第七章 兵站という名の戦争
王都へ向かう馬車の中。
アルベルトは机代わりの板の上に地図を広げていた。
国王からの召集は予想通りだった。
いや、予想より悪かった。
手元の書類にはこう書かれている。
**王国兵站総監への任命を検討する。**
「検討じゃないな」
アルベルトはため息をついた。
「決定事項だ」
向かいに座るエミリアが紅茶を差し出す。
「そんなに大変なんですか?」
「大変だ」
「戦争そのものより?」
「場合によるがな」
アルベルトは地図を指差した。
「十万の兵士がいたとする」
「はい」
「一日でどれだけ食べると思う?」
エミリアは考える。
「一人がパンを二個くらい?」
「もっと食う」
「三個?」
「もっとだ」
「分かりません」
アルベルトは苦笑した。
「だから将軍も失敗するんだ」
王都。
大戦略会議。
王国の主要貴族と将軍が集められていた。
巨大な地図が壁に掛けられている。
国王が席に着くと会議が始まった。
「敵軍は八万」
老将軍が説明する。
「国境を越え次第、迎撃する」
別の将軍が立ち上がる。
「王国軍九万で決戦を挑みます」
多くの貴族が頷いた。
勇ましい話だった。
だがアルベルトは頭を抱えた。
「どうした?」
国王が聞く。
「その軍隊、何を食べるんです?」
会議室が静かになる。
将軍の一人が不機嫌そうに言った。
「食料なら準備している」
「どれくらいです?」
「三週間分」
アルベルトは目を閉じた。
「足りません」
「何?」
「全然足りません」
将軍たちの顔色が変わる。
「敵を三週間で倒せばいい」
「倒せなかったら?」
誰も答えない。
アルベルトは続ける。
「十万近い軍隊です」
地図の前へ歩く。
「移動だけで食料を消費します」
「……」
「馬も食います」
「……」
「荷車を引く牛も食います」
「……」
「護衛も食います」
完全に静かになった。
アルベルトは黒板に数字を書き始めた。
兵士一人。
馬一頭。
荷車一台。
必要な食料。
必要な飼料。
輸送距離。
輸送日数。
計算が進むにつれて会議室の空気が変わる。
「待て」
将軍が立ち上がった。
「そんな量になるのか?」
「なります」
「馬鹿な」
「なります」
アルベルトは断言した。
前世の歴史知識があるから分かる。
近代以前の軍隊は巨大な胃袋だった。
国王が興味深そうに尋ねる。
「ではどうする?」
「決戦をやめます」
今度は大騒ぎになった。
「何だと!」
「敵を迎え撃たないのか!」
「臆病者め!」
怒号が飛ぶ。
アルベルトは気にしない。
「敵軍はどこから来る?」
地図を指差す。
「北東ですな」
「補給路は?」
「当然ここだ」
将軍が街道を指した。
アルベルトは頷く。
「そこを潰します」
静まり返る。
「敵兵を殺す必要はありません」
アルベルトは言った。
「食料を殺します」
将軍たちは意味が分からない顔をした。
「橋を落とす」
「倉庫を焼く」
「輸送隊を襲う」
「街道を封鎖する」
「そうすれば?」
国王が尋ねる。
アルベルトは答えた。
「敵は飢えます」
若い将軍が笑った。
「そんなことで勝てるものか」
「では聞きます」
アルベルトは振り返る。
「あなたは一週間何も食べずに戦えますか?」
将軍は黙った。
「兵士も同じです」
「……」
「英雄も飯を食います」
会議室が静かになる。
結果として。
国王はアルベルト案を採用した。
正確には折衷案だった。
正面決戦を避ける。
敵補給線を攻撃する。
時間を味方につける。
貴族たちの不満は大きかった。
だが国王は言った。
「飢饉を止めた男の話を聞こう」
その一言で決まった。
一か月後。
戦争が始まる。
隣国軍は順調に侵攻した。
国境要塞を突破。
二つの城を占領。
首都では悲鳴が上がる。
「負けている!」
「王国軍は何をしている!」
「敵を止めろ!」
しかしアルベルトは冷静だった。
兵站本部で数字を見ていた。
毎日の輸送量。
備蓄量。
敵軍の進軍速度。
すべて記録している。
「そろそろだな」
彼は呟いた。
さらに二週間。
敵軍の進撃が急に鈍る。
三週間後。
完全に停止した。
報告書が届く。
「敵軍の食料不足を確認」
アルベルトは頷く。
予想通りだった。
敵軍司令部。
将軍たちは激怒していた。
「食料が来ない!」
「輸送隊が襲われた!」
「橋が落とされている!」
「倉庫が燃えた!」
補給担当官が青ざめている。
「備蓄はあと十日分です!」
会議室が凍り付いた。
一方。
王国軍の倉庫には穀物が山積みだった。
整備された街道。
河川輸送。
地方備蓄。
アルベルトが何年もかけて作った仕組みである。
将軍たちは感心していた。
「本当に足りている」
「むしろ余裕がある」
「どうなっているんだ」
アルベルトは帳簿を閉じる。
「戦争は突然始まる」
「だから平時に準備する」
それだけだった。
そして冬。
ついに敵軍で飢餓が始まる。
脱走兵が増える。
馬が死ぬ。
病気が広がる。
兵士同士の略奪まで起き始めた。
もはや軍隊として機能していなかった。
国王は軍議で笑った。
「どうする?」
将軍たちが立ち上がる。
今度は全員の意見が一致していた。
「攻撃です」
「総攻撃です」
「今なら勝てます」
アルベルトも頷いた。
「はい」
「今です」
こうして王国軍は反撃を開始する。
飢えた八万と、
食料が十分な九万。
勝敗は最初から決まっていた。
敵軍は崩壊した。
歴史に残る大敗北だった。
戦後。
王都では祝賀会が開かれた。
将軍たちは英雄として称えられる。
騎士たちは武勇伝を語る。
その片隅でアルベルトは料理を食べていた。
ようやく仕事が終わったのである。
すると国王が酒杯を持ってやって来た。
「主役が隅にいるな」
「主役は将軍たちでしょう」
「違う」
国王は笑う。
「お前だ」
「私は戦ってません」
「戦った」
国王は酒を飲む。
「剣ではなく帳簿でな」
その言葉に周囲の貴族たちが笑った。
だが誰も否定しなかった。
皆知っている。
今回の戦争を支えたのは英雄的な突撃ではない。
食料だった。
道路だった。
倉庫だった。
そして農地改革だった。
その夜。
アルベルトは王宮の庭園を歩いていた。
冬の空気は冷たい。
ふと後ろから声がした。
「兄上」
振り返る。
そこには長男レオンが立っていた。
数年ぶりの再会だった。
かつて自分を見下していた兄である。
レオンは苦笑した。
「まさかお前が国を救うとはな」
「俺も思わなかった」
「父上が喜んでいた」
アルベルトは少し驚いた。
厳格な父親の顔が浮かぶ。
「そうか」
「自慢の息子だそうだ」
しばらく沈黙が続く。
そしてレオンは言った。
「ところで」
「何だ?」
「次は何を改革する?」
アルベルトは空を見上げた。
実はもう気付いていた。
新しい問題が生まれている。
農業は成功した。
物流も整備した。
戦争にも勝った。
だが――
「鉄が足りない」
「鉄?」
「それと石炭もだ」
レオンが呆れた顔になる。
「お前は本当に休まないな」
アルベルトは苦笑した。
文明が発展すれば次の壁が現れる。
それを越えればまた次が現れる。
終わりはない。
だから面白い。
こうして王国は次の時代へ進もうとしていた。
農業革命の次。
それは――
産業革命の始まりだった。




