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3.揺れる気配と素直な言葉

昼休みの食堂は、いつもより少し混んでいた。


トレイを持った生徒たちが列を作り、空いた席を探す声があちこちから聞こえてくる。

食器の音や話し声が重なって、教室とはまた違うざわめきが広がっていた。


その一角で、翔と涼子は向かい合って昼食をとっていた。


「今日、食堂混んでるね」


涼子が周囲を見回しながら言う。


「金曜だからじゃね?」


翔は味噌汁の椀を持ちながら、何気なく返した。


「金曜?」


「親も一週間働いて疲れてるだろうし、弁当作る余裕ない家が増えるんじゃねえの」


「へえ。鋭いね、翔」


「だって、うちの親がまさにそれだからな。金曜の朝、だいたい限界っぽいし、機嫌悪い」


「なるほど。実感こもってる」


涼子がくすっと笑った、そのときだった。


翔の視線がふと横へ動く。


トレイを持った良規が、こちらへ向かって歩いてきていた。


「……良規?」


翔は思わず箸を止める。


涼子も顔を上げ、少し目を丸くした。


「珍しい。今日、雨降る?」


「なんだ、それ」


良規はいつもの淡々とした顔でそう返し、二人の近くにトレイを置いた。


「弁当、今日は?」


翔が何気なく聞く。


「用意する時間がなかった」


「ま、そういうこともあるか」


翔はそれ以上、深く聞かなかった。


涼子は一瞬だけ良規を見たが、すぐに何もなかったように箸を取る。

詳しい事情までは知らない。

けれど、軽く踏み込む話でもないことくらいは、翔の声からなんとなく分かっていた。


良規は席に座り、しばらく無言で箸を手に取った。


けれど、すぐには食べ始めない。


翔はその様子に気づいて、少しだけ眉を上げた。


「お前、なんかぼんやりしてないか?」


「そうか?」


「心ここに在らず、って顔してる」


「どんな顔だよ」


「今のお前の顔」


翔が真顔で言うと、涼子が横で小さく吹き出した。


良規は特に反論するでもなく、視線を少し落とす。


「……昨日」


ぽつりと、良規が言った。


翔と涼子はほぼ同時に目を向ける。


「昨日?」


「公園で、柊さんと会った」


その一言に、翔の表情がわずかに動いた。

涼子も、持っていたカップをそっと置く。


「……公園で?」


翔が聞き返す。


「え、昨日だよね?」


涼子も思わず身を乗り出す。


そんな二人に、やや驚きつつ、良規は自分のトレイをさりげなく涼子から遠ざける。


「ああ」


「いや、ちょっと待て。柊さんが、前にお前が猫を助けたところを見てて、それで学校で話しかけてきたって話は聞いたけどさ」


翔は言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。


「昨日、公園で、あの柊さんと会ってたのか?」


良規は少しだけ首を傾げた。


「ああ。昨日でニ回目だな」


「は? ニ回目?」


翔が思わず声を上げる。


近くの席の生徒たちが何人かこちらを見て、翔はすぐに咳払いをして座り直した。


「……聞いてねえよ」


今度は声を落として言う。


涼子も横で頷いた。


「私も聞いてない」


「そうか」


良規は特に悪びれた様子もなく、短く返した。


翔と涼子は、思わず目を合わせる。


昨日、昇降口で柊さん、藤崎さんと話したばかりで、その中で、良規の話もした。

元々、柊さんが良規のことを気にしているらしいとは感じていた。

けれど、あのときも、ほんの少しだけ良規の話題に反応していたように思う。

藤崎さんも、それに気づいたうえで、少しだけからかっていた。


その日のうちに、柊さんがまた公園で良規と会っている。

しかも、二人が知らなかっただけで、そこは初めてではなかった。


柊さん、本当にたまたま偶然、公園に行ったのか?


涼子も同じことを考えたのか、わずかに目を細めていた。


良規はそんな二人の反応には気づかないまま、話を続ける。


「俺がベンチで本を読んでいたら、柊さんが来た。足元にしらたまがいて、それで少し話した」


「しらたま?」


翔と涼子の声が重なった。


良規は一拍置いてから答える。


「前にも話した、怪我してた猫の名前」


「ああ、お前が助けた猫か」


翔がようやく納得したように頷いた。


「名前つけたんだ?」


「ああ」


「ちなみに、なんでしらたま?」


涼子が聞くと、良規は淡々と返した。


「白くて丸いから」


「白い猫だったんだ」


涼子が少し意外そうに言う。


「言わなかったか?」


「猫を助けたって話は聞いたけど、色までは聞いてなかったし」


「そうか」


良規は特に深く考えた様子もなく頷く。


翔は少しだけ呆れたように笑った。


「で、白くて丸いから、しらたま?」


「ああ」


「安直すぎない?」


涼子が笑うと、良規はあっさり頷いた。


「否定はしない」


その返しに、涼子はまた小さく笑った。


けれど翔は、良規の様子を見ながら、まだ少し引っかかっていた。


良規が自分からこういう話をするのは珍しい。

それだけでも、何か気にしているのは分かる。


「で? そのしらたまの話で、どうしたんだよ」


翔が促すと、良規は少し考えるように箸を置いた。


「しらたまが柊さんに懐いた。途中まで普通に話してた。でも、急に帰った。そこが、分からない」


「……それじゃ分からねえよ」


翔が思わず言う。


良規は少しだけ眉を動かした。


「何がだ」


「分からないのは、柊さんが急に帰ったって事?」


「そうだ」


「いや、急に帰ったって言っても、その直前に何話してたとか、柊さんがどんな様子だったとか、そういうのがあるだろ」


涼子も頷く。


「うん。そこが分からないと、何があったのか全然分からない」


「そういうものか」


「そういうもの」


涼子がきっぱり言うと、良規は少しだけ考え込んだ。


「しらたまが、俺以外にはあんまり寄らないなと思ってた、とは言った」


「うん」


翔が先を促す。


「柊さんが、自分のことは平気なのかな、と言ったから、そうみたいだな、と答えた」


涼子が小さく瞬きをする。


「それで?」


「そのあと、柊さんが、俺と仲良いって思ってくれてるのかな、と言った」


翔は箸を止めた。


涼子もカップに伸ばしかけた手を止める。


「……で、お前は?」


「どうだろうな、と答えた」


しばらく、沈黙が落ちた。


食堂のざわめきだけが、妙にはっきり聞こえる。


翔は額に手を当てかけて、途中でやめた。

涼子は口元を引き結んで、笑うのをなんとかこらえている。


「……そのあと、柊さんは?」


翔が声を抑えて聞く。


「少し黙っていた。気まずい感じではなかったと思う。けど、急に帰ると言った」


「顔は?」


「いや、こちらを向かなかったから、分からない」


「それを先に言えよ」


翔が小声で突っ込む。


良規は不思議そうに翔を見た。


「重要なのか?」


「めちゃくちゃ重要だろ」


涼子が横で深く頷いた。


「それで、帰るときは?」


「しらたまには挨拶してた。でも、俺の方はやっぱり見なかった」


翔と涼子は、もう一度目を合わせた。


ここ最近、目立つようになってきていた柊さんの視線。

昨日の昇降口での反応。

藤崎さんの少しだけからかうような言い方。

そして、良規から聞いた、公園での会話。


その全部が、二人の中でつながっていく。


柊さんは、良規との会話の中で、たぶん何気なく「仲良い」という言葉を口にした。

そして、良規はそれを否定しなかった。


きっと、それが柊さんの中で、あとから急に大きくなったんだろう。


嫌だったわけではない。

むしろ、その逆だったからこそ、居た堪れなくなった。


翔には、なんとなくそんなふうに思えた。

涼子も、おそらく同じことを考えている。


そして良規本人だけが、何も分かっていない。


良規は二人の反応には気づかず、真面目な声で続けた。


「俺、何か変なこと言ったのか?」


翔は小さく息を吐いた。


「たぶんだけど、お前が変なこと言ったわけじゃないと思うぞ」


「そうなのか?」


「ああ。少なくとも、傷つけたとか、怒らせたとか、そういう感じじゃないと思う」


涼子も頷いた。


「むしろ、柊さんの方が自分でちょっとびっくりしたんだと思う」


「何に?」


「……そこを聞くんだ」


涼子は苦笑する。


翔が横から軽く助け舟を出した。


「まあ、あれだ。人ってさ、何でもない会話のつもりでも、急に自分の言ったことが恥ずかしくなることあるだろ」


「あるのか?」


「あるんだよ」


翔は即答した。


涼子も真面目な顔で頷く。


良規は少しだけ考え込む。


「……そういうものなのか」


「そういうものです」


涼子がきっぱり言った。


翔はその横で、内心だけでため息をつく。


良規は、相手が急に帰ったことには気づく。

しらたまにだけ挨拶して、自分の方を見なかったことにも気づいている。

傷つけたかもしれないと心配もする。


なのに、その理由が、自分を意識しているからかもしれないという方向には、どうしても考えが向かない。


そこが良規らしいといえば、良規らしい。

けれど、それだけで片づけていいものではないことも、翔は少しだけ知っていた。


「とにかく」


翔は軽く声を戻した。


「お前が気に障ることを言った可能性は低いと思う。少なくとも、話を聞く限りは」


「そうか」


良規はそこで、ようやく少しだけ息を吐いた。


「なら、よかった」


その一言に、翔と涼子は一瞬だけ目を合わせる。


涼子の表情が、少しだけ柔らかくなった。


「良規って、そういうところはちゃんと気にするよね」


「そういうところ?」


「相手を傷つけたかもしれないって思ったら、ちゃんと気にするところ」


良規は少しだけ不思議そうな顔をした。


「普通だろ」


「うん。普通って言えるの、良規らしいよ」


涼子は楽しそうに笑った。


翔も、ようやく箸を手に取る。


「まあ、次に会ったら普通にしてればいいんじゃね?」


「普通に」


「そう。いつも通りでいいんだよ」


翔が言うと、涼子も頷いた。


「良規が変に気を遣いすぎると、たぶん逆に柊さんも困るし」


「……そうか」


良規は短く返し、ようやく昼食に手をつけた。


翔はその様子を見て、少しだけ口元を緩める。


「それにしても、珍しいな。お前がこういう話を自分からするの」


「ほかに、聞く相手が思いつかなかった。助かった」


「これまた、珍しいな」


「なにが?」


「お前が、助かったとかさ」


涼子が笑う。


「じゃあ、このお礼は、食堂のプリンで」


「なぜそうなる」


「私が食べたいから」


「拒否権、なさそうだな」


「分かれば、よろしい」


翔が吹き出すと、良規は微妙な顔をした。


それでも、さっきまでの引っかかりは少しだけ薄れたように見えた。


食堂のざわめきは相変わらず大きい。

けれど三人の間には、いつものような軽さが戻り始めていた。

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