↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
20/29

1.カフェにて

放課後。


昼休みに沙織が言っていた喫茶店は、駅前通りから少し外れた場所にあった。


大きな看板が出ているわけではなく、通り過ぎようと思えばそのまま通り過ぎてしまいそうな店だった。

けれど、ガラス越しに見える店内は落ち着いていて、外の人通りの多さとは少し切り離されているように見える。


「ここ?」


「うん。前に一度ここの前を通ったんだけど、静かで雰囲気良さそうだったから、佳織と来てみたかったんだ」


沙織に続いて店へ入ると、かすかにコーヒーの香りがした。


店内には数組の客がいるだけで、話し声も控えめだった。

放課後の駅前に近いはずなのに、ここだけ時間の流れが少し遅いような気がする。


二人は奥の窓際の席に座った。


注文を済ませると、ほどなくして二つのアイスコーヒーと、佳織のガトーショコラ、沙織のチーズケーキが運ばれてきた。


佳織はアイスコーヒーを一口飲み、小さく息を吐いた。


「……落ち着くね、ここ」


「でしょ。佳織、こういうところ好きかなと思って」


「うん。好きかも」


佳織が素直にそう言うと、沙織は少し満足そうに笑った。


「それに、ここ、うちの学校の生徒が知らない穴場っぽいから、誰にも見られたくない話をするときに、ちょうどいいっていうか」


その“誰にも見られたくない話”という言葉に、佳織はアイスコーヒーのストローを無意識に指先で弄びながら視線を伏せた。


「ねえ、佳織」


グラスを置いて、沙織が少しだけ声を落とした。


「……なに?」


「最近、柳井くんのこと、ちょくちょく見てるよね」


いきなり核心を突かれて、佳織はストローに触れていた指を止めた。


「……え?」


「今日の昼休みもそうだったし。前から、あれって思うことは何回かあったんだ」


沙織は責めるでもなく、からかいすぎるでもなく、いつもの調子で言った。


「特に言わなかったけどね」


「……そんなに、見てた?」


「うん。きっと、佳織が思ってるよりは」


沙織の声はやわらかかった。


佳織は少しだけ視線を落とす。


否定しようと思えば、できたかもしれない。

たまたま目に入っただけ。

同じ教室にいるのだから、視線が向くことくらいある。


そう言い訳はいくつも浮かぶ。


けれど、そのどれも、口に出す前から少しだけ苦しかった。


「……自分でも、よく分からないの」


佳織はグラスの縁に指を添えたまま、小さく言った。


「気になるっていうほどなのかも、分からない。ただ……気づくと、見てるときがある」


沙織は何も言わずに続きを待っていた。


その沈黙が、急かされていない感じで、佳織にはありがたかった。


「最初は、猫のことだったんだと思う」


「猫?」


「うん。少し前に、公園で怪我してる子猫を見かけたの。そのとき、柳井くんがその子を助けてて」


佳織は言葉を選びながら続ける。


「そのときは声をかけられなかったんだけど、ずっと気になってて。後で学校で会ったときに、思いきって聞いたの。あの猫、大丈夫でしたかって」


「佳織から、話したんだ」


「うん。でも、ほんとにそれだけ。猫のことを聞いて、柳井くんが答えてくれて」


そこで佳織は一度言葉を止めた。


思い返すと、特別な会話ではなかった。

むしろ、短すぎるくらいだった。


それなのに、妙に残っている。


「他の男子だったら、たぶん、そこから話を続けようとしたと思う。私と話したことを、少し特別みたいに扱ったり、変に距離を詰めてきたり」


沙織は静かに頷いた。


佳織がそういう空気に疲れていることを、沙織は知っている。

だからこそ、沙織は急かさずに頷いた。


「でも柳井くんは、そういうのが全然なかったの。猫のことを答えたら、それで終わり。こっちを特別扱いする感じもなくて」


「それが、気になった?」


「うん……たぶん」


佳織は少し困ったように笑った。


「普通なら、そっけないって思うのかもしれない。でも、私は少しほっとしたのかもしれない」


「ほっとした」


「うん。無理に笑わなくていいというか、相手に合わせて身構えなくていいというか」


言葉にしてみると、自分でも少し驚いた。


そんなふうに思っていたのだと、話しながら気づいていく。


「カラオケのときも、公園で会ったときも、そうだった。柳井くんって、必要以上に近づいてこないんだよね」


「距離を取ってくれる感じ?」


「うん。ちゃんと、こっちが困らない距離にいてくれる感じ」


佳織はアイスコーヒーのグラスに視線を落とす。


「それが、話しやすかったのかもしれない」


沙織はしばらく佳織を見ていた。


それから、少しだけ口元を緩める。


「そっか」


「……なに?」


「いや。佳織がそういうことを自分から言うの、ちょっと珍しいなと思って」


「そうかな」


「うん。珍しい」


沙織はからかいすぎない声で言った。


「でも、分かる気はするよ。柳井くん、確かに変に押してくるタイプじゃないし」


「うん」


「ただ、たぶん向こうは、佳織がそんなふうに思ってるなんて全然分かってないと思う」


「……それは、そうだと思う」


昼休みに視線を戻したときのことを思い出す。

良規は少し顔を上げかけて、けれど何か分からないまま本へ戻ったように見えた。


見られていることには、もしかしたら気づいていたかもしれない。


でも、その意味まではきっと分かっていない。


そして自分だって、まだよく分かっていない。


「じゃあさ」


沙織が、軽くアイスコーヒーのグラスを持ち上げた。


「ちょっとだけ、こっちから何かしてみたら?」


「何かって?」


「たとえば、挨拶」


「挨拶?」


「うん。『おはよう』って、ひとこと」


思っていたより普通の提案に、佳織は瞬きをした。


「それだけ?」


「それだけ」


沙織はあっさり頷く。


「いきなり話しかけようとか、仲良くなろうとか考えるから難しくなるんだよ。クラスメイトなんだから、挨拶くらい自然でしょ」


「……でも、急に言ったら変じゃない?」


「変じゃないよ」


沙織は少しだけ真面目な顔になった。


「柳井くんなら、たぶん普通に返してくれると思う。変に勘違いしたり、騒いだりもしないでしょ」


それは、佳織にも想像できた。


良規はきっと、少し驚く。

でも、それだけ。

必要以上に反応することもなく、たぶん普通に返してくれる。


だからこそ、怖くない気もした。


「……おはよう、か」


佳織は小さく呟いた。


たった四文字。

何気なく誰にでも言える言葉のはずだ。


それなのに、良規に向けると思うと、少しだけ胸が落ち着かなくなる。


それに……。

他のクラスメイトに気づかれたら、やっぱり迷惑になるんじゃないか。


沙織はそんな佳織を見て、やわらかく笑った。


「無理にとは言わないよ。でも、柳井くんっていつも朝早いでしょ? 周りに人が少ないときなら、できそうかなって」


「……うん」


佳織はゆっくり頷いた。


「考えてみる」


それは、本当に小さな一歩だった。


まだ名前のつかない気持ちに、はっきり向き合うほどの勇気はない。

けれど、少しだけ近づいてみたいと思った自分まで、なかったことにはしたくなかった。


「じゃあ、とりあえず」


沙織がふっと表情を緩める。


「ケーキ食べよ。せっかく頼んだんだし」


その言い方があまりにもいつも通りで、佳織は少しだけ肩の力が抜けた。


「ん、食べよ」


佳織はフォークを手に取り、ガトーショコラを小さく切った。

しっとりとした生地を口に運ぶと、濃いチョコレートの甘さがゆっくり広がる。


「おいしい」


「んー、私のチーズケーキも当たりっぽい」


沙織も一口食べて、満足そうに目を細めた。


「今度、また来ようよ」


「うん。来たい」


何気ない会話に戻っていく。

その穏やかさが、今の佳織にはありがたかった。


窓の外では、夕方の光が駅前通りの人影を淡く伸ばしている。


ガトーショコラの甘さと、沙織の言った「おはよう」という言葉だけが、胸の奥にそっと残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。