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3.余韻の夕方

(そのうち……)


帰宅してからも、その短い言葉が耳に残っていた。


佳織は制服のままベッドに横になり、天井をぼんやりと見つめている。

日が暮れかけた空の色が、部屋の中を薄い橙色に染めている。



良規の声は、いつも通り淡々としていた。


特別な約束をしたわけではない。

はっきりした予定が決まったわけでもない。


でも——

「そのうち」って言ってくれた。


彼にとっては、深い意味なんてないのかもしれない。


でも、それだけのことに、思い出すたびに胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。


佳織は小さく息を吐き、さっきの公園でのやり取りを思い返した。


* * *


「……柳井くんの家って、きっとあの猫にとって、居心地がいい場所なのかもね。」


猫の話のあと、佳織がそう言うと、良規はほんの少しだけ目を瞬かせた。


「どうなんだろうな」


「違うの?」


「勝手に出かけるし」


でも、と続ける次の言葉は、佳織にとって少し意外だった。


「あいつ、俺の椅子に陣取って、どいてくれない」


淡々とした言い方だった。

けれど、どこか本当に困っているようには聞こえなかった。


佳織が小さく笑うと、良規はふと視線を動かした。

ベンチの横に立ったままの佳織を見て、それから空いている座面へ目を向ける。


「……座れば?」


「え?」


言われて、佳織はようやく自分がずっと立ったままだったことに気づいた。


「あ……うん」


けれど、すぐには動けなかった。


隣に座ってもいいのだろうか。

距離が近すぎないだろうか。


そんな考えが、一瞬で頭をよぎる。


その迷いが伝わったのかもしれない。


良規は何も言わず、すっとベンチから立ち上がった。


「……え?」


佳織が思わず見上げると、良規はごく普通の声で言った。


「どうぞ」


そこでようやく、佳織は彼が席を譲ってくれたのだと気づいた。


何も聞かずに、ただ場所を空けてくれた。

そのことに気づいた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ熱くなる。


「……ありがとう」


ベンチの隅にそっと腰を下ろすと、制服越しに、さっきまで良規が座っていた温度がかすかに伝わってきた。


それに気づいた瞬間、佳織はなぜか落ち着かなくなって、慌てて視線を前に向ける。


良規は隣に戻ることなく、ベンチの少し横に立っていた。

その距離が、今の佳織にはありがたかった。


少しの沈黙が流れる。


風が木の葉を揺らし、遠くで子どもたちの声が聞こえる。

さっきまでよりも、少しだけ会話が途切れても気まずくないような気がした。


佳織は、ふと思い出して口を開いた。


「……そういえば、カラオケ」


「ん?」


「柳井くん、すごく上手だったよ」


良規は少しだけ眉を動かした。


「……そうか?」


「うん。驚いた。あんなに上手いと思ってなかったから」


「別に、歌いたかったわけじゃないけどな」


「でも、ちゃんと歌ってた」


「翔たちが強引だからな。断る方が面倒だった」


あまりにも淡々と言うので、佳織は思わず笑ってしまった。


「家でも歌ったりするの?」


「しない」


即答だった。


「そうなんだ」


「代わりに、猫が歌ってる」


「え?」


思わず聞き返す。


良規は、いつものように表情を大きく変えない。

けれど、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。


「夜になると、俺のベッドの枕元に座って、変な声で鳴く。歌ってるみたいに聞こえることがある」


本気で言っているのか、少しだけ冗談を混ぜているのか分からない。

その分かりにくさが妙におかしくて、佳織は小さく吹き出した。


「それ、ちょっと聞いてみたいかも」


「おすすめはしない」


「そんなに?」


「耳元で歌われると、あいつの気が済むまで眠れない」


「ふふ……なにそれ」


笑ってから、佳織は少しだけ驚いた。


気づけば、自然に話していた。

言葉を選びすぎることもなく、無理に笑顔を作ることもなく。


男子と話しているのに、嫌な緊張がない。


それが、佳織には不思議だった。


良規はそんな佳織の変化に気づいているのかいないのか、少し離れた場所で公園の方を見ている。

けれど、その横顔は、最初にこの公園で見たときほど遠くは感じなかった。


「……そろそろ帰るね」


佳織はベンチから立ち上がった。


「そうか」


「うん。また明日」


そう言ってから、少しだけ迷う。


そのまま帰ってもよかった。

けれど、もう一言だけ言いたくなった。


「猫のこと、教えてくれてありがとう」


良規が少しだけ佳織の方を見る。


「別に、大したことじゃない」


「ううん。聞けてよかった」


佳織がそう言うと、良規は一瞬だけ黙った。


それから、短く返す。


「……なら、よかった」


いつも通りの淡々とした声だった。

それなのに、どこか少しだけ柔らかく聞こえた。


佳織は小さく会釈して、公園を後にした。


* * *


気づけば、部屋の中はさっきよりも暗くなっていた。

カーテンの向こうに残っていた橙色は薄れ、窓の外には夜の気配が静かに降りている。

机の上も、ベッドの端も、輪郭だけがぼんやりと浮かぶようになっていた。


部屋はすっかり暗くなっていた。

それでも灯りをつける気になれず、佳織はベッドの上で仰向けになったまま、公園での会話を何度も思い返していた。


ベンチを譲ってくれたこと。

猫の話を、面倒がらずに答えてくれたこと。

ほんの少しだけ、口元を緩めたこと。


どれも大きな出来事ではない。

けれど、ひとつひとつが妙に心に残っている。


(……いつぶりだろう)


男子と話して、こんなふうに肩の力が抜けたのは。


くだらない冗談に笑って、必要以上に身構えなくてよくて。

相手の言葉を、怖いと思わずに受け取れたのは。


思い出そうとしても、はっきりとは浮かんでこない。


きっと、それくらい久しぶりの感覚だった。


佳織は片手で目元を覆い、小さく息を吐いた。


(……もう少しだけ、話してみたい)


その気持ちは、さっきよりも少しだけはっきりしていた。


でも、名前をつけるにはまだ早い気がする。


だから佳織は、誰に言うでもなく、胸の中でそっと繰り返した。


もう少しだけ。


ただ、それだけ。

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