1.良規の昼休み
昼休みの教室は、いつも通り賑やかだった。
弁当を広げる音。
誰かが笑う声。
机を寄せる椅子の音。
その中で、良規は窓際の席に座り、早々に空になった弁当箱を鞄へしまっていた。
いつもなら、翔や涼子の会話に短く相槌を返しながら食べることもある。
けれど今日ばかりは、昼食にあまり時間をかける気になれなかった。
先日、行きつけの古本屋で見つけた冒険小説。
深海が舞台の古い小説の続編で、ずっと探し続けていたのだが、ようやく手に入れたものだった。
午前の授業中から、続きがずっと気になっていた。
(……やっと読める)
良規は文庫本を開き、しおりを挟んでいたページから読み始める。
読み出してしまえば、教室のざわめきは自然と遠のいていった。
隣で翔と涼子が何か言い合っている声も、ほとんど意識の外になる。
ページをめくるたび、視線は文字を追い、頭の中では、深い海の底に広がる見知らぬ景色が浮かび上がっていく。
(……やっぱり面白い)
けれど最近、読書に集中しているときに限って、ふと引っかかるものがあった。
視線。
はっきり見られていると分かるほどではない。
ただ、背中のあたりに、かすかに何かが触れるような感覚がある。
気のせいだと思って、最初は流していた。
けれど、何度か顔を上げるうちに、良規はその視線の先に気づき始めていた。
斜め前の席。
柊佳織が、こちらを見ていることがある。
(……また、か)
そう思った瞬間、佳織はふいと視線を逸らした。
まるで、最初から見ていなかったかのように、沙織との会話へ戻っていく。
良規は本に目を落としながら、ほんの少し眉を寄せた。
(俺、何かしたか……?)
思い当たることは、あまりない。
公園で怪我をした猫を助けた。
そのことを聞かれて、何度か話した。
カラオケでは、歌わないのかと声をかけられて、一曲だけ歌った。
それくらいだ。
特別に親しいわけでもない。
長く話したわけでもない。
何か気に障るようなことを言った覚えもなかった。
(……猫のことか?)
それなら、気にしている理由は分かる。
実際、佳織はあの白い猫のことを気にしていたようだった。
けれど、猫の近況なら公園で話した。
怪我はもうほとんど治っている。
ふらっと出かけても、結局は家に戻ってくる。
それで済んだ話のはずだった。
良規はそっとページをめくる。
文字を追おうとしたところで、また、かすかな感覚が背中に触れた。
反射的に顔を上げかけて、途中で止める。
あからさまに見返すのも変だと思い直し、良規は本を読んでいるふりをしたまま、視線だけを少しずらした。
やはり、佳織がこちらを見ていた。
けれど、目が合いそうになるより先に、彼女は視線を戻す。
(……なんなんだ)
良規は小さく息を吐いた。
実家の道場で古武術を習ってきたせいか、周囲の気配にはそれなりに敏感なつもりだった。
誰かが近づく気配や、視線の向きくらいなら、意識していなくても拾えることがある。
だからこそ、気づいてしまう。
佳織の視線は、偶然にしては少し多い。
けれど、そこに敵意があるわけではない。
責められている感じでもない。
からかわれているわけでもなさそうだった。
では何なのかと考えると、途端に分からなくなる。
(……顔に何かついてるわけでもないよな)
念のため、頬に軽く触れてみる。
特に何もない。
「良規、なにしてんの?」
隣から翔の声が飛んできた。
「別に」
「いや、今ほっぺ触ってなかった?」
「気のせいだ」
「絶対触ってただろ」
涼子が横から呆れたように笑う。
「翔、読書の邪魔しないの」
「俺だけ悪い感じ?」
二人のやり取りを聞き流しながら、良規はもう一度本に視線を戻した。
けれど、さっきまで自然に追えていた文字が、少しだけ頭に入りにくい。
(たまたま、何度か目が合ったから気まずいだけか)
そう考えれば、一応説明はつく。
佳織は人から見られることに慣れているようで、たぶん、そういう視線には敏感なのだろう。
こちらが気づいたことで、彼女も気まずくなっているのかもしれない。
良規はそう結論づけることにした。
ページをめくる。
物語の続きへ意識を戻そうとする。
けれど、教室のざわめきの奥で、さっきの視線だけが、まだ薄く残っていた。
(……まあ、気にするほどのことじゃないか)
そう思いながらも、良規はしばらく、同じ行を二度読んでいた。




