3.いつもより、早い朝
翌朝、佳織はいつもより少し早く家を出た。
玄関を出る前から、胸の奥に昨日の言葉が残っていた。
——『おはよう』って、ひとこと。
沙織の声を思い出すたびに、何でもないはずの言葉が、少しだけ特別なもののように思えてくる。
もちろん、必ず言うと決めたわけではない。
もし無理そうなら、今日はやめてもいい。
そう自分に言い聞かせながらも、いつもより早く準備を済ませてしまった時点で、答えは少しだけ出ていたのかもしれなかった。
駅前へ向かう道は、いつもより人が少なかった。
通勤の大人たちが足早に歩いているくらいで、同じ制服の生徒はまだまばらだ。
普段なら自然と集まってくる視線も、今朝は少し遠い。
(……静か)
それだけで、思っていたより歩きやすかった。
いつもの時間なら、誰かに見られていることをどこかで意識してしまう。
けれど今朝は、風の音や、ローファーが歩道を叩く音の方がはっきり聞こえた。
(……そっか。もっと早く気づけばよかったな)
人目も気にせず歩けるこの静けさは、思っていた以上に心地よい。
少しだけ、気持ちに余裕ができる。
その余裕が、逆に胸の奥を落ち着かなくさせた。
(柳井くん、もう来てるかな)
これまでにも、佳織が少し早めに教室へ着いたことは何度かあった。
けれど、そのたびに、良規はもう窓際の席に座っていた。
(柳井くんって、いつも早いんだよね)
だから今朝も、もしかしたらと思った。
いつもより早く家を出れば、人の少ない教室で、彼に挨拶できるかもしれない。
(もし、いたら……)
挨拶をする。
たったそれだけ。
それだけのことなのに、考えただけで指先に少し力が入る。
学校に着くと、校舎にはまだ朝の静けさが残っていた。
体育館の方からは、朝練らしい掛け声とボールの音が聞こえてくる。
昇降口で靴を履き替え、階段を上がる足音が、いつもより少し大きく響いた。
二年の教室が並ぶ廊下に出ると、人の姿はほとんどなかった。
佳織は自分の教室の前で、ほんの少しだけ足を止める。
扉の向こうは静かだった。
中に誰かがいるのか、いないのか、それだけでは分からない。
(……変じゃない。挨拶するだけ)
胸の中でそう繰り返してから、佳織はゆっくりと教室の扉を開けた。
窓際の席に、良規がいた。
朝の光が斜めに差し込み、机の上の文庫本を淡く照らしている。
良規はいつものように少し俯き、本のページに視線を落としていた。
やっぱり、いた。
そう思った瞬間、心臓が一度だけ強く鳴った。
良規は顔を上げない。
気づいていないのか、それとも気づいていても反応していないのかは分からなかった。
佳織は鞄の持ち手を握り直し、自分の席へ向かう途中で、ほんの少しだけ歩みを緩めた。
いま、この教室には、自分たち二人しかいない。
声をかけるなら、今しかない。
けれど、言葉はすぐには出てこなかった。
昨日の沙織の顔が浮かぶ。
無理にとは言わないよ、と笑っていた声。
それでも、できそうなら。
佳織は小さく息を吸った。
「……おはよう」
思っていたよりも小さな声だった。
けれど、静かな教室では、それだけで十分だった。
良規の視線が、本からゆっくりと上がる。
目が合った。
一瞬だけ、良規の目がわずかに見開かれる。
けれどそれは本当に一瞬で、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻った。
「……おはよう」
短い返事だった。
けれど、ちゃんと返ってきた。
それだけで、佳織の胸の奥にあった緊張が、少しだけほどけた。
「うん」
何を返せばいいのか分からなくて、佳織は小さく頷いた。
そのまま何か話すほどの勇気は、まだなかった。
でも、今はそれでよかった。
佳織は良規に短く会釈して、自分の席へ向かった。
鞄を机の横にかけ、椅子を引く。
その何でもない動作のひとつひとつが、少しだけぎこちなく感じる。
(……言えた)
胸の中で、そっと呟く。
変ではなかっただろうか。
声は小さすぎなかっただろうか。
急に挨拶して、驚かせてしまわなかっただろうか。
そんな考えはいくつも浮かんだ。
けれど、良規は普通に返してくれた。
本当に、普通に。
それが、今の佳織には何よりありがたかった。
窓際の席へもう一度視線を向けたい気持ちを、佳織はそっと飲み込む。
代わりに、机の中へ教科書をしまいながら、何でもない顔を作った。
それでも、口元が少しだけ緩みそうになるのを、完全には止められなかった。
* * *
良規は、文庫本のページに視線を落としたまま、しばらく次の行へ進めずにいた。
誰かが教室に入ってきたことには気づいていた。
扉が開く音も、廊下から教室へ入る足音も、自分の席の近くでほんの少し止まった気配も、分かっていた。
ただ、顔を上げるほどのことではないと思っていた。
朝早く来る生徒が、自分以外にまったくいないわけではない。
用があるなら声をかけてくるだろうし、そうでなければそのまま席に着くだけだ。
そう思っていた。
だから、その声が自分に向けられたものだと分かった瞬間、少しだけ反応が遅れた。
(……柊さんだったのか)
良規は本に目を落としたまま、さっきの声を思い返す。
小さな「おはよう」だった。
別に、普通の、朝の挨拶。
けれど、朝の教室で、柊佳織から自分に向けられるとは思っていなかった。
そう、挨拶。
それだけだ。
教室には、まだ自分たちしかいなかった。
先にいた相手に挨拶しただけかもしれない。
同じクラスなのだから、それくらいは自然なことだ。
そう考えれば、特別な意味はない。
ないはずだった。
良規はページをめくろうとして、指を止めた。
さっき、佳織は少し緊張しているように見えた。
それから、自分が返事をしたあと、ほんの少しだけ安心したような顔をした。
その変化が、なぜか頭に残っている。
(……挨拶しただけ、だよな)
自分に確認するように、心の中で呟く。
良規は小さく息を吐き、改めて文庫本へ視線を戻した。
けれど、さっきまで自然に追えていた文章が、少しだけ頭に入りにくい。
窓から差し込む朝の光が、机の上を明るく照らしている。
教室の中はまだ静かで、ページをめくる音だけが小さく響いた。
やがて、廊下の向こうから数人分の話し声が近づいてくる。
扉が開き、クラスメイトたちが「おはよう」と言い合いながら入ってきた。
良規は、何でもない顔で本に目を落とし続ける。
いつも通りの朝が、少しずつ始まっていく。
再び、本の中の深海に意識は沈んでいく。
それでも頭の片隅には、さっきの小さな声と、少しだけ安心したような佳織の表情が、うっすらと残っていた。




