1.始まりは偶然の交差
放課後の昇降口前は、帰り支度を終えた生徒たちでほどよく混み合っていた。
下駄箱の前で立ち止まる者。
友人を待ちながら壁際に寄る者。
校門の方へ向かって、軽い足取りで歩き出す者。
その流れの少し外れたところで、翔と涼子は並んで靴を履き替えていた。
「なあ」
翔が、少し声を落として言う。
「柊さん、最近またちょっと分かりやすくなってないか?」
涼子は靴のかかとを整えながら、ちらりと翔を見る。
「良規のこと?」
「まあ、そう」
「それは前からでしょ」
「いや、前からなのは分かってるけどさ。なんか、少しずつ強くなってる気がするんだよな」
翔がそう言うと、涼子は少しだけ考えるように視線を上げた。
「もうすぐ夏休みだからじゃない?」
「夏休み?」
「学校で会う機会、減るでしょ。まだ自分でもよく分かってない相手なら、距離が空く前に余計気になっちゃうこともあるんじゃないかな」
「……そういうもんなのか」
「そういうもんです」
涼子が軽く言うと、翔は感心したような、納得しきれていないような顔をした。
「良規は絶対そこまで考えてないけどな」
「それは知ってる」
「即答かよ」
「だって良規だし」
そんなやり取りをしていると、涼子の視線がふと床へ落ちた。
昇降口から廊下へ続くあたりに、薄いカードケースのようなものが落ちている。
人の流れに踏まれそうになっていて、涼子はすぐにそちらへ足を向けた。
「あ、これ」
拾い上げると、中に学生証が見えた。
「藤崎さんのだ」
「え?」
翔が覗き込む。
ちょうどその少し先で、佳織と沙織が並んで歩いていた。
二人は帰り道のことでも話しているのか、ゆっくりと校門の方へ向かっている。
「“ウワサをすれば”って、まさにこういうんだな」
翔が呆れたように軽く笑うと、
涼子は小さく息を吸って、明るい声をかけた。
「あの、藤崎さん!」
呼ばれて、沙織が振り返る。
隣の佳織も、少し遅れて足を止めた。
「これ、落としたよ」
涼子が学生証を差し出すと、沙織は一瞬目を丸くし、それから慌てて鞄を確認した。
「あっ……ほんとだ。ごめん、全然気づかなかった。ありがとう、水瀬さん」
「ううん。踏まれる前でよかった」
「うちの涼子、落とし物センサー高めなんで」
翔が横から茶化すように言うと、涼子は軽く肘で翔をつついた。
「何そのセンサー」
「いや、実際すごいだろ。俺なら絶対見落としてた」
「それは翔が雑なだけ」
「ひどくない?」
そのやり取りに、沙織がくすっと笑う。
佳織も、少しだけ表情を緩めた。
「本当に助かった。学生証なくすと面倒だし」
「だよね。私も一回なくしかけたことあるから、ちょっと焦った」
涼子の気さくな返しに、沙織は自然に頷く。
「水瀬さんたちも、今から帰るところ?」
「うん。良規はもう先に帰ったし、私たちもそろそろって感じ」
「柳井くん? いつも一緒のイメージだったけど、もう帰ったんだ」
沙織がさりげなく言うと、佳織の視線がほんのわずかに動いた。
それは本当に小さな反応だった。
けれど、涼子と翔は気づいていた。
涼子は何も言わず、少しだけ笑う。
「良規って、放課後になると早いんだよね。本読んでたかと思ったら、気づいたらいなくなってる」
「分かる。教室だと、いつも本読んでる印象ある」
沙織が言うと、翔は肩をすくめた。
「だいたい本読んでるな。あいつ、放っておくとずっと読んでるから」
佳織は少し迷ったあと、控えめに口を開いた。
「柳井くんって、普段もそうなの?」
「うん。基本あんな感じ」
涼子が笑いながら頷く。
「でも、意外と変なところで詳しかったりするよ。甘いものとか」
「甘いもの?」
佳織の声に、ほんの少し興味が混じった。
翔はその反応に気づき、少し得意げに言った。
「そうそう。ああ見えて、スイーツにめちゃくちゃ詳しいんだよ。前に一緒にケーキ屋行ったときなんか、材料とか、チョコの産地とか、普通に説明し始めてさ」
「良規、そういうの真顔で言うから余計おかしいんだよね」
涼子が思い出したように笑う。
「見た目というか、雰囲気だけなら、甘いものとか興味なさそうなのに」
「……意外」
佳織は小さく呟いた。
昨日の喫茶店。
ガトーショコラとチーズケーキ。
ふと、そんな記憶が頭をよぎる。
柳井くんなら、あのお店のケーキをどう言うのだろう。
そう考えかけて、佳織は少しだけ視線を落とした。
そのとき、廊下を通りかかった数人の生徒が、こちらをちらりと見た。
「おっ、柊さんだ、見れてラッキー!」
「ほんとだ。近くで見るとやっぱすごいな」
「相沢たちと話してるの、珍しくない?」
佳織は聞こえていないふりをした。
慣れている、というほど平気なわけではない。
けれど、反応すれば余計に目立つことも知っている。
沙織が、佳織の横に少しだけ寄る。
涼子はすれ違っていく生徒たちの方へ、すっと視線を向けた。
笑顔は崩していない。
けれど、その目だけが少し鋭い。
生徒たちはそれに気づいたのか、慌てたように視線を逸らして歩いていった。
翔はその様子を見て、わずかに眉を動かした。
「……柊さんも、大変だな」
思わず漏れたような言葉だった。
佳織は少しだけ困ったように笑う。
「そんなことないよ。もう慣れてるから」
その返しが、かえって本音ではないように聞こえた。
沙織は何も言わなかった。
ただ、その横顔からは、さっきまでの柔らかさが少しだけ消えていた。
涼子が軽く息を吐いて、少し明るい調子に戻した。
「慣れなくていいと思うけどね、そういうの」
「あー、そうだな」
翔も頷き、それから何かを思いついたように佳織たちを見る。
「そういう意味でもさ、困ったことあったら良規に言ってみるのもありかもな」
「柳井くんに?」
佳織が目を瞬かせる。
「うん。あいつ、ああ見えてめちゃくちゃ強いんだよ」
翔の言葉に、沙織も少し意外そうな顔をした。
「強いって、運動が得意とか?」
「いや、そういうレベルじゃなくて。実家が道場でさ。古武術っていうのかな。俺も昔ちょっと通ってたんだけど、良規は本当に別格」
「別格……」
沙織が小さく繰り返す。
涼子も頷いた。
「本人は絶対、自分から大げさには言わないけどね。でも、護身術くらいなら教えてくれると思うよ」
翔が少し笑って続ける。
「まあ、困ったらボディガード頼んでもいいかもな。良規なら、必要だと思ったら普通に動くと思うし」
「ボディガードって……」
佳織は思わず苦笑した。
冗談のように聞こえる。
けれど、翔と涼子の表情は、完全な冗談だけでもなさそうだった。
「柳井くん、そんなに強いんだ」
「強いよ。少なくとも、見た目から想像するよりはずっと」
翔は軽く言ったが、その声には妙な確信があった。
涼子が横から笑う。
「だから、もし本当に困ったことがあったらさ。良規って、面倒くさがりそうな顔はするけど、たぶん断らないから」
「ああ、本当それ。」
翔が頷く。
「文句言いながらちゃんとやるタイプ」
「それ、なんか想像できるかも」
沙織が表情を崩して笑うと、場の空気が少し和らいだ。
佳織も、つられるように微笑む。
良規のことを知っている二人が、当たり前のようにそう言う。
そのことが、少し不思議で、少しだけ安心できた。
「相沢くんと水瀬さんって、やっぱり柳井くんと仲いいんだね」
沙織が言うと、翔は照れ隠しのように頭をかいた。
「まあ、中学からの付き合いだしな」
「良規、分かりにくいけど、悪いやつじゃないよ」
涼子がさらりと言う。
「むしろ、変なところで律儀」
「変なところってなんだよ」
「んー、全部?」
「雑!」
翔と涼子のやり取りに、佳織と沙織はまた笑った。
さっきまで少し張っていた空気が、ゆっくりほどけていく。
昇降口の人通りはまだ途切れない。
けれど、四人の間には、ほんの少しだけ別の空気が生まれていた。
「じゃあ、私たちそろそろ行くね」
涼子が軽く手を上げる。
「うん。学生証、本当にありがとう」
沙織が改めて礼を言うと、涼子は笑って首を振った。
「またね、藤崎さん。柊さんも」
「うん。また明日」
佳織も小さく手を振る。
翔も「またな」と軽く言い、涼子と並んで校門の方へ歩いていった。
少し離れてから、沙織がぽつりと言う。
「……話しやすい人たちだったね」
「うん」
佳織は頷いた。
「なんか、自然に話せた気がする」
沙織は少しだけ間を置いてから、佳織の横顔をちらりと見た。
「相沢くんも水瀬さんも、柳井くんのことよく知ってる感じだったね」
「……え?」
佳織がわずかに目を大きくする。
その反応を見て、沙織はほんの少しだけ口元を上げた。
「なに、その反応」
「う……別に、変な意味じゃなくて」
「ふーん? そうなの?」
沙織は笑顔のまま、それ以上はからかわずに前を向く。
佳織は少しだけ頬を熱くしながらも、小さく息を整えた。
「……そうだね」
そう答えてから、佳織はもう一度、さっきの会話を思い返す。
スイーツに詳しいこと。
実はとても強いこと。
必要だと思ったら、きっと動いてくれる人だということ。
自分がまだ知らない柳井良規のことを、少しだけ聞いた気がした。
そしてそれは、不思議と嫌な感じではなかった。
むしろ、もう少し知ってみたいと思ってしまうくらいには。
佳織はそんな自分に気づき、少しだけ視線を伏せる。
隣で沙織が、何も言わずに小さく笑っていた。




