第三章 醒来
異世界へやって来た初日。
午前八時ちょうど。
晴れ。
穏やかな風が吹き、過ごしやすい天気。
少し暑い。
陽は口の中に残っていた最後の胃液を吐き出し、地面から立ち上がった。
そして初めて、この見知らぬ世界に目を開いた。
「……別に、何も変わらないじゃん」
身体についた泥を払い落とし、立ち上がって腰を伸ばす。
まるで寝起きのように眠たげだった目は、いつの間にかすっかり冴えていた。
元々は一晩夜勤を終えたばかりの身体なのに、なぜか今は異様なほど調子がいい。
疲労の欠片すら感じられなかった。
辺りを見回す。
今いるのは、どうやら森の中らしい。
松、オーク、それから少量の白樺が生えていることは確認できた。
陽が地面を踏んでみると、土はかなり柔らかい。
草原は厚く、土は湿っている。
「……なんだか、ゲームを始めるには良さそうな環境だな」
陽は独り言を呟いた。
前の世界で一番好きだったことといえば、家に引きこもってパソコンで遊ぶことだった。
別に筋金入りのゲーマーというわけではない。
それでも、陽はサンドボックス系の建築ゲームが大好きだった。
そういったゲームには、こんな言葉がある。
「最初はとりあえず木を殴る」
……うん。
陽は周囲の木の幹を一目見ただけで諦めた。
一番細い木ですら、自分の腰ほどの太さがある。
今の陽に必要なのは、道具、食料、そして避難場所。
火種については、最初から期待していない。
二十一世紀の引きこもり男子に素手で火を起こせと言うくらいなら、いっそ殺してくれたほうがマシだ。
「まずは、そのまま食べられるものを探そう」
「ついでに、何か使えそうなものも探して……うん、動け動け」
太腿をパンと叩く。
陽は日当たりの良い方向へ向かって歩き始めた。
歩調は急がない。
周囲を見回したり、足元の土にいる小さな虫を覗き込んだりするには、そのくらいがちょうどいい。
その途中で、陽はしなやかな木の枝を一本折った。
男の子たるもの、手頃な木製聖剣の一本くらい持っていなくてどうする。
「へへ、童心を忘れないことは大切だからな」
陽は手にした木の棒を振り回した。
新世界に対する新鮮な興奮は、まだ残っている。
何しろ、ここには魔法があり、魔物娘がいる世界なのだ。
他の人間がどう思うかは知らない。
ただ、魔物娘文化というものは、幼い頃から陽の美的感覚に多大な影響を与えてきた。
(機会があったら、絶対に見てみたいよな?)
それから数時間歩き回り、陽は松ぼっくりをいくつかと、ベリーを一掴みほど集めた。
どちらもアレルギー反応がないことを確認してから、食べられると判断したものだ。
(……たぶん)
陽はそう考えながら、手の甲についたベリーの汁を拭った。
一粒を口に放り込み、残りはズボンのポケットへ入れる。
数時間経って胃に異常がなければ、残りも食べるつもりだった。
「うわっ! めちゃくちゃ酸っぱいな、これ」
「季節が悪いのか? それとも野生のやつって全部こんな感じなのか?」
趣味の幅だけは広い陽は、何でも一通り知っている。
ただし、広く浅くだ。
詳しく知っているわけではない。
サバイバルに関する知識も、前の世界で「阿B」と呼ばれる動画サイトにあるサバイバル動画を見て覚えた程度だった。
虫を食いまくる狂人や、ハゲ頭の火起こし職人のようなサバイバル専門家たちが、様々な生存方法を実演していた。
だが、そのほとんどは陽の頭からすでに消えている。
「おっ、運がいいな!」
口の中から酸味が消えて間もなく、陽はしゃがみ込んだ。
両手で土を掘る。
地面から、十分な大きさと形の良さを持った丸い石が半分ほど顔を出していた。
三、四分ほど土を掘るだけで、その石を取り出すことができた。
持ち上げて重さを確かめる。
三斤、いや、それ以上はありそうだ。
だが、このままでは使えない。
簡単な加工が必要だ。
陽は石を持ったまま、さらに歩き続けた。
すると、巨大な岩が地面から尖った先端だけを突き出している場所を見つけた。
下がどれほど巨大なのか想像もつかない。
陽はその岩の上に腰を下ろし、角度を調整する。
そして手にした丸石を、何度も何度も振り下ろした。
ガンッ!
ガンッ!
ガンッ!
パキンッ!
十数回も叩きつけると、丸石は何個もの破片となって地面に散らばった。
陽はすぐに、その中から大きめの石を探し始める。
「これは使えるな」
「けっこういいじゃん」
「円錐形で、縁もそれなりに鋭い」
「切断用の道具にはできそうだ」
「ただ、今のままだと手を傷つけるな」
「他は……これくらいか」
「平たいのは悪くないけど、薄すぎる」
「たぶんかなり脆いし、使ってる途中で割れたら危ないな」
二つだけ。
それでも、ないよりはずっといい。
陽は一息つき、再び歩き出した。
太陽が少しずつ高くなる方向へ進み、正午になったらどこかで休む。
太陽が沈み始めたら、今度は日の入りとは反対方向へ進む。
陽が覚えている中で、一番簡単な方法だった。
正確ではない。
だが、今のところ目的地など存在しない。
大まかな方向さえ分かれば十分だった。
道中、陽は手の届く場所にある青藤の枝を集め続けた。
十分な量が集まったところで、石器を使って少しずつ繊維を削り出す。
それを揉みほぐし、細い紐状に束ねる。
身体に引っ掛けて乾燥させながら、今度は大きな葉を集め始めた。
まずは葉と紐を使い、簡単な柄を作る。
それを円錐形の石に巻きつける。
そうしなければ、今の状態では使うたびに手を傷つけないよう細心の注意を払わなければならない。
さらに数時間が過ぎた。
太陽が眩しい。
気温も急激に上がってきた。
陽は木陰へ逃げ込み、涼みながら現在の体感温度を確かめる。
正午の気温は三十度近くありそうだ。
指先を揉みながら空気の匂いを嗅ぎ、空を観察する。
今夜はおそらく、雨による低体温症を心配する必要はなさそうだ。
腹も痛くない。
あの一掴みのベリーも食べられそうだった。
ただし、水源の確保は急務だ。
一粒だけベリーを比較用のサンプルとして残した。
乾ききった喉の焼けるような痛みに耐えながら、強烈に酸っぱい果汁を飲み込む。
胃へ流れ込んでいく感覚を確かめると、陽は目を閉じて少し休んだ。
「水分を取らなかったら、明日は危ないな」
「えーっと……」
いくつもの代替案が頭の中を駆け抜ける。
(最優先は間違いなく柑橘系の果物)
(果汁が多くてビタミンも豊富だし、濾過する必要もない)
(次点は、運良く川を見つけること)
(ほぼ無限の水源だけど、火種がないから煮沸できない)
(有効な濾過手段もない)
(もし寄生虫や病原菌がいたら危険だし、上流で死体なんかが浸かっていたら最悪だ)
(三番目は、露や白樺の樹液を集めること)
(効率は悪いけど、目先の渇きを凌ぐには使える)
(それから狩りで新鮮な血液を手に入れて水分を補給する方法もある)
(これも寄生虫や病原菌を濾過する必要があるけど……)
そして最後の手段を考えたところで、陽は素早く首を横に振った。
さすがに尿を飲んで喉を潤すところまで落ちぶれるつもりはない。
陽は来た道を引き返し始めた。
道中、何本か白樺の木を見かけたことを覚えていた。
以前から、いかにも健康に良さそうなパッケージをした飲料を見かけることは多かった。
今日は自分も試してみることにした。
茶色い木々の中で、白い幹は非常によく目立つ。
陽はすぐに白樺を見つけた。
根元まで歩き、石刀を斜めに当てて樹皮を削る。
しばらく待つ。
一滴の、少し濁った白樺の樹液が流れ落ちてきた。
陽はそれを指で受け、口元へ持っていく。
匂いを嗅ぐ。
舐めてみる。
特に変な味はしない。
石刀で傷口を広げると、湿った幹から細い樹液が絶え間なく流れ始めた。
陽はそこへ顔を寄せ、煙が出そうな喉を存分に癒す。
そこを飲み干したら、また別の場所に傷をつける。
それを何度か繰り返した。
白樺の樹液を大量に飲むとどんな不調が出るのか分からない。
そのため、陽はあまり欲張らず、口元を拭って手を止めた。
渇きを癒すには、まだまだ足りない。
さらに歩き続ける。
太陽が少しずつ傾き始めた。
陽は時間を計算する。
この世界に来てから、およそ六、七時間ほど。
外から新しい刺激が入ってこないせいか、この世界に対する新鮮な感覚も少しずつ薄れてきた。
「うん、俺、ちょっと落ち着いてきた気がする」
「へへ……落ち着け、落ち着け」
自分自身に言い聞かせる。
楽観的に。
楽観的に。
その瞬間。
轟音が響いた。
陽は完全に不意を突かれた。
一瞬、手榴弾でも爆発したのかと思ったほどだった。
「な……なんだ今の!?」
音のした方向を見る。
だが、視界は木々に遮られている。
ただ先ほど、一瞬だけオレンジ色の光が見えた。
どうやら先ほどの爆発音と関係があるらしい。
陽は身体を低くした。
そして、できるだけゆっくりとした足取りで、その方向へ少しずつ近づいていく。
近づくにつれて、枝や葉にオレンジ色の粘液が飛び散っているのが見えてきた。
陽は一本の松の木の陰に隠れた。
そこから頭を傾け、片目だけを覗かせる。
爆発地点からはそれなりに距離がある。
陽は少し近視だった。
普段は眼鏡をかけていなかったため、今回の転移にも当然眼鏡など持ってきていない。
そのため、今はぼんやりとしか見えなかった。
見えるのは、一匹のウサギの死体。
頭部はすでに消し飛んでいる。
身体には血液とオレンジ色の粘液が混ざった、判然としない傷口が開いていた。
「……何がやったんだ?」
陽は外へ出なかった。
木の陰に隠れたまま、さらに十分ほど待つ。
静かだ。
聞こえるのは風の音と、遠くから微かに聞こえる虫の鳴き声だけ。
もう一度頭を出す。
今度は少しだけ大きく身を乗り出した。
目を細めて観察する。
どうやらウサギの頭は完全に吹き飛ばされたらしい。
周囲には肉片や毛皮の破片が散らばっている。
そして何より重要なのは、半分ほどになったウサギの耳を発見したことだった。
安全を確認すると、陽はゆっくり近づいた。
ウサギの死体から三メートルほど離れた場所で立ち止まり、周囲を慎重に観察する。
すると数メートル先に、数本の植物が生えているのが見えた。
その姿はタンポポに少し似ている。
緑色の茎。
オレンジ色の模様が入った葉。
そして茎の先端には、丸々とした橙黄色の球体がついている。
「こいつ、こんなに威力あるのか?」
「裂莢系か?」
陽は再び身を隠した。
いくつか石と土を拾い、大きさの順番に並べる。
そして、あの球体へ投げつけた。
反応があるかどうかなど構わない。
投げ終わったらすぐに隠れる。
反応がなければ、今度はもっと大きな石を投げる。
それを何度も繰り返し、球体の限界値を探っていく。
そして拳ほどの大きさの石が球体の表皮を破った瞬間。
木の陰に隠れていた陽の耳に、明確な音が届いた。
シュー……。
まるで空気が漏れるような音。
それから三、四秒ほど経って。
ドンッ!
観察しようと頭を出しかけた陽は、先ほどより遥かにはっきりとした爆発音を聞いた。
灼熱した橙赤色の液体が、陽の両側を飛び抜けていく。
陽はしばらく黙り込んだ。
それから緊張しながら、ゆっくり歩み寄る。
数メートル先に、無傷の球体をつけた植物がある。
陽は石刀を取り出し、しゃがみ込んだ。
一方の手で球体を支える。
もう一方の手で、石刀を使って茎をゆっくり切り落とす。
そして球体をそっと手のひらに乗せた。
温度は普通の屋外とほぼ変わらない。
しかし、先ほど飛び散った液体が非常に高温だったことは明らかだった。
陽がこれほど冷静に観察できているのには理由がある。
先ほどの経験から判断すると、球体を完全な状態に保っている限り安全なのだ。
あるいは、内部の液体を空気に触れさせなければ爆発しない。
先ほど聞こえたシューッという音も、単純な内外の圧力差による爆発ではない。
中の液体が空気に触れたことで、何らかの反応が起こっているようだった。
では、なぜウサギはこれを齧ったのか。
球体に近づいた時点で、陽は非常に強い果物のような甘い香りを感じていた。
どうやら球体の表皮から漂っているらしい。
だが、こんな種子散布の方法は――。
「すげぇな……液体手榴弾じゃん」
陽は、この植物の仕組みをおおよそ推測した。
もちろん間違っている可能性はある。
それでも、少しずつこの植物について理解できてきた。
果実のような香りで動物を誘き寄せる。
爆発によって動物を殺す。
そして死体が養分へと変化するのを待ち、それを自らの栄養にする。
少なくとも、もう球体が突然爆発する心配はなかった。
球体が破裂しても、三、四秒ほどの遅延がある。
しかも表皮はかなり頑丈だ。
陽は上着を脱ぎ、簡単な袋状に結んだ。
そこへ球体をいくつも集めていく。
合計で六、七斤ほどになった。
さらに先ほどのウサギの死体も回収する。
石刀で皮を剥ぎ、肉を切り分け、内臓を分離する。
食べられない部分は捨てた。
残したのは赤身肉、ウサギの肝臓、胃、心臓。
陽は血で汚れた手で額の汗を拭った。
ウサギの解体は、想像していた以上に疲れる作業だった。
以前の引きこもり生活をしていた自分には、とても楽にできる仕事ではない。
ウサギ肉は脂肪が少ないという問題もある。
だが、腹が膨れればそれでいい。
陽は腹の贅肉を摘まんだ。
脂肪なら、ここにいくらでもある。
別に気にするほどのことでもない。
「いいじゃん、かなり大収穫だ!」
「よし、前向きにいこう!」
陽は小枝で自分の包みを引っ掛け、肩に担いだ。
そして日没とは反対の方向へ歩き始めた。
三時間後――。
微かな水音。
そして、湿り気を帯び始めた空気。
陽はそれを感じ取った。
その方向へ進み始める。
ただし、歩みは少し緩めた。
水源や血の匂いに引き寄せられた何かがいないか、周囲を観察する。
少し前から、誰かに見られているような感覚があった。
だが、いくら探しても何も見つからない。
仕方なく、気にしないことにした。
さらに三十分ほど歩く。
今度は明確に川の流れる音が聞こえてきた。
湿った空気からして、水源はもうすぐそこだ。
いくつかの茂みを抜ける。
視界が一気に開けた。
丸い河原石が敷き詰められた川床。
どうやら雨季にはまだ入っていないらしく、川幅は少し狭い。
だが、十分だった。
陽は包みを脇に置き、川へ降りていく。
冷たい水が足の指の間を流れていく感覚を味わう。
水を掬い上げ、身体を洗う。
寄生虫も病原菌も、この際どうでもいい。
透明で澄み切った水に誘惑されるまま、陽は頭から川へ突っ込み、勢いよく水を飲み始めた。
ゴクゴクゴクゴク……。
「あぁ~……はははは!」
「生き返った!」
「うわ、喉が煙出そうだったわ……」
陽は顔を拭った。
十分に水分を取ったと判断すると、岸へ上がり始める。
こんな開けた場所に長居するつもりはない。
ただし、近くに避難場所を作るのは悪くなさそうだった。
(序盤にこういう水源があるのは、かなり重要だな)
立ち去ろうとした、その時。
陽は微かな音を聞いた。
耳を澄ます。
どうやら――人間。
言葉。
しかも、聞き取れるような気がする。
(……聞き取れる?)
相手の目的は分からない。
それでも陽は、まず隠れてしばらく観察することにした。
「敵意がなければ、そのまま文明社会に合流できるんじゃないか?」
「天国スタートじゃん。頼む頼む……」
陽は茂みの中へ身を隠した。
枝と葉を使って身体全体を覆う。
目元さえ半分しか見えない。
そして、徐々に近づいてくる音の主をこっそり観察した。
一時間前。
ラミア族の集落。
長老は人数を確認し、再び食料と水を集めるための隊を編成していた。
現在の備蓄では、もう七日も持たない。
それも戦士たちを優先する配給制を採用した上での話だった。
祖巫の庇護範囲内で得られる食料も水も、すでに枯れ果てている。
「よく聞きなさい」
長老は険しい表情で腰に手を当て、目の前にいる若い一族たちへ何度も念を押していた。
「東へ向かいなさい」
「急げば半刻ほどで川に着くはずよ」
「水を汲んだら、すぐに戻ってきなさい」
「勝手な行動は絶対にしないこと」
「食料はもう少しだけ持つはずだから、ここ数日は何とか方法を考える」
「祖巫様から長く離れすぎないように」
「分かった?」
長老はぼんやりしているシーシャを指差した。
「特にあなたよ、シーシャ」
「このトラブルメーカー」
「自分がどれだけ強いと思っているのかは知らないけれど、今回は何があっても急いで戻ってきなさい」
「はい、村長!」
「果物をちょっと採ったらすぐ帰ります!」
「絶対に寄り道しません!」
シーシャは胸を叩いて答えた。
パシン!
長老はシーシャの頭を叩いた。
「誰が果物を採れと言ったのよ!」
「水を汲んだらさっさと帰ってきなさい!」
長老はしばらく黙り込んだ。
残り僅かな干し肉と干し果物。
そして、日に日に痩せていく一族たちの身体。
いくら蛇人といえど、これ以上は長く持たない。
「……はぁ」
「もし道中で見つけたら、ついでに採ってきてもいいわ」
「でも、絶対に危険を感じたら戻ってくるのよ」
長老は唇を噛み、指先で紫色の長い髪を何度も弄った。
「おー!」
シーシャは嬉しそうに跳ねた。
蛇の身体ではそれほど高く跳べない。
その後、七、八人の若い蛇人たちで構成された隊列は散開し、村の入口へ集合して出発の準備を始めた。
村の状況は、彼女たちも分かっている。
飢饉は、誰の心にも重くのしかかっていた。
しかし祖巫の庇護から離れれば、長期間にわたって衰弱し、栄養も不足している彼女たちは、大型の獣からすればただの獲物に過ぎない。
シーシャは残った六人の仲間へ声をかけた。
自分を含めて七人。
全員が比較的身体の強い者たちだ。
村では大部分の食料を彼女たちに回している。
だからこそ、彼女たちの胸には小さくない重圧があった。
「みんな、今日は絶対に生きたイノシシを一匹捕まえて帰るわよ!」
「おーっ!」
鱗が地面を擦る。
狩人たちは身体をくねらせながら、凄まじい速度で村から遠ざかっていった。
七本の蛇尾が巻き上げた土煙は、遠くからでもはっきり見える。
その身体は、森林のような複雑な地形を移動するのに非常に適していた。
そして、シーシャの姿が小さくなっていく瞬間。
村の土壁の向こうから、小さく整った頭がひょこっと顔を出した。
「……祖巫様から長く離れすぎないって、どういう意味なんだろう?」
一時間後。
午後。
気温は穏やか。
「ここが、長老の言っていた水源ね」
「シーシャ、ちょっと周りを見てきて」
「ベリーがないか探して、動物の痕跡にも注意して」
シーシャは頷いた。
そして振り返ると、茂みの中へ潜っていった。
残った六人の蛇人たちは背負っていた水袋を解き、水を汲み始める。
その間、順番に一人ずつ身体を洗っていく。
(あ……これは……俺が見ていいやつなのか?)
いい年をした童貞の陽は、顔を真っ赤にした。
とても素晴らしい光景ではある。
それでも陽は目を閉じることを選んだ。
(まさかラミア!?)
(最高じゃん……)
(異世界転移初日に魔物娘と遭遇して、その上、水浴びまで見られるなんて)
(もう十分元取っただろ)
陽は小さく息を吐き、地面に伏せた。
声を出さず、彼女たちが水浴びを終えるのを静かに待つ。
彼女たちに人食いの習性があるかどうか分からない。
今は不用意に接触するべきではなかった。
高所から、鋭い黄褐色の瞳がすべてを見つめていた。
瞳孔が何度も大きくなり、そして小さくなる。
巨大な身体が崖から飛び降りた。
音もなく。
巨大な影が猛スピードで接近していく。
誰も気づいていない。
ただ一人を除いて。
「みんな、空に気をつけて!」
幼い叫び声が森の中から響いた。
蛇人たちは突然巨大な影に覆われた。
叫び声を聞いた瞬間、全員が空を見上げる。
息が詰まるほど巨大な影が、稲妻のような速度で迫っていた。
鋭く冷たい光を放つ鉤爪が開き、蛇人たちへ襲いかかる。
隊列の中でも年長の蛇人が叫んだ。
「散って!」
「全員、伏せて!」
尾で河床の石を大量に巻き上げ、空へ投げつける。
飛び散った石が影へと降り注ぎ、急降下の勢いをわずかに削いだ。
巨大な影は蛇人たちの頭上を掠めていく。
そこでようやく、全員が襲撃者の姿を確認できた。
「蒼鷲よ!」
「全員、すぐに森へ退避!」
「シーシャは!?」
「シーシャはどこ!?」
慌てた蛇人たちは地面すれすれまで身体を低くし、素早く森の中へ退避していく。
しかし空の怪鳥は、これほど豊富な獲物を簡単に諦めるつもりはなかった。
鋭い黄色い嘴が、空中でカチカチと音を鳴らす。
灰白色の羽毛が空気を切り裂く。
そして再び急降下。
翼を広げれば二十メートルにも達する恐ろしい巨鳥が、森の中へ突っ込んだ。
木々によって視界は多少遮られ、速度もいくらか落ちる。
しかし十メートルにも満たない木々など、巨大な身体の前では障害にもならなかった。
木々は次々とへし折られ、あるいは押し退けられる。
翼を激しく羽ばたかせ、鋭い爪がすぐ近くにいる蛇人たちを薙ぎ払う。
その瞬間。
シーシャが、ある蛇人の尾が踏み潰されそうになったところへ、どこからともなく木の上から飛び降りてきた。
蛇尾を一直線に伸ばす。
そして蒼鷲の背中へ、渾身の一撃を叩き込んだ。
ドォン!
重い一撃だった。
蒼鷲の身体が明らかに一瞬止まる。
鳴き声を上げ、首を反らし、翼を羽ばたかせて近づいてきたシーシャを追い払う。
「みんな、先に行って!」
「私がこいつを引きつける!」
シーシャは両拳を振り上げ、何度も何度も蒼鷲へ叩きつける。
尾を蒼鷲の首へ巻きつけながら、同時に蒼鷲に蛇尾を噛み千切られないよう警戒する。
二者が巻き起こした土煙が、瞬く間に周囲を覆い尽くした。
シーシャの攻撃は、蒼鷲にほとんど効いていない。
元々、食料不足で衰弱している。
まともな武器もない。
魔法の才能もない。
ほどなくして、シーシャの体力は尽き始めた。
巻きつけていた尾から力が抜ける。
その隙を蒼鷲は見逃さなかった。
シーシャを背中から振り落とす。
そして巨大な爪を振り下ろす。
一度。
二度。
三度。
シーシャの身体を何度も踏みつける。
「うぐっ……!」
シーシャは眼球が飛び出そうになるほどの衝撃を感じた。
蒼鷲は何度も何度も彼女を踏みつける。
まるで、シーシャが完全に死ぬまで止まるつもりがないかのようだった。
「お姉ちゃんから離れてよ!」
戦場の外縁から、幼い声が響いた。
怒りに満ちた叫び。
眩い青色の光線が空間を照らし出す。
そこに立っていたのは、シーシャの妹だった。
痩せ細った身体。
両手を蒼鷲へ向け、ひとつの術式を構える。
目も眩むほど鮮やかな青い光輪が、その手の中に形成された。
次の瞬間。
百本を超える青い氷の槍が一斉に射出された。
まるで重機関銃の弾丸のように、シュシュシュッと空気を切り裂いて飛んでいく。
しかし――。
蒼鷲はただ翼を持ち上げ、目元を覆っただけだった。
分厚い羽毛に氷槍が激突する。
ガンッ!
ガンッ!
まるで鉄板を叩いているかのような音が響く。
わずか五、六秒。
氷槍は消え失せた。
魔力が尽きたのだ。
蒼鷲が翼を下ろす。
細められた瞳が、あの小さな子を見つめていた。
そこには、どこか嘲笑するような色すら浮かんでいる。
「シルル、私なんか放って逃げて!」
シーシャはその隙を利用し、蒼鷲の足元から抜け出した。
しかし逃げなかった。
蒼鷲の両脚へ尾を巻きつける。
そして拳を何度も腹部へ叩き込む。
なぜ妹がここにいるのか。
そんなことを考える余裕はなかった。
妹と仲間たちが合流し、少しでも早く逃げること。
シーシャが望んでいるのは、それだけだった。
「この……クソッ!」
「この野郎!」
一撃。
拳を叩き込んでも、蒼鷲が痛がるだけ。
実質的なダメージはほとんどない。
今の蒼鷲は、シーシャなど眼中に入れていなかった。
魔法を使える獲物――シルル。
蒼鷲にとっては、極上のご馳走だった。
蒼鷲は待ちきれないとばかりに、シルルへ向かって走り出す。
翼を激しく羽ばたかせる。
轟音を立てながら突進してくる蒼鷲を見て、シルルは恐怖で動けなくなった。
両手を胸元で組む。
目を閉じる。
涙が止めどなく頬を伝う。
まるで、すべてを諦めたかのように。
「……助けるか?」
自分自身に問いかける。
今日、陽が初めて出会った、意思疎通のできる魔物娘だ。
最初から助けたいとは思っていた。
だが、あの蒼鷲が自分の腰ほどもある木を軽々となぎ倒した光景を見てしまった。
理性がひたすら警告している。
逃げろ。
見つかる前に、できるだけ遠くへ離れろ。
(もう少し待とう)
(きっと、また別の魔物娘に会える)
(そもそも階段を上るだけでも息が切れる俺が、あんな化け物とどう戦えっていうんだ?)
「……逃げるか?」
自分自身に問いかける。
ようやく手に入れた二度目の人生だ。
生きていたほうがいいに決まっている。
(……胸が熱い)
「自問自答しろ」
(いったい誰なんだよ!?)
(さっきからクソうるせぇんだよ!)
巨大な嘴が開いた。
シルルへ向かって伸びる。
咥えた。
肉だ。
「俺に聞くな!」
「子供が泣いてるだろうが!」
いつの間にか、陽はすでにそこまで近づいていた。
胸の奥には、灼熱した炎のようなものが渦巻いている。
それが、無限の勇気を与えてくれていた。
陽はシルルを一気に後ろへ引き寄せた。
左手には、自分の小さな包み。
それを高々と掲げ――。
蒼鷲の口の中へ突っ込んだ。
蒼鷲の頭が陽の肩へ衝突する。
まるで大型トラックに身体の端を掠められたような衝撃だった。
一瞬で、肩が焼けるように痛む。
蒼鷲の嘴の端から血が流れている。
そこで初めて、陽は気づいた。
自分の左腕が、骨にわずかな皮と肉が残っているだけになっていることに。
シュー……。
球苞が破れた。
空気に触れ始める。
「お前、これ好きなんだろ?」
「もっと食えよ」
蒼鷲が吐き出さないよう、陽は両脚を蒼鷲の頭へ絡ませた。
右手でまぶたを掴む。
左手の痛みなど忘れた。
光を放ち始めた小さな包みを、蒼鷲の喉奥へ必死に押し込んでいく。
蒼鷲には、この小さな人間がなぜ狂ったように自分へしがみついているのか理解できなかった。
鋭い瞳が陽を捉える。
そこに見えたのは、淡い光だけ。
ドンッ!
続けて――。
ドンッ!
ドドンッ!
一つ目の球苞が耐えきれず爆発した。
それが連鎖反応を引き起こす。
六、七斤もの包み。
大量の球苞とウサギの肉が、まるで爆薬の袋そのもののように蒼鷲の喉奥で炸裂した。
鋭かった眼球が血で満たされる。
そして、一瞬で弾け飛んだ。
血液と橙黄色の液体が、蒼鷲の眼窩から噴き出す。
脳は完全に焼き尽くされ、頭頂部から白い煙が立ち上った。
爆発に巻き込まれ、陽の左肩はほとんど消し飛んだ。
力を失った身体が、硬直した蒼鷲の死体から落下する。
地面へ叩きつけられる。
横たわったまま、自分の左手を確認しようとした。
動かす。
反応がない。
首を傾ける。
徐々に重くなっていく瞼。
それでも、最後に一つだけ確認できた。
(あ……左手、なくなってる)
「この出血量じゃ……たぶん、持たないな」
「学士さん、ごめん」
「来た初日に死ぬことになりそうだ」
「文明とか……もう俺にはどうにもできないわ」
(でも……)
(魔物娘をこの目で見られたんだ)
(それなら……まあ、そこまで損じゃないか……)
シルルは姉の肩を引きずりながら、陽のもとへ這ってきた。
目の前にいる見知らぬ人間が、どこから現れたのかは分からない。
ただ一つだけ分かる。
この人が、自分と姉を救ってくれた。
「シ……シルル」
「まだ、魔法を使える……?」
シーシャは必死に身体を起こした。
身体中がバラバラになりそうだった。
あと一息でも気を抜けば、そのまま意識を失いそうな状態だった。
「……うん」
シルルは涙を拭い、素早く頷いた。
「彼の腕を凍らせて」
「まず、血を止めるの……」
シーシャはもう耐えられなかった。
頭が傾く。
そのまま意識を失った。
シルルは両手で陽の欠損した肩を抱えた。
冷たい水蒸気が集まり始める。
「お願い……」
「どうか、生きて……」
シルルの涙は止まらない。
それでも手を止めなかった。
残された最後の力をすべて使い果たす。
そして、どうにか陽の傷口を凍結させた。
それでも、このままでは長く持たない。
左を見れば、力を使い果たして傷つき、気絶した姉。
右を見れば、失血によって意識を失った陽。
幼いシルルはどうしていいのか分からず、その場に立ち尽くした。
幸いだった。
先ほど逃げた蛇人たちが、再び戻ってきた。
あまりにも長い時間、シーシャとシルルの姿が見えなかった。
数人で相談した末、彼女たちは歯を食いしばって戻ってきたのだ。
蛇人たちが目にしたのは、すでに終わった戦いだった。
あの傲慢なまでに強かった蒼鷲が、地面に横たわっている。
その傍らには、意識を失ったシーシャ。
怯えたシルル。
そして、見覚えのない人間の男。
蛇人たちは素早く集まった。
シルルから事情を聞く。
そして決断した。
四人を負傷者の搬送に回す。
残った二人で、蒼鷲の死体をゆっくりと村まで運ぶ。
わずか三十分。
負傷者たちは村へ戻された。
その途中で、シーシャもゆっくりと意識を取り戻した。
長老から干し肉を一切れ食べさせてもらい、そこで起きたことを話す。
「私が祖巫様に報告してくる」
「どうしてこんなことになったのかしら……」
「はぁ……」
「何があっても、あの子は助けなきゃ」
「もう二度と、あの子に何か起きるのを放っておくわけにはいかないわ」
長老はそう言い残すと、祖巫の部屋へ向かって走り出した。
その蛇尾と腰の動きは、残像が見えそうなほどだった。
二日後。
陽は祖巫の住居にある池の中から、シーシャに蛇尾で腰を巻きつけられ、そのまま引き上げられた。




