陽炎の修羅場、あるいは愛され少年の受難
早朝。庭に停めたアイランドブルーのミニ・クーパーは、日本の苛烈な朝陽を撥ね返し、静かにその輪郭を主張していた。
朔夜は、アビゲイルが手配した職人の仕事ぶりを確認するように、フロントグリルからフェンダーへと指を滑らせる。四輪の機構には深く踏み込まないが、この鉄の塊がアリスたちを守る「盾」である以上、その平滑な手触り一つにも神経を配るのが、今の彼の矜持だった。
だが、その静謐なルーティンは、屋敷の奥から噴き出した「異様な圧力」によって蹂躙された。
――ガガッ、と空間が軋むような音。
肌を刺す冷気と、水飛沫の匂い。そして、獣の情念が混じり合った、濃厚な殺気。
「……また始まったか。ロンドンよりよっぽど治安が悪ぃな」
朔夜は溜息混じりに呟くと、縁側へ向かって地を蹴った。
そこには、昨晩の穏やかな再会が嘘のような、混沌とした「戦場」が広がっていた。
中心にいるのは、腰を抜かしかけている弟・蓮真だ。その周囲を、この世のものとは思えない美貌と異形の気配を纏った「彼女たち」が囲んでいる。
「どきなさい、この泥魚。蓮真様の隣は、このわたくし、白妙の指定席。千年早いと言っているのが分からないのかしら?」
白銀の尾を扇のように広げ、冷徹な美貌を歪ませたのは大妖狐・白妙だ。彼女の足元から、真夏の芝生が白く凍てついていく。対峙するのは、庭の水路から半身を乗り出し、真珠のような鱗を怒りに逆立てた人魚の雫。
「黙れ、狐。貴女は山に引き籠もっていればいいのです。蓮真様の渇いた心を潤せるのは、猪名川の清流を知るこの雫だけ!」
さらに、屋根の庇からは、猫娘の小鞠が鋭い爪を光らせて飛びかからんばかりの勢いで睨みをきかせている。
「うるさいわね二人とも! 蓮真様に一番懐かれているのは、毎日膝の上に乗っているこの私なんだから!」
冷気、水飛沫、そして影の刃。
蓮真という「特等席」を巡り、格上の妖たちが一切の容赦なく霊力をぶつけ合っている。その余波だけで普通の人間なら精神を病むレベルだが、蓮真だけは、その中心で「どうしよう、みんな喧嘩しないで……」と、周囲の毒気を無力化するような柔らかな音を放ち続けていた。
「おい。朝っぱらから、庭を壊すのはそのくらいにしろ」
低く、地を這うような朔夜の声が響いた。
妖怪たちは一斉に動きを止め、不愉快そうに視線を向ける。
「……フン、帰ってきたのね。鉄の匂いを撒き散らす、無粋な男が」
白妙が、軽蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。
「相変わらず、耳を塞ぎたくなるような鋭い音。蓮真様のような清らかな魂に、貴方の存在は不釣り合いだといつになったら理解するのかしら?」
かつての朔夜なら、この挑発に「滅」の術式で応じていただろう。かつての彼は、妖怪にとって「慈悲なき鉄屑の守護者」であり、彼女らもまた、蓮真を独占したいがために朔夜を蛇蝎のごとく嫌っていた。
だが、今の朔夜はただ、鼻で笑っただけだった。
その隣に、黄金の髪をなびかせたアリスが、ゆっくりと歩み寄る。
「……サクヤ。この方たちは、蓮真くんのことが本当に、本当に大切なのですね。……でも、その音は少し尖りすぎています」
アリスが、喧嘩の仲裁に入る幼子のような無垢さで、白妙たちの前に出た。
「……なっ、何なのよ、この娘は。人間……なの?」
白妙の瞳に、困惑が走る。
目の前の異邦の美女から溢れ出すのは、土御門の術者たちが持つ「排他的な力」ではない。すべてを聴き、受け入れ、正しい位置へと戻そうとする、透徹した「調律」の波動。
そして、その美女の肩に、朔夜が当然のように手を置いた。
その瞬間、朔夜から発せられていた「刺すような音」が、アリスの波動と混ざり合い、重厚で安定した「結界」の音へと変質した。
「俺の音に文句があるなら、勝手にしろ。だが、こいつ――俺の調律師を不機嫌にさせるなら、話は別だぞ」
朔夜の冷徹な、だが不思議と落ち着いた宣言。
妖怪たちは、顔を見合わせた。
かつての朔夜なら、自分たちを「排除すべき害悪」として見ていた。しかし今の彼は、アリスという存在を介して、自分たちを「蓮真に関わる要素の一部」として冷淡に、だが対等に扱っている。
「……少し、変わったのかしら。……いいえ、癪だわ」
白妙は尾を収めたが、その視線は、朔夜の隣で微笑むアリス、そして以前より深みを増した「兄の背中」を、測りかねるように見つめ続けていた。
真夏の庭。
蓮真を巡る愛の狂騒曲に、ロンドンで鍛えられた新しい和音が、静かに、だが力強く介入し始めていた。




