問題児
少しくたびれた制服も、しっくりと自分に馴染んだいつもの風景も、毎日当たり前のように顔を合わせていたクラスメイトとも、もうじきに別れの時を迎える。
既に進学先を決めたもの、就職をする奴、その分岐点に立てばそれぞれが別々の人生というものを歩み出す。
なんだかそれが現実のこととして受け入れがたい。
東郷は廊下を歩きながら、不意に心に満ちる切なさに耐えた。
教室の少し埃っぽい匂いとか、机に彫った落書きとか……。
卒業という名の感傷が背中を押して、少し自分たちを大人にしていく。
だけどそんな心の変化がどこかこそばゆくって、同時に些細な抵抗を試みたりもする。
極寒の二月に校庭で風船に水を入れて投げ合ったり、廊下を意味もなく全力でダッシュする奴もいる。
そんな風景に東郷は思わず微笑を誘われた。
「おーおー、若いねえ……」
そう呟きながら東郷もまた、この学校の思い出の場所へと足を運ぶ。
非常階段の少し錆びた手すりをじっと見つめ、なんだか不意に懐かしさが込み上げた。
(そういえば悪友どもと、その下でよく女子のパンツ覗こうとしてたっけな)
東郷は不毛な回想にぽりぽりと頬を掻いた。
そういう何でもない日々を、後に人は青春と呼ぶのかもしれない。
非常階段を上り、渡り廊下を進むと第二体育館が見えてくる。
さらに階段を下りてその地下に剣道部の道場があった。
少し薄暗い廊下をぬけると、威勢のいい掛け声が聞こえてきた。
「おー、やっとる、やっとる」
なにかしら、胸に酸っぱいような、それでいて暖かいものが東郷の心に満ちた。
「面!」
足音とともに、声が飛ぶ。
汗と熱気に満たされたその場所。
白けた天井のライトや木の匂い。
この場所は変わらないのに、なぜだか胸にぽっかりと穴が空いたような寂しさを東郷は感じていた。
(この場所に、俺も居たんだ。ていうか、俺たちの場所だった。昨年の夏までは。
春が来れば、俺の知らない誰かが入部し、俺の知ってるこの場所で、俺の知らない時間が流れていく。
そこにあいつは、いるのかな。誰かと笑い合って、ちゃんと元気でやっていくのかな)
それを馬鹿げた感傷だと気付き、東郷は自嘲した。
「あー、東郷先輩!」
そう言って派手に抱きついたのは、二年生の信濃だった。
「うわっちょ…ちょ…」
東郷は予期せぬ後輩の抱擁に、バランスを崩してその場に尻もちをついた。
「あのね、東郷先輩。俺ね、俺、この間の個人戦で初めて勝った……んだ」
信濃はそういうと、瞳いっぱいに涙を溜めこんだ。
信濃は小柄で、しかし人一倍の頑張り屋だった。
いつも皆が練習を終えてからずっと自主練を続けていた様子が、東郷の記憶に蘇る。
「そっか、がんばったな。信濃君」
そう言って東郷は信濃の頭を撫でた。
「あっ、ちょっとずるい、信濃どきなさいよ! 東郷先輩は皆に会いに来たのよ」
そういって口を尖らせるのは、同じく二年生の笹原だ。
笹原は気は強いが、面倒見がよくていつもみんなのフォローにまわっている。
この学校の剣道部は男と女に分かれておらず、みんながひとつの剣道部員だ。
この部活で過した三年間の思い出は、東郷にとってどれもかけがえのない大切な思い出となっていた。
そして東郷は周囲を見回わす。
「東郷先輩、こんにちは」
そう言ってにっこりと微笑んだのは、現在の剣道部主将を務める仙台だった。
長身に薄く筋肉の張り付いた理想的なボディーと、歪み知らずのサラサラとした黒髪が、少しシャープな印象を与えるとても端正な顔立ちだ。
仙台の剣道の腕前は、おそらく現剣道部では某一名を覗いては一番といっていいだろう。
さらに東郷が仙台を好ましく思っている理由は、仙台はものすごく女子にモテるのに、奢ったところがまったくといっていいほどないということだ。
いつも礼儀正しくて誰に対しても親切であり、東郷は後輩でありながらこの仙台に尊敬の念すら抱いている。
「東郷先輩、アイツなら、いないですよ」
そういって仙台は意味ありげな視線を東郷に向けた。
仙台は意地悪だ、と東郷は思った。
「ああ、アイツね……」
そう振られると、東郷もその話題に触れざるおえない。
「霧島さんは東郷先輩いが引退した夏から、全然剣道部に顔を出していませんよ。まだ退部届は出ていませんが、誰が何度誘ってもここに姿を現すことはありませんでした」
(まあ、そうだろうな)
なんとなくそう思っていた東郷は、ばつの悪い声色で
「そう……」
とだけ応えた。
◇ ◇ ◇
「ああ、くっそ補習授業かったりぃな」
そう呟いて、少女は屋上に大の字で寝そべった。
極寒の二月に粉雪が舞う。
コンクリートの冷たさに身体の芯まで、凍てついてしまいそうだったが、少女は動こうとしない。
(動いたら、負けだ)
少女は自らそう律し、梃子でもここで籠城を決め込むつもりだった。
この学校は私学のエリート校なだけあって、試験で芳しくない成績をおさめると速攻で教師とのマンツーマンの補習授業が行われる。
再テストで合格点をとるまでは、何度でも追試をうけさせられるシステムなのである。
「ああ、嫌。本当嫌。補習うけるくらいなら、いっそここで命尽きたほうがマシ」
少女は、そこいらへんのアイドルなんか目じゃないほどの、いわゆる美少女であるにのだが、その瞳にはまるで生気がない。
最近では息を吸うことすら面倒だと思う始末だった。
死んだ魚のごとき眼差しをただ、鉛色の空に向けている。
少女は不意に微笑み、瞼を閉じた。
指先の感覚もだんだんと麻痺してゆく。
なんか、久しぶりに眠れそう。
そう思ったときだった。
鉄製の扉が開き、来訪者が現れた。
「うっわ、やっぱりここに居たよ」
東郷は掌で顔を覆った。
「霧島、お前には防衛本能といものがないのか? 雪降ってるこのクソ寒い日に屋上で昼寝する奴があるか! 凍死すんぞ」
そんな東郷の言葉に少女はのろのろと身体をお越し、定まらない視線を東郷に向けた。
視界に東郷の姿を認めると、少女の顔にみるみると生気が満ちた。
「あっ、東郷センパイだ。すいませんが一発ヤらしてください」
少女の嬉々とした声色に、東郷はがっくりと肩を落とした。




