじゃないの」
それだけは、すぐに言えた。
「しらたまが懐いてくれたのも、柳井くんが否定しなかったのも、嬉しかったんだと思う。でも、だから余計に……」
「居た堪れなくなった?」
「……うん」
佳織は小さく頷く。
「それで、今日、謝ろうと思ったんだけど。朝一番には来ていなくて、柳井くんが来た頃にはもう他の人も結構いて。
昼も、食堂で見かけたけど、相沢くんが大きな声を出して周りが見てたし、私の方にも視線があって……午後は水瀬さんが補習を免れてて、あの3人ですごく嬉しそうで」
話しながら、自分でも言い訳みたいだと思った。
けれど、どれも本当だった。
「結局、言えなかった」
沙織は責めるでもなく、ただ静かに聞いていた。
「無理に行かなくてよかったと思うよ」
「そうかな」
「うん。佳織が無理して話しかけたら、それはそれでしんどかっただろうし、むしろ柳井くんにも変な迷惑かけたかもしれない」
沙織の言葉に、佳織は少しだけ黙る。
その通りだった。
言えなかったことは後悔している。
けれど、あの場面で無理に近づいていたら、きっともっと苦しかったし、何より周りの目に柳井くんを巻き込む事になる。
「明日は終業式だし、そのあとは夏休みでしょ」
沙織はやわらかい声で続ける。
「少し時間が空いたら、案外普通に話せるようになるかもしれないよ」
「夏休み……」
佳織は小さく呟いた。
学校で会う機会が減る。
そう思うと、少しだけ胸の奥が静かになるような、逆に落ち着かなくなるような、不思議な感覚があった。
沙織はそんな佳織を見て、少しだけ口元を上げる。
「それに、どうしても謝りたいなら、行ける日は毎日その公園に寄ってみたら? 会えたら謝れるかもしれないし」
「ま、毎日?」
佳織は思わず顔を上げた。
「うん。しらたまに会いに行くって理由もあるし」
「そ、そんなことできないよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
佳織は言葉に詰まり、頬が一気に熱くなるのを感じた。
「毎日行ってるの、もし知られたら、柳井くんに変に思われるかもしれないし」
「柳井くんなら、たぶん『猫が気になるんだな』で終わるんじゃない?」
「それはそれで……」
「それはそれで?」
沙織が少し楽しそうに聞き返す。
佳織は答えられず、視線をプリンへ逃がした。
沙織はそれ以上からかわず、フォークでタルトを小さく切る。
「まあ、言えるときに言えばいいよ」
「……うん」
「それに、柳井くんは、きっと怒ってるとかじゃないと思うし」
「そうかな」
「うん。少なくとも、佳織が急に帰ったことを悪く取るタイプには見えないかな」
沙織の声は穏やかだった。
その言葉に、佳織の胸の奥が少しだけ軽くなる。
「……聞いてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
沙織はそう言って、アイスコーヒーを一口飲んだ。
しばらく、二人は静かに甘いものを食べた。
やがて、沙織がふと思い出したように言う。
「でも、本当にいよいよ夏休みだね」
「うん。明日が終業式だもんね」
「そういえば、最近できたモールの新しいフロア、知ってる?」
「新しいフロア?」
「うん。レディース向けのお店が多いらしいよ。服とか雑貨とか、コスメ系もあるみたい」
「そうなんだ」
「きっとさ、女の子ばかりだから、いつもより気楽に見て回れそうじゃない?」
その言葉に、佳織は少しだけ考えてから頷いた。
「……それは、ちょっといいかも」
「でしょ。夏休みに入ったら行こうよ」
「うん。行きたい」
今度は、さっきより少し自然に笑えた。
まだ、良規に謝れてはいない。
公園のことも、自分の気持ちも、はっきり整理できたわけではない。
それでも、夏休みの予定を話していると、少しだけ前を向ける気がした。
窓の外では、夕方の光が通りを淡く染めている。
終業式の前日。
夏休みは、もうすぐそこまで来ていた。




