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麦穂の革命  作者: レモンティー


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9/10

第九章 海の向こう側

「次は海か……」

アルベルトは地図を見つめながら呟いた。

机の上には南方商人が持ち込んだ海図が広げられている。

粗雑な地図だった。

海岸線も曖昧。

距離も不正確。

だが重要なのはそこではない。

未知の大陸が存在する。

それだけで十分だった。

翌日。

王宮の会議室。

国王をはじめ、大臣、将軍、商人たちが集まっていた。

地図が中央に置かれる。

「まず確認したい」

国王が言った。

「この情報は本物か?」

南方商人が頭を下げる。

「間違いありません」

「見たのか?」

「私は途中までですが」

「途中まで?」

「私の船団は嵐で引き返しました」

会議室がざわつく。

「では誰が見た?」

「南方都市国家の探検家です」

アルベルトは黙って聞いていた。

前世の歴史を思い出していた。

未知の大陸発見。

海上交易。

国家競争。

流れが似ている。

非常によく似ている。

「問題があります」

アルベルトが口を開く。

全員がこちらを見る。

「何だ?」

国王が尋ねる。

「我が国には遠洋船がありません」

静まり返る。

確かにその通りだった。

現在の船は沿岸航海用である。

漁業。

近海貿易。

河川輸送。

その程度だ。

大洋横断など想定されていない。

海軍大臣が頷いた。

「事実です」

「どれくらい難しい?」

国王が聞く。

「非常に」

海軍大臣はため息をついた。

「大型船の建造経験がありません」

「船員は?」

「長距離航海の経験者も少数です」

アルベルトは腕を組む。

また同じだった。

技術の壁である。

農業の時もそうだった。

製鉄の時もそうだった。

問題が見えたなら、あとは解決するだけだ。

数日後。

アルベルトは王国最大の造船所を訪れていた。

海辺の街サルヴィア。

王国最大の港町である。

船大工たちが忙しく働いていた。

木材の匂い。

潮風。

槌の音。

巨大な骨組み。

活気に満ちている。

造船所長のベネットが迎えた。

六十代の職人だった。

日に焼けた顔。

太い腕。

いかにも現場の人間である。

「閣下」

「忙しいところ悪いな」

「仕事なら歓迎です」

ベネットは笑った。

「無茶な注文でなければ」

アルベルトも笑った。

「無茶だ」

「でしょうな」

工房へ案内される。

様々な船の模型が並んでいた。

漁船。

輸送船。

軍船。

アルベルトは一つひとつ観察する。

そして言った。

「もっと大きな船が欲しい」

ベネットが眉を上げた。

「どれくらい?」

「海を越えられるくらい」

「無茶ですな」

「やはりか」

「ですが不可能ではありません」

アルベルトは目を細めた。

その言葉を待っていた。

それから数か月。

造船計画が始まる。

王国初の遠洋探査船。

国家事業だった。

港町は大騒ぎになる。

「何を作ってるんだ?」

「王命らしいぞ」

「戦艦か?」

「いや探検船だ」

「探検?」

人々は理解できなかった。

この世界の大多数にとって海は境界線だった。

向こう側など考えたこともない。

建造は困難を極めた。

船体が重すぎる。

帆が足りない。

舵が壊れる。

何度も設計変更が行われた。

アルベルトも現場に通った。

「前にも聞いたな」

ベネットが苦笑する。

「何をです?」

「前例がない」

二人は笑った。

もはやお決まりの言葉だった。

そして二年後。

ついに完成する。

王国最大の船。

全長五十メートル。

三本マスト。

大型貨物室。

遠洋航海仕様。

港に集まった群衆が息を呑む。

「でかい……」

「城みたいだ」

「本当に浮くのか?」

それは誰もが思っていた。

進水式の日。

国王も出席した。

船体に酒樽が打ち付けられる。

歓声が上がる。

巨大な船がゆっくり海へ滑り出した。

無事に浮かぶ。

港中から拍手が起こった。

ベネットが目を潤ませる。

「浮いたな」

「浮いたな」

アルベルトも頷いた。

だが本当の勝負はここからだった。

船を作ることと航海することは別である。

船員募集が始まる。

応募者は少なかった。

当然だ。

未知の海へ行くのだ。

帰れないかもしれない。

募集開始から一週間後。

王都。

酒場。

一人の若者が張り紙を見ていた。

探検隊募集。

新大陸調査。

高額報酬。

危険手当。

若者は笑った。

「面白そうだ」

それが後に有名になる探検家エドワードとの最初の出会いだった。

半年後。

探検船は出航する。

港には数万人が集まっていた。

まるで祭りだった。

エミリアもいる。

国王もいる。

アルベルトもいる。

船員たちが最後の準備をしている。

出航直前。

エドワードがアルベルトの前に来た。

まだ二十代前半。

無名の青年である。

「閣下」

「何だ?」

「向こうに何があると思います?」

アルベルトは少し考えた。

前世の知識がある。

だがこの世界は別の世界だ。

何があるかは分からない。

だから正直に答えた。

「知らない」

エドワードが笑う。

「それで十分です」

船が出港する。

白い帆が風を受ける。

岸壁から歓声が上がる。

少しずつ。

少しずつ。

船は水平線へ消えていった。

その夜。

アルベルトは執務室に戻った。

エミリアが尋ねる。

「心配ですか?」

「少しな」

「失敗すると思います?」

アルベルトは首を振った。

「分からない」

「珍しいですね」

「だが」

彼は窓の外を見る。

「成功してもしなくても意味はある」

「どういうことです?」

「挑戦したという事実が残る」

それが重要だった。

文明は挑戦によって進む。

成功だけではない。

失敗もまた財産になる。

それから一年。

二年。

三年。

探検船は帰らなかった。

人々は諦め始めた。

失敗したのだと。

海に沈んだのだと。

誰もがそう思っていた。

ただ一人。

アルベルトだけは違った。

そして四年目の春。

王都に一頭の早馬が駆け込む。

伝令は叫んだ。

「港から急報!」

役人たちが飛び出す。

「何事だ!?」

伝令は息を切らしながら叫んだ。

「探検隊が帰還しました!」

王都が揺れた。

だが。

その報告には続きがあった。

伝令の顔は興奮と恐怖で震えている。

「新大陸を発見しました!」

歓声が上がる。

しかし次の言葉で凍り付いた。

「そして――」

「そして?」

「向こうにも大国があります!」

会議室が静まり返る。

アルベルトはゆっくり立ち上がった。

未知の土地。

未知の文明。

未知の国家。

歴史は今、大きく動こうとしていた。

そして彼は直感する。

これまでの農業改革も、製鉄改革も、海洋進出も。

すべては序章に過ぎなかったのだと。

世界史そのものが、今から始まろうとしていた。

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