4.良規のうた
カラオケはさらに賑やかさを増していた。
男子たちは前方でマイクを回し、テンションの高い曲が入るたびに手拍子や合いの手が飛ぶ。
女子たちも少しずつ前へ出るようになり、最初は座って見ているだけだった何人かも、促されるまま一曲ずつ歌っていた。
「次、誰だっけ?」
「俺! 俺いく!」
「よっしゃ、じゃあ全力で頼むぞー!」
そんなやりとりが何度も繰り返されるうちに、気づけばほとんどの生徒が一度はマイクを持っていた。
佳織も沙織と並んで手拍子をしながら、その様子を見ていた。
さっきまで胸の奥に残っていた緊張も、部屋全体の騒がしさに少しずつ紛れていく。
ふと視線を動かした先で、良規の姿が目に入った。
良規は、少し端寄りの席に座り、手元のタンバリンを一定のリズムで鳴らしていた。
表情はほとんど変わらない。
けれど、曲のテンポから外れることもなく、淡々と正確に音を重ねている。
翔が近くを通りかかって何か言えば、短く返す。
涼子が合いの手を振れば、ほんの少しだけ視線を向ける。
ただ、少なくとも佳織の記憶では、良規はまだ一度もマイクを持っていなかった。
(そういえば、柳井くん……まだ歌ってない?)
佳織がそう思って視線を止めた時、隣の沙織が小さく身を寄せてきた。
「柳井くん、まだ歌ってないよね」
「え?」
佳織は思わず沙織を見る。
沙織の表情はいつものように穏やかだったが、どこか少しだけ面白がっているようにも見えた。
「柳井くんのことなら相沢くんたちが気づきそうだけど、今はほとんどMCみたいになってて忙しいからさ。たぶん、そこまで見えてないんじゃない?」
「……そうかも」
「佳織、ちょっと聞いてみたら?」
「え、私が?」
思わず声が少し上ずった。
沙織は、くすっと笑う。
「だって、たぶん気づいてるの、私たちくらいじゃない?」
「でも……」
「別に変なこと聞くわけじゃないでしょ。『歌わないの?』って聞くだけなら、普通だと思うよ」
佳織は、もう一度良規のほうを見る。
(聞くだけなら……変じゃない、よね)
佳織は小さく息を吸い、席を立った。
沙織は何も言わず、軽く手をヒラヒラしながら、笑顔で見送る。
佳織は人の間を抜けて、良規の近くへ向かった。
良規がふと顔を上げる。
「柳井くん」
「……柊さん?」
「まだ、歌ってないよね」
その一言で、近くにいた数人が「あ」と反応した。
「ほんとだ、柳井まだ歌ってなくね?」
「え、そうだっけ?」
「ていうか、柊さんが柳井に話しかけてる」
最後の声に、周囲が少しだけざわつく。
佳織はその反応に一瞬だけ肩を強張らせたが、すぐに良規へ視線を戻した。
「歌わないの?」
良規は、少しだけ間を置いた。
「……別に、歌うつもりはなかったけど」
それ以上何かを言う前に、そのやりとりに気づいた翔が、すぐさま顔を上げる。
「え、なに? 良規、まだ歌ってなかったのか?」
翔は大げさに目を見開き、すぐに良規のほうへ歩いてきた。
涼子もリモコンを手にしたまま近づいてくる。
「あ、ほんとだ。良規、まだ歌ってないじゃん」
「別に歌わなくてもいいだろ」
「よくないよくない」
翔がにやりと笑った。
「せっかくだし、久々にお前の美声を聞かせろ」
その言葉に、近くの男子が反応する。
「え、柳井って歌うまいの?」
「相沢、知ってんの?」
「ああ。良規とは何回かカラオケ行ったことあるからな。こいつ、こう見えて、上手いぞ」
「そういう余計なことを言うな」
良規は淡々と返すが、翔はまったく気にしない。
「いいじゃん。一曲くらい」
「相沢」
「はい、調子に乗りました」
翔が即座に両手を上げると、涼子が笑った。
「でも、一曲くらいはいいんじゃない? もうだいたいみんな歌ったし」
良規は小さくため息をついた。
視線を巡らせると、周囲の何人かが興味深そうにこちらを見ている。
断ることはできる。
けれど、ここで断れば、かえって場の空気を止めてしまいそうだった。
良規は手元のタンバリンをテーブルに置いた。
「……一曲だけなら」
その言葉に、翔がぱっと顔を明るくする。
「よし、決まり!」
涼子が笑いながらリモコンを渡す。
良規はそれを受け取ると、少し考えてから曲を選んだ。
前奏が流れ始める。
さっきまで騒がしかった部屋の空気が、少しだけ静かになる。
期待というより、物珍しさに近い視線が良規へ集まっていた。
良規はマイクを持ち直し、画面に視線を向ける。
最初の一拍、わずかに間があった。
それでも、彼の声が乗った瞬間、空気が変わった。
低めの声は柔らかく、それでいて芯がある。
無理に響かせているわけではないのに、音が自然と耳に残る。
抑揚のある旋律を、淡々としているようでいて、確かに掴んで離さない。
(……上手い)
佳織は思わず、心の中で呟いていた。
さっきまで良規に興味本位の視線を向けていた男子たちも、自然と声を潜めていく。
女子たちの何人かも、意外そうに目を丸くしていた。
良規は相変わらず表情を大きく変えない。
けれど、その低めの声が曲に乗ると、普段の静けさとは少し違う輪郭が見える気がした。
やがて、最後のフレーズが終わる。
一拍、静寂が落ちた。
それから、部屋のあちこちから声が弾ける。
「おい、めっちゃ上手いじゃん!」
「え、普通にすごくない?」
「声、めっちゃ合ってたな」
「柳井ってこんな声だったっけ?」
翔が得意げに手を叩く。
「ほらな! 言っただろ、こいつ意外とやるって!」
涼子も感心したように頷いた。
「ていうか、ほんと久しぶりに聞いたけど、前より上手くなってない?」
「知らない」
「そこで否定も肯定もしないのが良規だよね」
良規はマイクをテーブルに戻しながら、軽く肩をすくめる。
佳織は、その空気の中で、思わず口を開いていた。
「……すごく上手だね」
良規が、ほんの少しだけ佳織のほうを見る。
「そうか?」
「うん」
佳織が頷くと、良規は一瞬だけ視線を外した。
「……なら、よかった」
まるで何でもないことのように短く返す。
けれどその声音には、ほんの少しだけ照れが滲んでいるようにも聞こえた。
ソファに戻っていった良規を見ながら、沙織がそっと佳織の耳元で囁く。
「ねえ、柳井くん、めちゃくちゃ上手かったね」
「……うん。驚いた」
佳織は素直に頷いた。
普段の静かな雰囲気からは、あまり想像していなかった。
けれど、部屋の空気が少し変わったように感じたのは、たぶん自分だけではない。
沙織は飲み物のストローを軽く回しながら、横目で佳織を見る。
「ちょっといいな、とか思ったりして?」
「ち、違うよ」
佳織は小さく声を潜めて否定する。
「ふーん」
「沙織の方こそ、いいなとか思ったんじゃないの?」
少しだけ反撃するように言うと、沙織は一瞬考えるように視線を上げた。
「んー、確かに声はいいんだけどさ」
「えっ?」
「私のタイプとはちょっと違うかなー」
沙織はあっさりそう言って、楽しそうに笑った。
その軽さに、佳織も少しだけ肩の力が抜ける。
「……なにそれ」
「正直な感想」
沙織はくすっと笑い、何事もなかったようにストローを口に運んだ。
その後も、カラオケは自然と盛り上がりを増していった。
翔が勢いよく立ち上がる。
「よし、じゃあ次は俺がまた激しいやつで空気変えるか!」
男子たちが「きたきた!」と湧き立つ。
「私も混ざるー!」
涼子がマラカスを手に取り、テンポよく合いの手を入れ始める。
「合いの手はクラスの女子全員でお願いします!」
冗談めかして叫ぶと、数人が笑いながら前に出てきた。
沙織もタンバリンを持って立ち上がる。
「じゃあ、私たちも行こっか」
「えっ、私たち……?」
「そう。デュエット。一曲だけ、ね?」
沙織に軽く手を引かれ、佳織は一瞬戸惑ったが、少しして頷いた。
「……じゃあ、あと一曲だけね」
曲が始まり、沙織と並んでマイクを持つ佳織。
先ほどのような注目の空気とは違って、今は自然体で歌うことができた。
周囲からは手拍子や合いの手が飛び交い、部屋の空気はますますにぎやかになる。
その一角では、良規が再びタンバリンを手にしていた。
「お前……なに無表情で完璧なテンポ刻んでんだよ!」
翔が突っ込みを入れながら近づいてくる。
「……いや、ただ見てるだけよりマシだろ」
「いや、そういう問題じゃなくてさ!」
翔はそう言いながらも、すぐににやりと笑った。
「なあ、良規。お前ももう一曲くらいどうだ?」
「さっき歌っただろ」
「いやいや、あれはあれで良かったけどさ。ほら、最初は俺と涼子とお前の三人でカラオケ行く予定だったわけだし」
その言葉に、涼子がすぐ乗ってくる。
「あ、それいいじゃん。三人で何か歌おうよ」
「……俺を巻き込むな」
「巻き込むよ。最初の予定、回収しとかないと」
涼子が笑いながら言うと、翔も大きく頷いた。
「そうそう。ほら、俺らがカラオケでいつもラストに歌ってる、全力で叫ぶ系のアニソンとか。いいだろ?」
「歌うというより、みんなで騒ぐやつだな」
「そう、それ!」
「それなら俺が歌う必要ないだろ」
「ある。お前が真顔で叫ぶところに意味がある」
「意味がわからない」
翔はすでにリモコンを操作していた。
涼子はマイクを二本確保しながら、良規の前に一本差し出す。
「はい、良規」
「……本当にやるのか」
「やる!」
翔と涼子の声が重なった。
良規はしばらく二人を見ていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「……これでラストな」
「よっしゃ!」
「じゃあ、行くよー!」
イントロが流れた瞬間、翔が全力で声を張り上げ、涼子がそれに続く。
良規は、表情をほとんど変えないまま、なぜか声だけはしっかり叫んでいる。
その温度差が、逆におかしかった。
「柳井、真顔なのにちゃんと叫んでる!」
「なんかじわじわくる!」
部屋のあちこちから笑い声が上がる。
良規は歌い終わると、すぐにマイクをテーブルに置いた。
「もういいだろ」
「いやー、満足した!」
翔が笑いながら肩で息をする。
涼子も楽しそうにマラカスを振った。
「うん、やっぱり、うちらはこれやっておかないと」
誰かが笑い、誰かがはしゃぎ、誰かが合いの手に巻き込まれる。
やがて曲の予約も途切れ、ソファにぐったりともたれかかる頃には、部屋には笑い声だけが残っていた。
ただのカラオケのはずだった。
けれど、新しいクラスになってから初めて、皆で過ごした時間らしい時間でもあった。
帰る頃には、少なくともこの部屋にいた何人かは、教室で向かい合うだけでは見えなかった顔を、少しだけ知ったような気がしていた。
——そんな、少しだけ特別な夜だった。




