1.初夏の風に吹かれて
放課後の教室に、初夏の風が入り込んでいた。
開け放たれた窓の向こうで、校庭の木々がざわめいている。
カラオケに行ってから、二週間ほど。
新学期の頃にあった、どこか探り合うような空気は少しずつ薄れ、教室では以前よりも自然に声をかけ合う場面が増えていた。
「柊さん、もう帰るの?」
荷物をまとめていると、近くにいた女子がそう声をかけてきた。
「うん。今日はこのまま帰るつもり」
「そっか。また明日ね」
「うん、また明日」
それくらいの短いやりとり。
けれど、新学期が始まったばかりの頃よりは、ずっと自然だった。
隣では、沙織が鞄を肩にかけながら、佳織の様子をちらりと見ている。
「佳織、帰ろっか」
「うん」
佳織が頷いた、そのときだった。
少し離れた席から、女子たちの声が聞こえてきた。
「そういえば、うち、猫飼い始めたんだ」
「え、ほんと? いいなあ」
「まだ小さいんだけどさ、夜になると全然寝てくれなくて」
楽しそうな声だった。
誰かがスマホの写真を見せたのか、小さな歓声が上がる。
佳織は何気なくそちらを見て、それから、ふと別の白い影を思い出した。
(あの猫、元気にしてるのかな)
公園で見かけた白い子猫。
良規が助けたあと、家で様子を見ていると聞いた。
怪我は大したことがないとも言っていた。
あれから少し時間も経っている。
もしかしたら、もう怪我は治っているかもしれない。
まだ柳井くんの家にいるのか、それとも元いた場所に戻ったのかは分からない。
けれど、もしかしたら公園で姿を見られるかもしれない。
そう思ったのは、たぶん半分くらい、自分への言い訳だった。
佳織は鞄の持ち手を握る指に、少しだけ力を込める。
別に、“誰か”に会えると思っているわけではない。
ただ、あの猫がどうしているのか気になっただけ。
そう自分に言い聞かせると、胸の奥にあった落ち着かなさが、少しだけ形を持った気がした。
***
校門を出ると、駅へ向かう生徒たちの流れが自然にできていた。
沙織はいつものように佳織の隣を歩いている。
「今日、このあとどこか寄っていく?」
そう聞かれて、佳織は一瞬だけ迷った。
「あ……ごめん。今日は少し、ひとりで歩いて帰ろうかな」
沙織は不思議そうに瞬きをした。
「ひとりで?」
「うん。ちょっとだけ、遠回りしたくて」
佳織はそう答えながら、少しだけ視線を逸らした。
猫のことを言ってもよかった。
けれど、口にした瞬間、それだけではない気持ちまで見透かされてしまいそうな気がした。
沙織は佳織の横顔を少しだけ見てから、すぐに柔らかく笑った。
「そっか。じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
何かを深く聞いてくることはない。
その距離感に、佳織は少しだけほっとする。
沙織と別れてから、佳織は駅へ向かう道には進まなかった。
足は自然と、公園のある通りへ向いていた。
もしかしたら、あの猫に会えるかもしれない。
良規がそこにいるかもしれない、なんてことは考えていない。
考えていない、はずだった。
歩き慣れた制服の袖が、風に小さく揺れる。
駅前のざわめきが少しずつ遠ざかり、代わりに、木々の葉が擦れる音が近くなった。
(もし、いたら……)
そこまで考えて、佳織は小さく息を吐いた。
猫のことを聞く。
それだけなら、変じゃない。
以前、気にしていたのだから、もう一度様子を尋ねてもおかしくはない。
(普通に聞けばいいだけ)
自分にそう言い聞かせながら歩いているうちに、公園の入口が見えてきた。
夕方の光を受けたベンチ。
低い植え込み。
遊具の方から聞こえる、遠い子どもたちの声。
佳織は何気なく視線を巡らせた。
(きっと、いないよ……)
そう思って、少しだけ視線を落とした、そのときだった。
ベンチの端で、風に揺れるシャツの裾が目に入った。
(……柳井くん?)
佳織は足を止めた。
ベンチに腰をかけた良規が、少し俯くようにして何かを見ている。
本当に、いた。
そう思った瞬間、胸の奥が一度だけ強く鳴った。
猫が気になっただけ。
偶然、ここを通っただけ。
そういう顔なら、できるだろうか。
佳織は鞄の肩紐を軽く握り直した。
少し迷ってから、ゆっくりとベンチの方へ歩き出す。
「……柳井くん」
風の音に紛れるくらいの声で、佳織はそっと呼びかけた。




