夜の静寂、そして「約束」の反響
蓮真とエレーナが、縁側で花火の残骸を片付けながら騒いでいる声を遠くに聞きながら、朔夜とアリスは屋敷の裏手に広がる古い渡り廊下に並んで座っていた。
庭の奥にある池では、時折、大きな鯉が跳ねる水音が響く。それは、ロンドンの喧騒では決して聴くことのできない、日本の夜の「静寂」の一部だった。
「……疲れさせてしまったでしょうか。ご家族との時間は、あなたにとって、まだ少し重い響きが混じっていますか?」
アリスが、浴衣の裾を揃えながら隣でそっと尋ねた。彼女の瞳には、朔夜の心の奥底に沈殿している「かつての記憶」が、月の光に照らされるように映っている。
「……いや。昔の俺なら、ここに五分もいれば規律に窒息していたはずだ。だが……今のこの屋敷の音は、思っていたよりもずっと……柔らかい」
朔夜は視線を庭に向けたまま答えた。
かつて彼を追い詰めたのは、父の厳格さなどではなかった。むしろその逆だ。土御門の長老たちの言いなりになり、自らの意志を通す強さを持てなかった父・風雅の「沈黙」と、それによって加速した一族の歪な期待。それが若き日の朔夜には、何よりも重い「呪」としてのしかかっていた。
しかし、先ほど見た父の背中は、記憶の中よりも小さく、そしてどこか晴れやかだった。長老たちの顔色を伺う必要のない「今の朔夜」と向き合ったことで、父もまた、自分を縛っていたものから少しずつ解放されているのかもしれなかった。
「サクヤ。明日は……あの場所へ行くのでしょう?」
アリスの問いに、朔夜の眉間がわずかに動いた。
あの日、春の絶望を刻み込まれた、薄紅色の花が咲き乱れていた公園。
自分を唯一受け入れてくれると信じた女性に拒絶され、日本を捨てる決定打となった場所。今回、日本へ帰る決意をした時から、避けては通れない場所だと分かっていた。いや、避けるどころか克服し、終止符を打たないといけない場所であった。
「ああ。……一人で行くつもりだったが、お前がついてくるって言うなら、止めても無駄なんだろうな」
「もちろんです。私はあなたの調律師ですから。あなたの音が、一番深く傷ついた場所で、どう鳴り響くのか……それを見届ける責任があります」
アリスが微笑む。その笑顔は、かつて朔夜を拒絶した「彼女」の微笑みとは対極にあるものだ。
見返りを求める愛でも、属性に惹かれる執着でもない。ただ、朔夜という魂そのものを肯定し、共に歩もうとする強固な意志。
「……サクヤ。……大好きです」
不意に落とされた直球の言葉。
アリスがそっと、朔夜の大きな手に自分の手を重ねる。
その熱は、真夏の夜の湿った空気よりもずっと強く、朔夜の全身を巡っていった。
「……分かってる。……俺もだ」
朔夜は、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
明日、あの公園へ行く。
かつての絶望の象徴であった「春」は、もうそこにはない。
代わりに、すべてを焼き尽くすような夏の陽光と、自分を心から愛するパートナーが隣にいる。
不協和音の終止符を打ち、新しい曲を始める準備は、整っていた。




