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3-1 優しい姉

オルスティン帝国、王太子執務室にノック音が響いた。

いつものように、側近が用件を伝えるか、書類が持ち込まれ積み上がる。

だからこそ、

「殿下、ヴァイセンベルク公爵がお見えです」

その報告を聞いた瞬間、王太子は深いため息を吐き

手元の書類を無造作に机へ置いた。


「……きたか。むしろよく3日も来なかったよな」


王太子は苦笑混じりに肩をすくめた。


「さようでございますね。

この後のご予定が空いていることも、

すでにご承知のようでございますので、

タイミングですかね?」


「ああ、俺の予定など、姉上には筒抜けだろうからな。

通せ、それから……姉上の好みの茶葉を使え、

少しでも機嫌を損ねたくない」


側近が一礼した直後に、侍女を引き連れ現れたのは、

ヴァイセンベルク公爵アリアドネ。

王位継承権第2位を持つ皇女であり、私の姉。


優雅に入室した彼女は、

側近たちが期待していたであろう丁寧な挨拶も

王太子への敬意も、全てを無視し


「まったく、愚かな男系が未来の王とは。

この帝国の行く末も知れたものね」


室内の空気が凍った。

王太子は慌てて手を上げた。


「全員、退出せよ……直ちにだ!」


側近と護衛たちは、逃げるように一礼すると部屋を出ていく。

扉が閉じるまで、アリアドネはただ黙っていたが、


「行動も判断力も全て遅い……愚弟が」


王太子は、すでに何も言い返せなかった。

アリアドネは悪びれる様子もなく、ソファに腰を下ろし

王太子もまた、抵抗せず対面へ座った。


アリアドネが侍女に一瞥を向けると

侍女はすぐさま音もなく茶の準備をし

ティーカップと一緒に書類を置いた。


アリアドネは、優雅に紅茶を口にする。


「……あね、ゴホン。……いくら姉上とはいえ、

ここが執務室である以上、少しは礼節というものをお願いしたい。

俺も帝国の次代を担う王太子だ……周囲の」


精一杯の、王太子としての言葉を、

アリアドネは冷めた目で遮った。


「立てる王なら、立てますがね」

「……」


しばらくすると、扇子が開閉する音だけが響く。


パチ。


パチ。


パチン。


(来るか)

王太子は息を飲んだ。


「その書類が何か、分かっていますよね?」


王太子は理解していたが、視線を逸らし沈黙した。

その態度を見て、アリアドネは小さく笑った。


「返事一つできず、都合が悪いと黙る王とは、

立派な王ですね。愚弟よ」


その言葉には、蔑みだけではない。

深い苛立ちが混じっていた。


パンッ!


硬質な音が執務室に響く。


「我が夫を疑い、真偽玉まで使った結果、全て青、偽り無し。

お前は、この茶番を何度繰り返せば気が済むのかしら?」


「……姉上。しかし、今回の件は……

クラスの護衛たちが、あまりにも不自然だと……」


「あの無能共の戯言ですか」


「確か、同じだったのは、名前と目の形だけでしたね?」


「姉上もご存じの通り、目は変えられない。

だからこそ変化形の術では目の形は判断材料になる」


「見当違いな疑心暗鬼で、お前の『賢明な』判断が、

どれだけ我が夫を傷つけてることか」


(あの男が傷つくわけがないだろう!)


「……あの男が」


「あの男?」


微笑みが消えた。

王太子は拳を握り込み、言い直す。


「ドラガン殿が……」


「その……これほどの力を持ちながら、

何も望まないなど……その……

帝国の富を動かし、臣下からも民からも支持され……

しかし王座を望まない人間など、いるはずがない!」


アリアドネは、カップを音も立てずに置き


「……はぁ、あなた、未だに分かっていないのね」


「何が、だ……姉上」


「一つ聞くわ、

もし我が夫が王を望むのなら、あなたどうするの?」


(わ、私は由緒正しき王太子だ!

どうするも何も

私がこの帝国を導くのだ!

しかも、私の頭には軸がある。

そう!私には軸がある!

父の、いや神の決定には逆らえない!!

姉上でさえも、それが摂理だ!)


「じ……」

軸、と口にしかけた、その瞬間。


「……ふふ」


アリアドネが、小さく笑った。


「……ふふ、ふふふ……あははは」


楽しげで、可憐ですらある笑い声。


「なぜ利益をもたらす有能な人間を、排除したいの?

味方として抱き込もうとしないのかしら」


「……」


「答えは怖いからでしょう?

あなたが本当に怖いのは……『私』でしょう?」


その言葉と同時に、王太子の脳裏へ、

幾度となく耳にしてきた囁きが蘇る。

「王太子殿下より、アリアドネ様の方が帝国を理解している」

臣下たちの声が、現実とも記憶ともつかぬ曖昧さで胸を抉った。


「簡単な話よ?

旦那様が王座を望むと、一言漏らしただけで

お前は、すでに存在していないわ。

私が、お前を墓場へ送っているからよ」


「……なっ……姉上」


アリアドネは何も答えない。

ただ静かに王太子を見つめる。

その沈黙に耐えきれず、王太子の喉が小さく鳴った。


「……姉、上、……」


するとアリアドネは、ゆっくりと立ち上がる。

そして王太子の隣へ回り込んだ。


トン


扇子の先端が、王太子の胸元に触れる。


「いつから勘違いしているの?

私、まだ継承権持っているのよ……軸があろうが……

あらやだ、そんなに怖がらないで冗談よ~」


クスクスと少女のように笑う。


「……姉、上」


呼吸が浅くなる。


「もう、髪が乱れているわよ、本当、困った子ね」


優しく、弟の髪を撫でる。


「我が夫はね、あなたのように王位に縋るだけの器ではないのよ。

遥かに高潔で、遥かに賢く、素晴らしい方よ」


髪を整え、その手は頬へと添えられる。

愛おしい人を語るような穏やかな声だけが、静かな執務室へ流れる。

王太子は呼吸も浅く、身体を強張らせたまま、一言も返せない。

やがて、衣擦れの音が静寂を破った。


(終わった……)


王太子の胸から、安堵の息がわずかに漏れる。

アリアドネはそのまま扉へ向かい、静かに歩き出す。


「ああ、そうそう、最後に一つだけ」


その声に、

ドクン――

心臓が大きく脈打ち、王太子の背筋が反射的に伸びた。

アリアドネは扉の前で立ち止まる。


「私の影も、愛しの旦那様の足取りを全て追い終えたわ」

「裏で何かしているのではないか」

「誰かと繋がっているのではないか」

「王座を狙う準備をしているのではないか」


弟が抱いていた疑念を、一つずつ正確になぞっていく。


「だから調べたのよ。周りに突きつける為にも」


アリアドネは扉の取っ手に手をかける。


「結果は――

何もなし。変化術系も、断絶術系も残滓すら存在しなかったわ」


一度だけ肩越しに振り返る。


「青は、どこまでいっても青。

これ以上、物覚えが悪い弟は、

軸持ちでも――事故は、平等に訪れるものよ」


王太子は、青ざめたまま言葉を失った。


「いつものように、ちゃんと夕食は食べるのよ」


重い扉が静かに閉まる。


執務室は明るいはずなのに、

王太子には真っ暗だった。


「――――っ!!」


獣じみた叫びが執務室を震わせ、

机を蹴り飛ばす。

高級な調度品が床へ叩きつけられ、砕け散った。


「なんだ!!……何が!!」


壁を殴る。恐怖を痛みでごまかすように

拳から血が滲んでも止まらない。


「何故だ!!なぜこうなる!!」

「私は王太子だぞ!!帝国は私のものだ!

どいつもこいつも!!全部!!」


恐怖。

嫉妬。

尊厳。


王太子は、机を蹴り、書類を握り潰し、

涙と嗚咽で声が掠れる。

勢いのまま王太子印へ手を伸ばす。


投げつけようとしたが、

その印を凝視し、握り締めたまま、


「父上が選んだのは……私だ

私は……王なのだ……」


ズルズルと壁にもたれながら力なく崩れ落ちた。


廊下は静寂が続いていた。

アリアドネが、あらかじめ侍女に退出する際には

防音術を発動させるよう伝えていた。


「弟が人前で醜態を晒すなんて、可哀想だもの、

私が少し配慮してあげただけ」


ふふ、私ってなんて優しい姉なのかしら。


廊下を進むアリアドネの前から、

一人の女性が数人の侍女と歩いてくる。

王太子妃だった。


「あら、ごきげんよう」


「……アリアドネ様?」


王太子妃は足を止め、礼をとる。


後ろのワゴンには、明らかに軽食。

身体への負担が少ない食べ物が乗っていた。


「弟の所かしら?」


「はい。殿下へ昼食をお持ちしようと……」


アリアドネは、その言葉を聞くと柔らかく微笑んだ。


「まあ、優しいのね。弟も喜ぶわ、

ただ……今は、あの部屋へ入るのはやめておきなさい」


「ですが……最近、殿下がお元気なく」


「大丈夫よ。弟は今、自分を責めている頃よ。

あの子は昔から、一人で抱え込む癖があるもの」


アリアドネは優しく告げる。


「もちろん、貴女が支えてあげてね。

夜の方がタイミング的にいいと思うわ。

そうだわ。貴女にも、今の帝国について少し教えてあげる」


アリアドネは、何事もなくティーサロンへ向かって歩く。

公爵であり皇女でもある彼女に逆らえるはずもなく、

王太子妃は、困惑したまま付いていくしかない。


談笑しつつ彼女の中では、


「愛する旦那様を守り、物わかりの悪い弟に教えてあげた」


王太子妃にそのことをどうやって伝えようか、それだけだった。

3章突入しました!

ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

反応を頂けると、作者が大変喜びます(笑)

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