第八章 鉄の不足
戦争が終わって一年。
王国はかつてない繁栄を迎えていた。
市場は拡大した。
人口は増えた。
商人たちは儲かり、農民たちは豊かになった。
だが。
「足りないな」
アルベルトは報告書を閉じた。
エミリアが机越しに尋ねる。
「今度は何がです?」
「全部だ」
「またですか」
「まただ」
もはや恒例だった。
問題を解決すると、次の問題が現れる。
それが発展というものだった。
会議室。
各地から集まった役人や商人が並んでいる。
アルベルトは一枚の紙を掲げた。
「鍬の注文数」
全員が見る。
数字が並んでいる。
昨年の三倍。
「次は鋤」
これも増えている。
「釘」
さらに増えている。
「馬蹄」
爆発的に増えている。
商人の一人が言った。
「景気が良い証拠では?」
「そうだ」
アルベルトは頷いた。
「問題は供給だ」
王国の鉄生産量は限られていた。
中世レベルの小規模な製鉄炉。
森で作った木炭。
職人の経験頼みの生産。
今まではそれで足りた。
だが人口が増えた。
農地が広がった。
道路も増えた。
橋も増えた。
需要が爆発していた。
「鉄が足りません」
役人が報告する。
「鍛冶屋も足りません」
「値段は?」
「三年前の二倍です」
会議室がざわついた。
その日の夕方。
アルベルトは王都近郊の鍛冶工房を訪れていた。
真っ赤に熱せられた鉄。
響く槌の音。
汗だくの職人たち。
親方が頭を下げる。
「お久しぶりです、閣下」
「忙しそうだな」
「死ぬほどです」
親方は苦笑した。
「注文が山積みですよ」
工房の隅を見る。
鍬。
斧。
釘。
車輪の金具。
全部が注文待ちだった。
「増産できないのか?」
アルベルトが尋ねる。
親方は首を振った。
「炉が足りません」
「作ればいい」
「鉄が足りません」
「人は?」
「職人が足りません」
「育てればいい」
「十年かかります」
アルベルトは腕を組んだ。
予想以上に深刻だった。
帰り道。
エミリアが尋ねた。
「どうするんです?」
「製鉄を変える」
「変える?」
「もっと大量に作る」
「そんなことできます?」
アルベルトは少し笑った。
前世で製鉄所勤務ではなかった。
だが歴史は知っている。
中世の次に来るものも。
「できるかもしれない」
数日後。
王宮。
国王が資料を見ながら眉をひそめた。
「高炉?」
「はい」
アルベルトは説明する。
「今の炉より大きい」
「それだけか?」
「それだけじゃありません」
図面を広げる。
空気を送り込む構造。
水車。
送風装置。
燃焼効率。
不完全な知識だった。
だが方向性は間違っていない。
国王は図面を眺めた。
「本当にできるのか?」
「分かりません」
「分からんのか」
「試したことがないので」
国王は吹き出した。
「お前は毎回それだな」
「成功するまで分かりません」
「正直でよろしい」
建設は大事業になった。
まず川沿いの土地を確保。
巨大な炉を築く。
水車を設置。
送風装置を作る。
職人たちは半信半疑だった。
「こんな大きな炉が必要なのか?」
「崩れるんじゃないか?」
「爆発しそうだぞ」
アルベルトも同意だった。
実際に爆発する可能性はある。
案の定。
最初の試験では失敗した。
炉の温度が上がらない。
二回目は壁が割れた。
三回目は送風機が壊れた。
四回目は溶けた鉄が漏れた。
現場は大混乱だった。
夜。
職人たちが落ち込んでいる。
「やっぱり無理です」
「前例がありません」
「危険すぎます」
聞き飽きた言葉だった。
アルベルトは焚火の前に座る。
「なあ」
職人たちを見る。
「昔、三圃式農業も前例がなかった」
誰も言い返せない。
「用水路も前例がなかった」
沈黙。
「兵站改革も前例がなかった」
さらに沈黙。
アルベルトは笑った。
「だったら今回もやるだけだ」
親方がため息をつく。
「あなたは本当に諦めませんな」
「諦めたら改善しない」
「面倒な領主だ」
「よく言われる」
現場に笑いが広がった。
半年後。
ついに成功する。
赤熱した炉。
唸る送風機。
流れ出す溶融鉄。
職人たちは呆然としていた。
「出た……」
「本当に出たぞ」
「量が違う」
従来の何倍もの鉄が生産されている。
親方が震える声で言う。
「これだけあれば……」
「鍬も作れる」
アルベルトが言う。
「釘も」
「橋も」
「荷車も」
「全部だ」
その結果。
王国の鉄不足は急速に改善された。
農具が増える。
生産性が上がる。
道路建設が加速する。
橋も増える。
商業も拡大する。
王国経済はさらに成長した。
だが。
成功を喜ぶ暇はなかった。
ある日、王都に一人の商人が現れる。
南方から来た男だった。
「閣下」
男は深々と頭を下げる。
「海の向こうの話をお持ちしました」
アルベルトは興味を持つ。
「どんな話だ?」
商人は地図を広げた。
見たこともない大陸が描かれている。
「新大陸です」
部屋が静まり返る。
「我々の知らない土地があります」
商人は続ける。
「巨大な森林」
「広大な平原」
「豊富な鉱山」
「そして――」
男は少し声を落とした。
「金です」
エミリアが息を呑む。
国王の目が細くなる。
アルベルトだけが別のことを考えていた。
金ではない。
土地でもない。
もっと重要なものだ。
「人口は?」
商人が驚く。
「は?」
「そこに人は住んでいるのか?」
「住んでおります」
「どれくらい?」
「分かりません」
アルベルトは腕を組んだ。
もし大陸規模なら。
もし文明が存在するなら。
もし交易が可能なら。
世界そのものが変わる。
その夜。
彼は一人で地図を見つめていた。
農業改革。
物流改革。
兵站改革。
製鉄改革。
ここまでは国内の話だった。
だが今、世界が広がろうとしている。
そして歴史を知る彼には分かっていた。
大航海時代の先には繁栄だけではなく、争いもある。
交易。
植民地。
疫病。
戦争。
そして世界経済。
窓の外では王都の灯が輝いている。
かつて飢餓に苦しんだ国は豊かになった。
だがその豊かさは、新たな時代の入り口に過ぎなかった。
アルベルトは静かに呟く。
「次は海か……」
そして後に歴史家たちは記す。
農業革命が王国を変えた。
だが海洋革命は世界を変えた。




