調律師への驚愕と、変化する「鉄の音」
白妙が放っていた氷の熱が、アリスの柔らかな音色に触れて霧消していく。
庭の芝生は白く凍りついたままだが、張り詰めていた殺気だけが、奇妙なほど穏やかな静寂へと置き換えられていた。
「サクヤ。蓮真くんの周りには、こんなに豊かな『想い』が溢れているのですね」
アリスがそっと、蓮真の足元で今にも泣きそうな顔をしている雫(人魚)や、屋根の上で耳をぴくつかせている小鞠(猫娘)へと視線を巡らせる。彼女の瞳には、異形の者たちが抱く執着や独占欲さえも、蓮真という太陽に惹かれる惑星たちの「純粋な引力」として映っていた。
「想い、ね。……こいつらにとっちゃ、生存本能に近いだろうよ」
朔夜は縁側に腰を下ろすと、無意識にポケットからマルチツールを取り出し、その金属の質感を指先で確かめ始めた。荒れた空気を鎮める際、硬質なものに触れて自身の輪律を整えるのは彼の癖だったが、ふと隣に立つアリスの穏やかな眼差しに気づき、小さく苦笑してツールを仕舞い込んだ。
金属に頼らなくとも、今の彼には隣に並ぶ「音」がある。その何気ない変化を、屋根の庇から身を乗り出した小鞠が、金色の瞳を細めて見つめていた。
「……信じられないわ」
小鞠が屋根からひらりと飛び降り、蓮真の背後に回り込みながら朔夜を睨みつけた。
「以前の貴方の纏う空気は、錆びた刃そのものだった。近づくものすべてを拒絶し、切り刻むためだけの、不快な鉄屑の気配……。幼い頃から見てきたけれど、貴方の周りにはいつも、誰の立ち入りも許さない棘が逆立っていたのに」
小鞠は、朔夜がまだ「鉄屑」に魂を委ね始めたばかりの少年時代から、彼を知っている。土御門の宿命に抗い、孤独の中で牙を剥き続けていたあの頃。彼女たち妖怪にとって、朔夜は蓮真の安らぎを脅かす「毒」そのものであり、文字通り蛇蝎のごとく忌み嫌ってきた対象だった。
「……それがどうして、その異邦の娘が隣にいるだけで、これほどまで……深く、静かな響きになるの?」
白妙もまた、小鞠の言葉に合わせるように白銀の尾を揺らし、測りかねるような視線を朔夜へ向ける。
「……ロンドンで、少しばかり耳のいい調律師に捕まっただけだ」
朔夜がぶっきらぼうに答えると、アリスが嬉しそうに彼の腕を抱き寄せた。その瞬間、朔夜から発せられる霊的な波動が、目に見えて円やかに、重厚な安定感を持って変化する。
「なっ……!?」
雫が水路から身を乗り出した。彼女たちの鋭敏な感覚が、驚愕の事実を告げていた。
かつて、自分たちを「排除すべき害悪」としてのみ定義していた朔夜の存在感が、今はアリスという触媒を通じて、自分たちをも「蓮真の庭の一部」として許容する、広大な器へと変質している。
「サクヤは、もう独りで鳴らしているわけではないのです」
アリスが、妖怪たちに向かって宣言するように告げた。
「彼は自分の痛みを、鉄の音に変えて誰かを守る力にしました。……あなたたちが愛する蓮真くんを、サクヤもまた、別のやり方で愛している。その音が、今、私には一つに聴こえています」
アリスの言葉は、調律師としての魔力を持って、妖怪たちの心の奥底に直接響いた。
「……癪だわ。本当に、癪だわ……!」
白妙が顔を背け、小鞠もまた、複雑そうな表情で蓮真の裾を掴んだ。
彼女たちは認めざるを得なかった。かつて憎しみ、恐れていた「鉄屑の兄」が、異国の地で自分たちの到底及ばないほど深く、強靭な和音を手に入れて帰ってきたことを。
「……兄さん、かっこいい。……アリスさんも」
蓮真が、ようやく顔を輝かせて呟いた。その少年の純粋な言葉が、庭を支配していた緊張の最後の一片を、温かな夕立のような和音へと変えていく。
「……フン。湿っぽい話は終わりだ。蓮真、ドライブに行きたいんだろ? 準備しろ。……おい、お前らもだ。蓮真の隣にいたいなら、俺の『四輪』のルールに従えよ」
「嫌われ者の兄」からの、不器用で、けれど明確な歩み寄り。
土御門の庭に、かつてないほど騒がしく、それでいて誰一人として欠けてはならない新しい合奏が、本格的に始まろうとしていた。




