3.佳織のうた
「佳織、そろそろ歌ってみる?」
沙織が、隣からそっと耳元で囁いた。
佳織ははっとして、沙織のほうを見る。
「……私?」
「うん」
沙織の声はいつも通りやわらかい。
けれど、その目はほんの少しだけ周囲を気にしていた。
佳織も、その理由にはすぐに気づいた。
部屋の空気は、少しずつ温まっている。
翔と涼子が場を盛り上げ、男子たちは前方でマイクを回し、女子たちも手拍子をしたり、飲み物を片手に笑ったりしている。
けれど、その中に、ぽつぽつと別の気配が混じり始めていた。
「柊さんって、まだ歌ってないよな」
「一曲くらい聞いてみたいかも」
「ていうか、いつ歌うんだろ」
直接言われたわけではない。
けれど、空気は少しずつ、佳織のほうへ向かい始めていた。
沙織は、少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「ごめんね。一緒に歌えたらいいんだけど」
声を落としたまま、沙織は続ける。
「今それをやると、逆に変な空気になりそうだから」
「……うん。分かってる」
佳織は小さく頷いた。
沙織は、佳織を一人で矢面に立たせたいわけではない。
むしろ、周囲の期待や視線が妙な方向へ傾く前に、いちばん傷が浅い形で促してくれている。
そのことは、佳織にも分かっていた。
「ありがとう、沙織」
「……うん」
沙織はそれ以上何も言わず、柔らかく微笑んだ。
佳織は小さく息を吐いた。
それから、意を決するようにマイクを手に取る。
歌うことは嫌いじゃない。
けれど、“柊佳織”として注目を浴びながら歌うことには、いつも少しだけ緊張がつきまとう。
イントロが流れはじめる。
佳織は姿勢を正し、静かに口を開いた。
——透明感のある声が、部屋の空気を震わせる。
その歌声は、張りつめたようでいて柔らかく、感情を抑えたような芯のある響きを持っていた。
自然と、部屋の中が静まっていく。
さっきまで笑っていた男子たちも、飲み物を手にしていた女子たちも、いつの間にか佳織の歌に耳を傾けていた。
やがて歌い終わると、数秒の静寂のあと——。
「やばい……マジでうますぎる……」
「いやもう、普通にレベル違うだろ」
「ていうかプロ目指せるんじゃね?」
「すご……」
男子たちの賞賛の声が、次々と飛び交った。
しかし、女子たちの一部からは、別の空気が漂いはじめる。
「……ほんと、なんでもできるよね」
「スキがなさすぎるっていうかさ」
「まあ、柊さんだしね」
笑い交じりの声。
けれど、その視線にはわずかな冷たさが混じっていた。
佳織は作り慣れた笑顔を浮かべたまま、マイクを持つ手に少しだけ力を込める。
指先が、ほんのわずかに震えているのが自分でも分かった。
——そのとき。
「よっしゃー! さすが柊さん! いやー、もう俺の出番とか恥ずかしくて無理だから、逆に全力でアニソン行くわ!」
翔が、わざとらしいほど明るい声を張り上げた。
「えーっと、じゃあ合いの手入れてくれる人ー? 一緒に盛り上げてくれる女子、カモーン!」
その声に合わせるように、涼子が笑顔で立ち上がる。
「私も行こうかなー! 誰か合いの手よろしくね、女子のみんなー!」
一気に空気が変わる。
ざわついていた空気が、笑いと拍手で切り替わっていく。
次の曲を入れるために、涼子が佳織のほうへ軽く手を伸ばした。
佳織は、まだ少し力の残る指先でマイクを握ったまま、涼子にそれを渡す。
その瞬間、涼子が他の誰にも気づかれないくらい一瞬だけ、片目を閉じてみせた。
佳織が視線を上げると、少し離れたところで翔も、こちらにだけ分かるように軽くニヤリと笑っている。
それだけで、二人が空気を読んで動いてくれたのだと分かった。
(……ありがとう)
誰にも聞こえない心の中で、佳織はそう呟いた。
マイクを手放すと、指先の震えは少しずつ収まっていった。
沙織が、隣で小さく肩をすくめるようにして微笑む。
「おつかれ」
「……うん」
「私はちゃんと聞いてたよ。ほんとによかった」
その言葉に、佳織の口元が少しだけ緩む。
周囲では、翔と涼子が作った流れに乗って、笑い声と手拍子が広がっていた。
さっきまで自分に向けられていた熱が、少しずつ別の方向へ流れていく。
その中で、ふと、佳織は部屋の隅にだけ違う温度があるような気がした。
視線を向けると、ソファの端で良規が静かに座っていた。
片手に持ったグラスを口元へ運び、周囲の騒ぎに合わせるでもなく、ただ淡々と飲み物を飲んでいる。
大げさに褒めることもない。
冷やかすこともない。
さっきの歌をどう思ったのかも、表情からはまるで読めなかった。
(柳井くんは……どう思ったんだろう)
一瞬、そんなことが頭をよぎる。
けれど良規は、部屋の熱気とは少し離れたところで、いつも通り静かにそこにいるだけだった。
その温度差が、なぜか佳織の意識に残った。
笑顔は“いつもの、よそ行き”のものだったかもしれない。
けれどその裏で、ほんの少しだけ、張りつめていた緊張がほぐれはじめていた。




