第四章 新しい土地
「おーい~」
陽は、誰かに頬をつままれているような感覚を覚えた。
眠たげな目を開けると、ぼんやりとした視界の中に、シキアの姿が映った。
彼女は小さな手で陽の頬をぺちぺちと叩きながら、優しく声をかけている。
陽は身体を起こし、いつもの癖で大きくあくびをした。
両手で顔をこすり、意識をはっきりさせる。
そこで、ふと気づいた。
自分の左手が――本当に、完全に元通りになっている。
ただし、右手と比べると肌の色がずいぶん白い。
「こんなに不思議なものなのか……」
陽は新しく生え変わったような左腕を眺めながら、呟いた。
長老が役割分担を終えて部屋に戻ってくる。
すでに回復している陽と、その傍らにいるシキアを見て、長老のほうから声をかけてきた。
「こんにちは。見知らぬ方。お話をする前に、まずは我々一族を代表してお礼を申し上げます。族の者たちを救っていただき、本当にありがとうございました」
長老が手招きすると、その背後からシルルがひょこっと顔を出した。
陽を見て少し怯えた様子を見せながらも、微笑んで小さく頭を下げる。
「えっと……これは、いったいどういうことなんです?」
陽は左手を掲げ、長老に尋ねた。
「俺の怪我、あなたたちが魔法で治したんですか? ここはいったいどこなんです? それに……どうして俺は、あなたたちの言葉が理解できるんです?」
長老は祖巫の石の繭を指差した。
「祖巫様があなたの傷を治してくださいました。その直後、祖巫様は石の繭となって眠りにつかれました」
「……」
「気に病む必要はありません。祖巫様に何かあったわけではないのです。これは祖巫様ご自身がお選びになったことですから。ただ……いつお目覚めになるかは、私にも分かりません」
長老は身を屈め、手を伸ばして陽の手を取る。
そのままぐいっと引っ張り、陽を立ち上がらせた。
「それから、言葉についてですが……お互いの言葉が理解できるのは、それほどおかしなことではないでしょう?」
「そういうものなの……?」
「さあ、行きましょう。あなたは祖巫様がお選びになった特別なお方です。村を案内いたします。もっとも、私たちはもうすぐ移動することになりますが」
陽は、長老のような強気で知性的な美女と話すことに、いまだ慣れていなかった。
反論する言葉も思いつかず、そのまま長老に従って祖巫の部屋を出る。
獣皮の垂れ幕をくぐると、外へ出た。
灰色になった大地を踏みしめる。
空気は少し乾燥していた。
目の前に広がっていたのは、蛇人たちの集落だった。
それは、まるで小さな饅頭のような建物の群れ。
泥と乾いた草を積み上げて作られた家々が、祖巫の住む木の家を中心にして周囲に並んでいる。
大小合わせて数十軒。
何人もの蛇人たちが出入りしながら荷物を運び、露天の一角に積み上げていた。
そして祖巫の木の家の周囲には、陽という見慣れない人間を珍しそうに眺める蛇人たちが集まっている。
「こいつが、あの蒼鷲を狩ったっていうのか?」
「見たところ、そんなに強そうには見えないけど……魔法の才能はあるのかな?」
「これが人間? なんだか変な感じ……」
細々とした話し声が、陽の耳へと入ってくる。
長老が遠くへ向かって声を張り上げた。
「おーい! ギル! あれを持ってきて!」
遠くにいた年長の蛇人が声を聞くと、頭から一軒の家へ潜り込んだ。
しばらくすると、服を抱えて走ってくる。
近づいてきて、陽にも分かった。
このギルという年長の蛇人は、以前、川辺で一度だけ顔を合わせたことのある人物だった。
ギルは両手で服を差し出し、長老に微笑みかける。
「長老、急いで仕上げました。たぶん、簡単にはバラバラにならないと思います」
長老は服を受け取ると、そのまま陽へ手渡した。
「人間は服を着ていないと辛いのでしょう? これは私たちからの心ばかりのお礼です。蒼鷲の頭部の羽根を使って仕立てました」
「え?」
陽は両手で触れた。
そして、次の瞬間には即座にそれを抱え込んでいた。
羽毛で作られた衣服を手に取ると、苦笑しながら家の中へ引っ込む。
「それじゃあ、ありがたくいただきます。ははは……」
陽は素早く着替えた。
相変わらず何も身につけていない状態ではあるが、蒼鷲の巨大な羽根を縫い合わせた外套が、身体をすっぽりと覆ってくれている。
結局のところ、落ち着かないのは心理的な問題だった。
外へ戻ると、長老はすでに野次馬たちを追い払い、それぞれの仕事へ戻らせていた。
「驚かせてしまって申し訳ありません。私たちは長いこと人間と会っていませんでしたから。よろしければ、お名前を伺っても?」
長老が先に名乗った。
片手を胸元に添え、わずかに身体を前へ傾ける。
「私はこの一族の現長老――ビトヤと申します。ですが、皆と同じように『長老』と呼んでいただいて構いません。そのほうが慣れていますので」
シキアがシルルの手を引きながら近づいてくる。
二人そろって小さく頭を下げた。
「私と妹を助けてくださって、ありがとうございました。私はシキアです」
「私は……シルルです」
シルルは少し憧れるような眼差しで陽を見つめている。
「俺は陽。陽って呼んでくれれば大丈夫です」
あまりにも堅苦しい。
空気が重すぎて、陽は息苦しくなってきた。
こういう場面への対処は、あまり得意ではない。
「では、陽。あなたには行く場所がありますか?」
長老が尋ねた。
「私たちの族人に送らせて、森の境界からできるだけ人間の街に近い場所まで案内することもできます」
そう言いながら、長老はわずかに唇を噛んだ。
「あー……俺、あまり分からないんですよね。たぶん、行く場所は特にないと思います」
陽は少し疑問に思った。
長老の些細な表情の変化を見逃さなかったのだ。
どうも、自分をここから出したくないように見える。
実際、陽の推測はそう間違ってはいなかった。
長老は祖巫から、
――陽の安全を全力で守ること。
――そのことを陽本人には秘密にすること。
そう言い渡されていた。
長老自身も、祖巫が何を意図しているのかは分からない。
だが、それでも従うつもりだった。
もし陽がここを去ろうとするなら、ギルやシキアのように多少の戦闘力を持つ族人を同行させるつもりでいる。
「それは、なんとも……残念なことですね。陽は、記憶を失っているのですか?」
長老は心配そうに近づいてきた。
しかし、蛇人たちは長い間、他者との交流が少なかったせいか。
その瞳の奥に浮かんだ喜びを、うまく隠しきれていない。
「いやいや」
陽は手を振り、首を横に振った。
「単純に、行く場所がないだけです」
陽は思った。
この長老、案外付き合いやすい人なのかもしれない。
威厳はある。
けれど時々、どこか一本抜けているようなところもある。
長老は、広場に積み上げられた様々な荷物を指差した。
「私たちは、もうすぐ移動します。もし行く場所がないのでしたら――私たちと一緒に来ませんか?」
「いいんですか? 俺、人間ですよ? しかも男です。色々と不都合じゃないですか?」
陽は困惑した。
「構いません。皆、あなたの善意を感じ取っています。祖巫様が人を見誤ることはありません」
長老はそこで少し言葉を切った。
「それに……もし、あなたが誰かと親しくなりたいというのであれば、それも……駄目というわけではありませんし……」
長老の頬が、ほんのり赤くなった。
(いや、おかしい。九割どころか、十分の九はおかしい)
(俺に対して、ちょっと寛容すぎないか? それとも、あの祖巫って人の言葉が、それだけ重いってことなのか?)
「あー、その……よければ、俺も一緒に連れていってください」
陽は遠慮がちに頭を掻いた。
唇を尖らせ、視線を別の方向へ逸らす。
これ以上長老に話させたら、自分の手に負えない方向へ話が進みそうな気がした。
「それならよかった」
長老はほっとしたように笑った。
「あなたはここで待っていてください。私は移動の指揮を執ります。シキア、あなたが陽についていてあげて」
長老は、少し離れた場所で暇そうにぼーっとしていたシキアへ振り返る。
「シキア、シキア!」
「は、はい!」
「陽様の安全はあなたに任せます。分かった?」
呼ばれて慌てて姿勢を正したシキアが、胸を張って答える。
「はい! 任務、必ず遂行します!」
長老は満足そうに頷くと、自分の仕事へ戻っていった。
残されたシキアとシルルは、改めて陽へ何度も感謝を伝え、そして信じられないというように話し始めた。
「あの蒼鷲ですよ? あんなに大きいのに!」
シキアは両腕を大きく広げて見せる。
シルルも何度も頷いていた。
「族の皆なんて、あいつを見た瞬間に逃げちゃったんです。もしかして陽さん、前は街の衛兵だったんですか?」
「お姉ちゃん、違うよ。人間の街の衛兵なんて、私より勇気がないんだから」
シルルが口を挟む。
「私が思うに、お城の騎士様とか、勇者様だったんじゃないかな!」
シルルは憧れに満ちた目で陽を見つめる。
その興奮ぶりは隠しようもなかった。
「ほう? この世界には勇者もいるのか?」
陽は、ものすごい情報を聞き出した気がした。
「いるっていう話は聞いたことがあります。でも、私たちは誰も会ったことがありません」
シルルは顔を上げ、シキアに尋ねる。
「お姉ちゃんは魔王を見たことある?」
「うーん……ないかな」
シキアは少し考え込んだ。
「長老なら、もしかしたら……たぶん、会ったことがあるかもしれないけど。私たち、まだ四百歳ちょっとだから。知らないことのほうが多いし」
「この世界はすごく広いって、長老が言ってた。でも私たちはこの森から出たことがないんだ。普段だって、村の外に出ることすらほとんどないし」
(……何歳だって?)
(四百? たったの?)
「長老……」
陽は周囲を見回した。
そして、こっそりと疑問を口にする。
「長老って、何歳なんですか?」
(さすがに我慢できない!)
(目の前に超現実的な魔物娘がいて、その二人が四百歳以上だぞ?)
(だったら長老はいったい、何百年生きてるんだ?)
(見た目はどう考えても三十歳そこそこくらいなのに……)
「分からない」
シキアは首を横に振った。
「私の記憶では、長老はずっとこの姿だったような気がする」
「何を話しているのですか?」
いつの間にか、三人の背後に長老が立っていた。
まるで慈愛に満ちた母親のような笑顔を浮かべている。
「あ、長老! 陽さんが長老の年齢を聞いてます」
シキアが何の躊躇もなく答えた。
(おい! シキア!)
(それ、堂々と言っていいやつなのか?!)
「年齢ですか……」
長老は考え込むように目を細めた。
指に紫色の髪を絡め、くるくると回しながら、ゆっくりと口を開く。
「ええと……七……いや、八……だったかしら……」
声がどんどん小さくなる。
長老自身も自信がないようで、眉を寄せながら記憶を探っていた。
「あっ! 思い出しました!」
突然、長老が拳を握った。
「八千歳には、まだ届いていません!」
自信満々に言い切った。
(超現実的すぎるだろ……)
(もしかして、長生きしすぎると年齢なんてどうでもよくなるのか?)
「長老! 準備が終わりました!」
遠くから一人の蛇人が声をかける。
長老はすぐに指示を出し始めた。
幼い蛇人たちを中央に配置し、その外側を戦士たちが囲む。
それぞれに干し肉を配り、さらにギルと数人の屈強な若者たちが祖巫の石の繭を引きながら、隊列の後方につく。
長老が手を振り上げた。
「出発!」
数十軒の粗末な家を残して。
九十人余りの族人たちは、三百五十年間暮らしてきたこの集落に別れを告げた。
いつの日か。
何年、何十年、あるいは何百年後か。
風雨と時の流れが、この場所で営まれていた生活の痕跡を、ゆっくりと消していくのだろう。
隊列は東へ向かって進んでいた。
九十人を超える蛇人の集団は、決して大所帯すぎるわけではない。
しかし食料と石の繭を運んでいるため、進行速度はそれほど速くなかった。
陽の脚力では、どうやっても蛇人たちについていけない。
そこで長老はシキアに陽を背負わせることにした。
シキアには何の異論もない。
むしろ問題だったのは陽のほうだった。
説得されてシキアの蛇身に跨り、肩を掴んだ陽は、異性との接触経験が皆無だったうえに、コミュ障まで発症してずっと震えていた。
シキアは、人間というのはなんと虚弱なのだろう、と勘違いしていた。
現在の気温は高い。
陽の額にも汗が浮かんでいる。
木陰を通っているだけでこの有様なのだから、今の太陽がどれほど苛烈なのかは想像に難くない。
長老は時折速度を上げ、時折落としながら、隊列の前後を確認していた。
また、少人数の蛇人を木の上へ登らせ、周囲の地形を確認させる。
陽の提案で、道中に落ちている松ぼっくりも集めていた。
「こんな木の実を集めて、何にするんです? これも食べられないんでしょう?」
長老は不思議そうにしながらも、陽の指示通りに集めていく。
「これ、結構燃えやすいんですよ」
陽は松ぼっくりを一つ受け取り、鼻元へ持っていって匂いを嗅いだ。
地球のものと、特に違いはない。
「今は昼夜の温度差がかなり大きいみたいです。夜になると、たぶん結構寒くなる」
「それから……そういえば、あなたたちの中に火魔法を使える人っているんですか?」
「祖巫様は火魔法をお使いになれます」
長老が答える。
「亞人の中では、一部の特殊な種族を除いて、火魔法を使える者は非常に少ないですね」
「実は、火魔法だけじゃありません」
長老は続けた。
「魔法に関するもの全般において、亞人種族はあまり適性が高くないのです」
「この一族で魔法を使えるのは、祖巫様を除けば今では二人だけです」
「一人はシルル。珍しい氷魔法への適性を持っています」
長老が手を開く。
掌の上で、かすかな気流が渦を巻いた。
「そして、もう一人が私です」
「これは、望んだからといって得られるものではありません。才能次第です」
「とはいえ、それほど大した力でもありませんけどね。祖巫様ほどの力を持つのであれば、話は別ですが」
「なるほど。教えてくれてありがとうございます」
陽はそれ以上この話題を掘り下げるつもりはなかった。
ひとまず、魔法を一般化するという可能性は頭の片隅に置いておく。
やがて昼になった。
長老の顔にも、細かな汗が浮かび始める。
祖巫は、族人たちが暮らしやすいよう、気温が比較的一定に保たれる領域を作り出していた。
三百年以上。
彼女たちは、外界の気温が自分たちに与える影響を忘れてしまっていたのだ。
隊列の速度が徐々に落ちていく。
陽も、その異変に気づいた。
どうやら蛇人は、人間と同じ上半身だけでは、蛇身に蓄積された莫大な熱をうまく放散できないらしい。
「長老、誰かに俺を上まで運んでもらってもいいですか?」
陽は木の頂上を指差した。
「ちょうど、みんなも休んだほうがいいと思います」
長老は最も高い木の梢を見上げ、それから疲労の色が浮かぶ族人たちを見る。
「全員、その場で休憩!」
「ギルたちにも伝えてください。追いついたら、そのまま休憩。ひとまず半刻ほどです」
そう言うと、長老は陽の手を取った。
そのまま彼を支えながら、最も太い松の木を登っていく。
松葉が顔を掠め、陽は目を開けていられない。
それでも長老に連れられて、最高所の樹冠まで登り切った。
まるで雲を掻き分けたように、視界が一気に開ける。
どこまでも続く緑の樹海。
正午の陽光を浴び、木々は翠色の波のような光を反射している。
風の音。
葉擦れの音。
動物たちの鳴き声。
そして遠くから聞こえてくる、川のせせらぎ。
「陽。こんな高いところまで来て、景色を見たかったのですか?」
長老は木の幹に蛇身を巻きつけ、片手で陽の腕を支えながら、自分の身体で固定した足場に陽を立たせている。
「まあ、そんなところです。ちょっと周囲を見てみようと思って……」
陽は適当に答えながら、周囲を見渡し始めた。
近視ではあるものの、周辺の地形のおおまかな輪郭くらいなら判別できる。
手をかざして眩しい太陽を遮り、目を細める。
時折、長老へ質問しながら、方角や周辺の状況を確認していく。
陽は思考しながら、地球で得た知識を思い返していた。
「河谷の緩やかな斜面。高い山はない。松と白樺が主体で、一キロくらい先には川が見える。現在地は比較的平坦で、植生も豊か」
「両側の河谷から山の谷口へ抜ける風の通り道……いや、風下側か」
「山体から十分に離れているから、地形由来の危険も比較的少ない」
「遠くに蛇行している空地は……たぶん、河川が流路を変える前の旧河床だと思う。たぶん……」
「……あー、細かいところは忘れちゃったな」
陽は目を閉じ、何度も呟きながら確認を続ける。
長老には、陽が何をしているのか分からなかった。
ただ、とても重要なことをしているのだということだけは理解していた。
だから何も言わず、静かに傍で見守っていた。
「日照は十分。風力も水力も利用できる。木材はほぼ無尽蔵。石材の確保は……普通」
「漁業、牧畜、農耕も開発できそうだ」
「ただ、家畜にできる動物がいるかどうかと、安定した漁獲量が確保できるかは分からない」
陽は目を開けた。
長老を見る。
そして休憩している蛇人たちへ視線を落とした。
「長老。俺たちは、どこへ向かうんですか?」
「長老自身には、何か目的地はあるんですか?」
長老は少し考える。
「……歩いてみようと思っています」
「この森も、私の記憶とは随分変わってしまいましたから」
「もう、同じ場所に留まる必要もありません。どこへ行ってもいいのです」
陽がなぜそんなことを尋ねるのか、長老にはよく分からない。
それでも陽に対しては、いつも少しだけ信じてみようという気持ちになった。
長老は祖巫のことをよく知っている。
新しい道というものが何を意味するのかは分からない。
それでも、祖巫が選んだ道を信じていた。
「それなら、長老」
陽は周囲を指差した。
「ここにしましょう」
「新しい家です」
「俺は、ここなら新しい集落を作れると思います!」
陽は指先を動かしながら、長老の目の前に未来の光景を描いていく。
それぞれの土地に何を配置するのか。
どこに何を建てるのか。
水路を整備する。
溝を掘る。
排水を確保する。
窯を作る。
レンガを焼く。
長老には理解できない言葉が次々と飛び出してくる。
その美しい瞳には、困惑の色が浮かんでいた。
けれど、長老には見えていた。
陽の瞳に宿った光が。
彼には、ただの森が見えているのではない。
幾つもの家。
幾本もの道。
そこに暮らす人々の姿が――見えているのだ。
長老はただ頷きながら、黙って陽の話を聞いていた。
そして話を聞き終えると、すでに心を決めていた。
長老は陽を連れて樹冠から降りる。
そして、族人たちを集めて話し合いを始めた。
蛇人たちが一か所に集まる。
長老が口を開いた。
「皆さん。私たちは三百年以上、この祖地を守り続けてきました」
「ですが、今となっては、ただ目的もなく彷徨っているだけです」
「正直に言いましょう」
「昔は祖巫様がどこにいるかが、私たちの居場所でした」
「祖巫様がこの地にいるから、私たちもここにいる」
「祖巫様がこの場所を離れるなら、私たちも離れる」
「そして今、祖巫様は石の繭となりました」
「ならば、私たちがどこにいても、祖巫様はそこにいるのです」
長老は周囲を見渡した。
「もう、移動するのはやめましょう」
「この土地なら、私は悪くないと思います」
「ここに定住し、新しい家を作りたい」
「皆さんの意見を聞かせてください」
「ここでいいんじゃない? もう歩き疲れたし……」
「少なくとも、前よりはマシだろう?」
賛成の声。
「襲われたりしない?」
「洞窟を見つけたほうがいいんじゃない?」
「水が好きだから、もう少し水源に近い場所がいいな」
疑問と不安の声。
長老はそれらを聞いたうえで、静かに告げた。
「それでは、挙手で決めましょう」
「私は、ここに新しい家を作ることに賛成です」
ざわざわとした話し声が広がる。
やがて、蛇人たちは一人、また一人と手を上げていった。
彼女たちが賛成した理由は、長老への信頼。
そして、未来への迷い。
今、目の前に選択肢がある。
成功するかどうかは分からない。
それでも――まずは試してみる。
「皆さん」
長老が笑った。
「全会一致です」
「これから私たちは、ここで暮らします」
「どうか皆で力を合わせて、新しい家を作っていきましょう!」
長老は陽の手を取った。
そして、彼を皆の前へ押し出した。
陽はなるべく自分の存在を目立たせないようにしていた。
だが、目ざとい長老には、それもお見通しだった。
大勢の人間――いや、蛇人たちに囲まれる状況に、陽が明らかに居心地の悪そうな顔をしていることも。
「皆さんも、この方のことはもうご存じでしょう」
「この方はシキアとシルルを救っただけではありません」
「一匹の蒼鷲まで討ち取ったのです」
「祖巫様は石の繭となる前に、こうおっしゃいました」
「この方なら、私たちにより良い暮らしをもたらしてくれる、と」
「この土地を選んだのも陽です」
「そしてこれから、陽も私たちと一緒に暮らします」
「これは、とても喜ばしいことです」
長老は族人たちを見渡した。
「皆さん。いったい何年ぶりでしょう」
「私たちに、新しい仲間が増えるのは」
「み、みなさん……こんにちは」
陽は完全に固まっていた。
「俺は陽……あー、陽です」
「できるだけ、皆さんの邪魔をしないように頑張ります……」
最後の言葉は、ほとんど長老にしか聞こえないほど小さかった。
陽の顔は真っ赤。
俯いたまま、唇を噛んでいる。
(あああああ、人が多すぎる!)
(こんな大勢の前で話すのか?!)
(無理だって! もう駄目だ! ふくらはぎが攣りそう!)
周囲から笑い声が上がる。
陽は深呼吸をして、どうにか心を落ち着かせた。
長老は片手を下げ、皆に静かにするよう促す。
「陽。あなたから、どうしてこの場所を選んだのか説明してもらえますか?」
その瞬間。
陽は、まるでスイッチが入ったようだった。
この土地の長所と短所。
これから必要になる施設。
将来的な発展計画。
次々と話していく。
大部分の蛇人には、その内容を理解できなかった。
それでも彼女たちは分かっていた。
目の前にいる人間には、未来に対する計画がある。
祖巫が彼を選んだ。
長老が彼を信じている。
そして彼は、実際に自分たちの族人を救ってくれた。
ならば――試してみよう。
時間はあっという間に過ぎていった。
午後。
太陽はすでに沈みかけている。
陽は長老に蛇人たちをいくつかの班へ分けさせ、それぞれ別方向へ向かわせた。
使えそうな木材。
大きな葉のついた枝。
乾いた枯れ木。
必要なものを片っ端から集めさせる。
陽自身はシキアに付き添ってもらい、使えそうな枝を探していた。
夕暮れが近づく。
空は半分が橙色、もう半分が深い青へと染まっていた。
森の中は、すでに視界がかなり悪くなっている。
気温も徐々に下がってきた。
このまま一晩眠れば、確実に身体を冷やす。
ましてや、蛇人たちは変温動物に近い性質を持っている。
陽は荷物の中から、かつて自分の身体をミイラのように巻いていた布を見つけた。
それを二本の木の棒に巻きつけ、結んで固定する。
簡易的な弓型の火起こし器。
乾いた薪を一枚取り出し、石で表面を削って繊維を露出させる。
その上に、揉みほぐした枯れ草と松ぼっくりを積む。
一回。
二回。
火起こし器の紐を引く。
押す。
引く。
押す。
一分。
五分。
十五分。
額から流れ落ちた汗が、陽の頬を伝っていく。
蛇人たちは、最初こそ何をしているのか分からなかった。
だが――
木材の上から、かすかな煙が立ち上った瞬間。
彼女たちの目が大きく見開かれた。
長老も表面上は平静を装っている。
しかし、その胸の内には抑えきれない喜びがあった。
祖巫が言っていた。
――変化が始まる。
その意味を、今なら少しだけ理解できる。
陽が手の中の火種へ息を吹き込む。
ふっと、橙色の炎が生まれた。
その光が蛇人たちの顔を照らす。
長老は確信した。
陽こそが――
変化をもたらす者なのだ。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!」
「蛇人のみんな、ちょっと離れて!」
「ゴホッ……煙たい……!」
「火種を持ってきて! 早く、早く! もっと薪を!」
陽は火種を大きな薪へ移した。
蛇人たちが集めてきた木材の中から、乾燥した薪を選び出して火の上へ組んでいく。
ほどなくして、眩しい炎と熱気が中心から広がった。
冷え始めていた蛇人たちの身体が、少しずつ温まっていく。
「こ、これって魔法ですよね?」
「人間も火魔法を使えるって聞いたことがあります!」
「いや、違うって」
陽は長老に蛇人たちを動員させた。
木の枝を地面に突き立て、簡単な柵を作る。
さらに木の棒を交互に積み上げ、その上から葉のついた枝を被せる。
族の中でも若い者や、特に寒さに弱い者たちは、できあがった簡易シェルターの中へできるだけ入らせる。
そして十数か所に焚き火を設置する。
橙色の光が、広大な森の一角を照らし出した。
陽は蛇人たちに、薪の追加方法や火災への注意点を一つ一つ説明していく。
すべてを終えると、シキアたちが囲んでいる焚き火の小さな輪へ戻った。
そこで胡座をかき、ようやく休む。
長老はすでに夜間の見張りを交代で担当する者たちを決めていた。
ほとんどの蛇人たちは焚き火を囲みながら、目を閉じている。
明日。
陽は彼女たちと一緒に、この場所を作り上げていく。
誰もが眠りにつく顔には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
「陽さん」
シキアが陽へ身を寄せてくる。
「本当に魔法じゃないんですか?」
「人間の街では、火を起こすのもすごく難しいって聞いたことがあります」
「もしかして……何か秘密の力を持っているんじゃないですか?」
焚き火で赤く染まった顔を、陽のすぐ近くまで寄せてくる。
その目は興奮で輝いていた。
「うん、違うよ。魔法じゃない」
「強いて言うなら……科学の力、かな」
二人は寄り添うようにして座り、焚き火の温もりを感じていた。
こうして陽は、異世界で迎える最初の夜を、正式に過ごすことになった。
(ちょっと……締め付けられて苦しいな)
(シキアから、もう少し離れたほうがいいかな……)




