第二章 昨日までの日常
種花・南京
【天理】
【高度30km 姿勢安定】
【低歪曲度個体の障壁突破を検知】
【位置特定中……】
【位置特定完了 ロックオン】
【全サンプルの収束を確認 残存サンプル:1】
【我々には、計算できないサンプルが必要だ】
【最後のサンプルは、未だ演算中】
【演算記録350年】
【データは十分、時間が足りない】
【骸に殺されてはならない】
【その魂を歪めさせてはならない】
【学士、頼む。君に実行してほしい】
【彼を先に送り出せ】
【……】
平淡な夜だった。
歪んだ影の爪が、何度も無防備な人間へと突き刺さろうとする。
しかし触れる寸前、どこかの存在によって一撃で霧散させられた。
夜風は少しばかり暖かかった。
東北地方では珍しいほどの、夏の夜の高温だった。
自転車に乗っている陽の全身は汗でびっしょり濡れていた。
午前三時。
たった今、仕事を終えて退勤したところだった。
仕事そのものはそれほど大変ではない。
だが、時間帯が時間帯だ。
さすがに身体には堪える。
そのため陽は、ほとんどいつもパンダのような隈を目の下に浮かべていた。
「まったく、あの客たち、注文が多すぎるんだよ……」
陽は愚痴をこぼしながら、骨伝導イヤホンから流れる音楽を聴いていた。
時に穏やかで、時に激しいビートが耳元で鳴り響く。
明黄色の街灯が、一つ、また一つと視界の横を流れていく。
そして、ある区間に差しかかった瞬間。
道路が突然、真っ暗になった。
(うわ、また停電かよ。この通り、どうなってんだ?)
そう思った陽は、ハンドルを少し緩め、速度を半分まで落とした。
凸凹した路面と夜道のおかげで、尻は散々な目に遭っていた。
慎重に辺りを見回す。
突然飛び出してくる歩行者はいない。
そのまま五十メートルほど進んだ、その時だった。
背後から、無視できないほどの轟音が響いた。
同時に、巨大な光が陽の背中を覆い尽くす。
驚いて振り返ると、そこには荷物を運ぶ大型トレーラーがいた。
この時間帯なら、決して珍しいものではない。
陽はさらに減速し、道路の右端ぎりぎりまで寄った。
大型トレーラーが、ヒュンッという音とともに横を駆け抜けていく。
「命知らずな奴らが増えたもんだな……」
陽は再び加速した。
徐々に遠ざかっていくトラックのテールランプを追いながら、暗闇の区間を抜けていく。
家はもうすぐそこだった。
涼しい風が身体を撫でる。
それだけで陽の精神は少しだけ持ち直し、思考もずいぶんと明瞭になった。
この先の道は走りやすい。
もっとも、非机动车道の大部分は路上駐車された自動車に占領されている。
それでも車のすぐ脇を走れば、危険な大型車両のために十分な道幅を残すことができる。
必要がない限り、陽は自動車と場所を奪い合うような真似はしたくなかった。
その時だった。
一台の黒い乗用車が、何の前触れもなく運転席のドアを開いた。
半分ほど開いた窓ガラスに、猛スピードで接近する陽の姿が映り込む。
車内では、ちょうど照明が点いたところだった。
運転席の中にいた太い腕が、慌ててドアを引き戻そうとする。
だが、もう間に合わなかった。
ガシャンッ!
続いて、ガラスの砕け散る音が響いた……。
(運が悪すぎるだろ……)
陽はアスファルトの上に立っていた。
俯き、頬杖をつきながら、足元をぼんやりと見つめている。
そこには、細い流れのような鮮血が、ゆっくりと広がっていた。
陽は片足を持ち上げて確認する。
靴には血が付いていない。
それならと、陽はそのまましゃがみ込んだ。
顔を上げる。
そこには四十歳前後と思われる中年の男がいた。
目の下には、長年の苦労と疲労が刻み込まれている。
充血した白目からも、その男がどれほど疲れ果てていたのかが見て取れた。
今、その男は頭を両手で抱え、完全に取り乱している。
唇は小刻みに震え、言葉すら出てこない。
何か、とんでもない結果を想像してしまったのだろう。
その目には、涙が浮かび始めていた。
「終わったな。人を轢き殺したな」
「今さら泣いてんじゃねえよ。ドアを開けた時は何考えてたんだよ……」
陽は首を横に振り、それ以上男を見ることをやめた。
そのままドカッと地面に腰を下ろし、両手で立てた膝を支える。
陽の顔にも、深い憂いが浮かんでいた。
「どうすりゃいいんだよ……母さん、どうすれば……」
「俺がいなくなったら、あの人はどうすんだよ……」
自分の身に起きたことを恨むでもなく。
ただ、残していく者のことだけを心配していた。
「ていうか、俺って今どういう状態なんだ?」
「幽霊か? いや、俺の母ちゃんが見たら泣くだろうな……」
「そもそも幽霊って涙なんか流せないだろ。うわ、マジでつらいな……」
「はぁ……これからどうすりゃいいんだよ」
陽はとうとう顔を背け、自分の死体を見ないようにした。
生前も、事故現場には大勢の人間が集まっていた。
何がそんなに面白いのか、陽には分からなかった。
こんなにも悲しい出来事なのに、わざわざ見物する。
気持ち悪い。
ただ黙っていればいいのに。
「地面に座っていて、寒くないの?」
とても美しい、どこか空間そのものを震わせるような声が背後から響いた。
陽が振り返る。
声は遥か遠くから聞こえてきたように感じた。
だが、声の主はすぐ目の前にいた。
いや。
陽のすぐ後ろに、ぴったりと寄り添うように立っていた。
陽は顔を上げた。
しかし、その顔を見ることができない。
視線が、その女性の豊かな身体の曲線に遮られていた。
真っ白なふさふさの尻尾が陽の顔を撫でる。
そのまま陽の目を覆った。
「何を見てるの?」
その女性は、楽しそうに笑いながらからかう。
「い、いや、何でもない」
陽は目を閉じ、少しだけ首を縮めた。
唇を尖らせ、小さく呟く。
(え? なんでこの人、俺に触れるんだ?)
(この人も幽霊なのか?)
「私も?」
「ふふっ、違うわよ。私は幽霊じゃない」
「あなたもまだ幽霊じゃないわ。ただの彷徨える魂。そうね……あと少しもすれば消えてしまうでしょう」
女性はそう答えた。
「心の声が聞こえるのか?!」
陽は勢いよく立ち上がった。
そして振り返り、その女性をまじまじと見つめる。
古風な衣装に身を包んだ女性。
いや。
正確には、狐の妖怪とでも呼ぶべき存在だった。
その背後には、九本のふわふわした巨大な狐の尾が揺れている。
時折、意思を持つかのようにぴくりと震えた。
女性の顔には、楽しげな笑みが浮かんでいた。
あまりにも美しい。
一目見ただけで、長い間その姿が脳裏に残り続けるほどの美貌。
人の心に憧れを抱かせるような存在だった。
白い髪の毛先には、緋色の差し色が入っている。
そして、あらゆるスーパーモデルですら霞んでしまうほどの、見事な身体つき。
何もかもが、ちょうどよかった。
「もう十分見た?」
彼女は口元をそっと隠しながら笑う。
そして、陽を魅惑的な目で見つめた。
「妖怪?」
「いえ、違うわ」
「仙人?」
「それも違うわ」
「やっぱり幽霊か」
「妾は観察者、演算者、記録者」
「まあ、妾のことは『学士』と呼んでくれて構わないわ」
「ただし、神と呼ぶのだけはやめてちょうだい。好きじゃないの」
学士は陽の周囲をゆっくりと歩き回った。
地面に横たわる死体を観察する。
そして陽の匂いを嗅ぐ。
その後、薄く笑いながら手を差し出した。
「初めまして、陽」
困惑が、死んだことへの迷いを上回った。
学士はくすりと笑う。
そして呆然としている陽の手を取った。
宙に浮いたまま、正式な握手をするように手を振った。
「きっと、妾がどうしてあなたを知っているのか気になっているのでしょう?」
「面倒なことはしないわ。話せることは全部話すし、回りくどい言い方もしない」
「何しろ、お互いに残された時間はそれほど多くないものね」
学者は陽の死体の傍にしゃがみ込んだ。
人差し指の爪で、首筋に刻まれた恐ろしい傷跡をなぞる。
すると、地面に流れていた血液が逆流した。
肉が再構成される。
瞬きをする間に、死体にあったすべての傷が完全に塞がった。
地面は何事もなかったかのように綺麗になり、血の匂いすら消え失せた。
そして、先ほどまで取り乱していた運転手が、突然静かになった。
両目から光が消える。
男はそのまま車へ戻り、首を傾けると、眠るように倒れ込んだ。
学者は立ち上がった。
人差し指で空中に円を描く。
そして、パチン、と指を鳴らした。
その瞬間。
半径数キロ以内に存在するすべての監視カメラとデータ記録装置が、一瞬だけ青い光を放った。
そして、過去一時間分のデータがすべて消滅した。
蘇生した陽の肉体は、その場で立ち上がった。
いつの間にか修復されていた電動自転車を持ち上げ、跨る。
そして、虚ろな目で学者と陽を見つめた。
まるで、何かを待っているかのように。
あまりにも衝撃的な出来事だった。
いくら陽が、これまで数々の無茶苦茶な設定の小説を読んできたとはいえ。
今ばかりは、唇を震わせながら呆然と『自分の死体』を指差した。
「俺……今、生き返ったのか?」
「それとも、死んだままなのか?」
「死んだままよ」
「死者蘇生は禁忌中の禁忌。因果を乱すことになる」
「あなたには想像もできないほどの業力による反動を受けることになるわ」
「このことだけは、絶対に忘れないで」
陽は呆然と頷いた。
しかし、やはり理解できない。
なぜ、もう一人の自分の肉体が動いているのか。
学者はその肉体を一瞥した。
そして、その額に指を当てる。
すると、その肉体の両目に瞬時に生気が戻った。
何事もなかったかのようにハンドルを握り直す。
そして、電動自転車に乗ったまま、一目散に走り去っていった。
陽は思わず唾を飲み込んだ。
恐る恐る尋ねる。
「じゃあ、今のは……?」
「あなたの行動パターンを学習した自走システムよ」
「あなたの代わりに生活してくれるから、家族のことを心配する必要はないわ」
「こちらでは、すべて今まで通りに進むから」
学士は両手を胸の前で組み、顎を支えるようにしながら陽を左右から観察する。
時折、満足そうに頷いていた。
「俺の行動を学習したって……」
「お前、俺のことをどれくらい観察してたんだ?」
「一体何が目的なんだ?」
「それに、今夜の事故……まさか、お前が仕組んだのか?!」
「まあまあ~、怒らないで。落ち着いて」
学士は手を振った。
「私たちは、あなたに危害を加えるつもりなんてないわ」
「ずっと機会を待っていたの」
「もしあなたが、このまま何事もなく老衰まで生きられるのなら、それでもよかった」
「でも今回は……そう幸運にはいかなかったようね」
「本当に残念な事故だわ」
「でも、これで私たちの演算結果が、極めて高い精度で一致していることが証明された」
学士は、陽に誤解されたくないとでも言うように説明を続けた。
「あなたに会いに来たのは、お願いがあるからよ」
「もちろん、これは取引」
「受けるかどうかは、あなた自身で選んでいいわ」
「受けないのなら、夜が明けるまでここで待っていればいい」
「そうすれば魂は消滅して、完全に死ぬ」
「あるいは……」
学士は滔々と語りながら、口元を隠して小さく笑った。
そして、陽の反応を盗み見るように、目尻だけをそっと開く。
陽の反応は、極めて平淡だった。
それもまた、学士が演算していた結果と一致していた。
これまで、あれほど多くのサンプルを比較してきた。
その中でも陽の受容能力は、群を抜いていた。
「じゃあ、どうして俺なんだ?」
陽は尋ねた。
「その答




