1.カフェにて
放課後。
昼休みに沙織が言っていた喫茶店は、駅前通りから少し外れた場所にあった。
大きな看板が出ているわけではなく、通り過ぎようと思えばそのまま通り過ぎてしまいそうな店だった。
けれど、ガラス越しに見える店内は落ち着いていて、外の人通りの多さとは少し切り離されているように見える。
「ここ?」
「うん。前に一度ここの前を通ったんだけど、静かで雰囲気良さそうだったから、佳織と来てみたかったんだ」
沙織に続いて店へ入ると、かすかにコーヒーの香りがした。
店内には数組の客がいるだけで、話し声も控えめだった。
放課後の駅前に近いはずなのに、ここだけ時間の流れが少し遅いような気がする。
二人は奥の窓際の席に座った。
注文を済ませると、ほどなくして二つのアイスコーヒーと、佳織のガトーショコラ、沙織のチーズケーキが運ばれてきた。
佳織はアイスコーヒーを一口飲み、小さく息を吐いた。
「……落ち着くね、ここ」
「でしょ。佳織、こういうところ好きかなと思って」
「うん。好きかも」
佳織が素直にそう言うと、沙織は少し満足そうに笑った。
「それに、ここ、うちの学校の生徒が知らない穴場っぽいから、誰にも見られたくない話をするときに、ちょうどいいっていうか」
その“誰にも見られたくない話”という言葉に、佳織はアイスコーヒーのストローを無意識に指先で弄びながら視線を伏せた。
「ねえ、佳織」
グラスを置いて、沙織が少しだけ声を落とした。
「……なに?」
「最近、柳井くんのこと、ちょくちょく見てるよね」
いきなり核心を突かれて、佳織はストローに触れていた指を止めた。
「……え?」
「今日の昼休みもそうだったし。前から、あれって思うことは何回かあったんだ」
沙織は責めるでもなく、からかいすぎるでもなく、いつもの調子で言った。
「特に言わなかったけどね」
「……そんなに、見てた?」
「うん。きっと、佳織が思ってるよりは」
沙織の声はやわらかかった。
佳織は少しだけ視線を落とす。
否定しようと思えば、できたかもしれない。
たまたま目に入っただけ。
同じ教室にいるのだから、視線が向くことくらいある。
そう言い訳はいくつも浮かぶ。
けれど、そのどれも、口に出す前から少しだけ苦しかった。
「……自分でも、よく分からないの」
佳織はグラスの縁に指を添えたまま、小さく言った。
「気になるっていうほどなのかも、分からない。ただ……気づくと、見てるときがある」
沙織は何も言わずに続きを待っていた。
その沈黙が、急かされていない感じで、佳織にはありがたかった。
「最初は、猫のことだったんだと思う」
「猫?」
「うん。少し前に、公園で怪我してる子猫を見かけたの。そのとき、柳井くんがその子を助けてて」
佳織は言葉を選びながら続ける。
「そのときは声をかけられなかったんだけど、ずっと気になってて。後で学校で会ったときに、思いきって聞いたの。あの猫、大丈夫でしたかって」
「佳織から、話したんだ」
「うん。でも、ほんとにそれだけ。猫のことを聞いて、柳井くんが答えてくれて」
そこで佳織は一度言葉を止めた。
思い返すと、特別な会話ではなかった。
むしろ、短すぎるくらいだった。
それなのに、妙に残っている。
「他の男子だったら、たぶん、そこから話を続けようとしたと思う。私と話したことを、少し特別みたいに扱ったり、変に距離を詰めてきたり」
沙織は静かに頷いた。
佳織がそういう空気に疲れていることを、沙織は知っている。
だからこそ、沙織は急かさずに頷いた。
「でも柳井くんは、そういうのが全然なかったの。猫のことを答えたら、それで終わり。こっちを特別扱いする感じもなくて」
「それが、気になった?」
「うん……たぶん」
佳織は少し困ったように笑った。
「普通なら、そっけないって思うのかもしれない。でも、私は少しほっとしたのかもしれない」
「ほっとした」
「うん。無理に笑わなくていいというか、相手に合わせて身構えなくていいというか」
言葉にしてみると、自分でも少し驚いた。
そんなふうに思っていたのだと、話しながら気づいていく。
「カラオケのときも、公園で会ったときも、そうだった。柳井くんって、必要以上に近づいてこないんだよね」
「距離を取ってくれる感じ?」
「うん。ちゃんと、こっちが困らない距離にいてくれる感じ」
佳織はアイスコーヒーのグラスに視線を落とす。
「それが、話しやすかったのかもしれない」
沙織はしばらく佳織を見ていた。
それから、少しだけ口元を緩める。
「そっか」
「……なに?」
「いや。佳織がそういうことを自分から言うの、ちょっと珍しいなと思って」
「そうかな」
「うん。珍しい」
沙織はからかいすぎない声で言った。
「でも、分かる気はするよ。柳井くん、確かに変に押してくるタイプじゃないし」
「うん」
「ただ、たぶん向こうは、佳織がそんなふうに思ってるなんて全然分かってないと思う」
「……それは、そうだと思う」
昼休みに視線を戻したときのことを思い出す。
良規は少し顔を上げかけて、けれど何か分からないまま本へ戻ったように見えた。
見られていることには、もしかしたら気づいていたかもしれない。
でも、その意味まではきっと分かっていない。
そして自分だって、まだよく分かっていない。
「じゃあさ」
沙織が、軽くアイスコーヒーのグラスを持ち上げた。
「ちょっとだけ、こっちから何かしてみたら?」
「何かって?」
「たとえば、挨拶」
「挨拶?」
「うん。『おはよう』って、ひとこと」
思っていたより普通の提案に、佳織は瞬きをした。
「それだけ?」
「それだけ」
沙織はあっさり頷く。
「いきなり話しかけようとか、仲良くなろうとか考えるから難しくなるんだよ。クラスメイトなんだから、挨拶くらい自然でしょ」
「……でも、急に言ったら変じゃない?」
「変じゃないよ」
沙織は少しだけ真面目な顔になった。
「柳井くんなら、たぶん普通に返してくれると思う。変に勘違いしたり、騒いだりもしないでしょ」
それは、佳織にも想像できた。
良規はきっと、少し驚く。
でも、それだけ。
必要以上に反応することもなく、たぶん普通に返してくれる。
だからこそ、怖くない気もした。
「……おはよう、か」
佳織は小さく呟いた。
たった四文字。
何気なく誰にでも言える言葉のはずだ。
それなのに、良規に向けると思うと、少しだけ胸が落ち着かなくなる。
それに……。
他のクラスメイトに気づかれたら、やっぱり迷惑になるんじゃないか。
沙織はそんな佳織を見て、やわらかく笑った。
「無理にとは言わないよ。でも、柳井くんっていつも朝早いでしょ? 周りに人が少ないときなら、できそうかなって」
「……うん」
佳織はゆっくり頷いた。
「考えてみる」
それは、本当に小さな一歩だった。
まだ名前のつかない気持ちに、はっきり向き合うほどの勇気はない。
けれど、少しだけ近づいてみたいと思った自分まで、なかったことにはしたくなかった。
「じゃあ、とりあえず」
沙織がふっと表情を緩める。
「ケーキ食べよ。せっかく頼んだんだし」
その言い方があまりにもいつも通りで、佳織は少しだけ肩の力が抜けた。
「ん、食べよ」
佳織はフォークを手に取り、ガトーショコラを小さく切った。
しっとりとした生地を口に運ぶと、濃いチョコレートの甘さがゆっくり広がる。
「おいしい」
「んー、私のチーズケーキも当たりっぽい」
沙織も一口食べて、満足そうに目を細めた。
「今度、また来ようよ」
「うん。来たい」
何気ない会話に戻っていく。
その穏やかさが、今の佳織にはありがたかった。
窓の外では、夕方の光が駅前通りの人影を淡く伸ばしている。
ガトーショコラの甘さと、沙織の言った「おはよう」という言葉だけが、胸の奥にそっと残っていた。




