白日の記憶、向日葵の葬奏曲(レクイエム)
翌日の正午、陽光は一切の容赦なく、地上にあるすべての影を真下に縫い付けていた。
アイランドブルーのミニ・クーパーを、住宅街の片隅にある小さな公園の前に停める。ロンドンの霧に濡れた石畳とは対極にある、白く乾いたコンクリートの照り返し。エンジンを切り、車内の冷気が急速に失われていく静寂の中で、朔夜はしばらくの間、ハンドルを握ったまま動かなかった。
「……サクヤ?」
助手席のアリスが、気遣わしげに声をかける。
朔夜は無言でドアを開け、熱波の渦巻く外へと踏み出した。
そこは、どこにでもある平凡な公園だ。錆びたブランコ、色の剥げた滑り台。そして、園内を縁取るように植えられた、立派な枝ぶりの桜の木々。
今は濃い緑の葉を繁らせ、生命力に溢れた蝉時雨を響かせているが、朔夜の網膜には、別の情景が呼び覚まされている。
数年前の、日本の春。
この場所は、逃げ場のないほど残酷な薄紅色の海だった。
自分を唯一受け入れてくれると信じた女性。土御門の「呪」からも、長老たちの期待からも、そして無力な父からも逃れ、ただ一人の男として自分を見てくれると盲信していた相手。
あの日、彼女は自分ではない男の隣で、この世の誰よりも幸福そうに微笑んでいた。その背景に咲き乱れていた桜の花びらが、まるで自分の魂の欠片が散っていくかのように見えたことを、昨日のことのように思い出せる。
「……ここだった。俺が、日本を捨てたのは」
朔夜の声は、熱気に溶けてしまいそうなほど低く、掠れていた。
「あの日、俺は確信したんだ。俺には、帰る場所も、受け入れてくれる器も、この国にはどこにもない。俺の鳴らす『音』は、誰にも届かない不協和音でしかないんだとな」
朔夜の視線の先には、一本の大きな桜の木がある。かつて「彼女」が立っていた、その場所。
アリスは、朔夜の隣に立ち、その枯れ果てたような音の正体を見つめていた。彼女の耳には、今の朔夜の鳴らす、かつてないほど激しく、けれど悲痛な「断絶の音」が聴こえていた。
「サクヤ。……いいえ、朔夜。私を見て」
アリスが、朔夜の震える拳を両手で包み込んだ。
その感触は、あの日浴びた花吹雪よりもずっと重く、そして確かな生命の拍動を伴っていた。
「あの日、あなたが聴いたのは『終わり』の音ではありません。それは、あなたが真実の音を探し出すための、長い旅の始まりの音だったんです」
アリスは一歩、朔夜との距離を詰め、その胸に顔を寄せた。
彼女の存在そのものが、朔夜の周囲に張り巡らされていた過去の結界を、音もなく切り裂いていく。
「見てください。今のこの公園には、あなたを拒絶した薄紅色の花なんて、どこにもありません。あるのは、すべてを肯定し、焼き尽くすような力強い太陽と、私たちが一緒に歩んできた時間の音だけです」
アリスが顔を上げると、その瞳は、真夏の陽光を撥ね返すほどに澄み渡っていた。
彼女は、あの日朔夜が差し出せなかった、そして受け取ってもらえなかった「想い」のすべてを、今ここで上書きするように微笑んだ。
「……私は、あなたの音が大好きです。鋭くて、怖がりで、けれど本当は、誰よりも温かい……。私は、あなたの調律師。そして、あなたのパートナー。あの日、あなたが失くしたものは、私が全部、別の音で満たしてあげます」
蝉の声が、一瞬だけ止まったかのような錯覚。
朔夜の視界を支配していた「春の幻影」が、アリスの言葉という白日の光に晒され、砂のように崩れ去っていく。
かつて彼を凍りつかせた薄紅色の記憶は、今、隣で微笑む女性の熱によって、ただの「過去」へと昇華された。
朔夜は、アリスの肩を強く抱き寄せた。その腕の中には、もはや脆く崩れるような絶望はない。
「……全くだ。お前には、敵わないな」
朔夜の口から漏れたのは、自嘲ではなく、深い安堵と、未来への降伏だった。
公園の片隅、強い陽光を浴びて咲く一輪の向日葵が、新しい曲の始まりを告げるように、空に向かって真っ直ぐに背を伸ばしていた。
彼はもう、春を恐れる必要はない。
彼には、いかなる酷暑の中でも、いかなる嵐の中でも、決して狂うことのない最高の調律師がいるのだから。




