2.公園にて
「……柳井くん」
呼ばれて、良規は顔を上げた。
ベンチの前に、柊佳織が立っていた。
鞄の肩紐を片手で握り、少しだけ迷うような顔をしている。
良規は一瞬だけ目を瞬かせた。
「柊さん?」
まさか、ここで会うとは思っていなかった。
佳織も、声をかけたものの、次に何を言えばいいのか迷っているようだった。
視線がほんの少し泳ぎ、それから慌ててこちらへ戻ってくる。
「なぜ、ここに?」
良規がそう尋ねると、佳織は小さく息を吸った。
「……ちょっと寄り道」
答えた直後、佳織の胸の中で、いくつもの考えが一斉に跳ねた。
変ではなかっただろうか。
声は上ずっていなかっただろうか。
そもそも、寄り道という答え方で自然だっただろうか。
猫が気になって来た。
そう言えばよかったのかもしれない。
けれど、それを言うと、ここに来た理由を自分で説明しすぎてしまう気がした。
そんなふうに、頭の中だけがやけに忙しくなる。
けれど良規は、特に不思議がるでもなく、短く頷いた。
「そうか」
あまりにも淡々とした返事に、佳織は少しだけ拍子抜けする。
同時に、ほっともした。
良規はそれ以上、理由を聞いてこない。
佳織もすぐ隣に座ることはできず、ベンチの横に立ったまま、指先で鞄の肩紐を軽く握り直した。
「あの……柳井くん」
「ん?」
「この前の猫、元気にしてる?」
良規はその言葉で、何を聞かれているのか分かったようだった。
「ああ。ここで助けたあいつか」
「うん」
「元気だよ。怪我はもうほとんど問題ない」
「そっか……よかった」
佳織は思わず息を吐いた。
教室で猫を飼い始めたという話を聞いてから、いや、きっとそれより前から。
良規があの猫を抱き上げたときから、ずっと片隅に残っていたのだと思う。
この公園で見た白い子猫。
良規が抱き上げて、そのまま連れて帰った猫。
無事と聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった気がする。
「まだ、柳井くんの家にいるの?」
佳織が尋ねると、良規は少しだけ考えるように視線を落とした。
「いる。……というか、戻ってくる」
「戻ってくる?」
「放っておくと、知らない間にふらっと出ていくことがある。で、しばらくすると戻ってくる」
「えっ、それ、大丈夫なの?」
佳織は思わず聞き返した。
良規は公園の奥に視線を向ける。
「元々この辺りにいたから、あいつなりに好きな場所が色々あるんだろ。遠くまでは行ってないみたいだし、メシ時になるとちゃんと戻ってきてる」
「そうなんだ……」
「ああ、ちゃっかりしてる」
その言い方が少しだけ可笑しくて、佳織は口元を緩めた。
「じゃあ、もう柳井くんの家がその子の家なんだね」
「本人がそう思ってるかは分からないけどな」
「でも、戻ってくるんでしょ?」
「ああ」
「なら、きっとそうなんだと思う」
良規はすぐには答えなかった。
ただ、視線を少しだけ逸らす。
その横顔は、照れているというほど分かりやすくはない。
けれど、嫌がっているようにも見えなかった。
佳織は、その反応を見て、少しだけ表情を緩めた。
「その子、柳井くんに助けてもらえてよかったね」
「大したことはしてない」
「でも、連れて帰って様子を見てたんでしょ?」
「目の前で、怪我していたからな」
「ううん、それが優しいんだと思う」
佳織がそう言うと、良規は少しだけ黙った。
風が木の葉を揺らす音が、二人の間を通り抜けていく。
「……そういうのは、よく分からない」
やがて、良規はぽつりとそう言った。
そっけない返事だった。
けれど、否定されたようには感じなかった。
佳織は、少しだけ目を伏せた。
うまく言葉にはできない。
けれど、さっきまでよりほんの少しだけ、良規との距離が近づいたような気がした。
佳織は少しだけ視線を落とす。
猫のことを聞けた。
それだけで、今日ここに来た理由はちゃんとあったはずだった。
それなのに、会話が終わってしまうのが、少しだけ惜しい。
「……私も、またあの子に会ってみたいかも」
言ってから、佳織は自分の言葉にわずかに驚いた。
猫に会ってみたい。
それは本当だ。
けれど、その言葉の中に、猫だけではない何かが混じっていなかったか。
そう思った瞬間、顔が少し熱くなる。
佳織は慌てて視線を逸らした。
良規は特に気にした様子もなく、少しだけ間を置いて答える。
「そのうち、な」
短い言葉だった。
けれど、拒まれたわけではない。
それだけで、佳織の胸の奥に、小さな温かさが広がった。
「……うん」
佳織は小さく頷いた。
猫に会えるかもしれないからなのか。
それとも、良規がそう言ってくれたからなのか。
その違いは、まだ自分でもよく分からなかった。




