縁側の月、そして「兄さん」の奪い合い
賑やかな晩餐が一段落し、屋敷に夜の帳が下りる頃。
三階建てのロンドンの自宅とは違い、平屋の日本家屋を吹き抜ける夜風には、どこか懐かしい草木の香りが混じっていた。庭の隅では、蓮真が用意した蚊取り線香の煙が、紫の糸のように揺れている。
「――ねえ、エレーナちゃん。兄さんはロンドンでも、あんなに不愛想なの?」
縁側に座り、夜の庭を眺めていたエレーナに、蓮真がひょいと隣に座って問いかけた。月光に照らされた蓮真の横顔は、まるで精巧なガラス細工のように儚く、それでいて兄への隠しきれない独占欲がその瞳に宿っている。
「不愛想どころじゃないよ。朝は機嫌が悪いし、バイクのことになると人の話聞かないし。でもね――」
エレーナはわらび餅の最後の一口を頬張りながら、ニヤリと笑った。
「サクヤが本当の意味で『お手上げ』になるのは、アリスお姉様の前だけ。あれは一見の価値ありだよ、蓮真くん」
「……へぇ、やっぱりそうなんだ」
蓮真は膝を抱え、少しだけ寂しそうに視線を落とした。繊細な彼は、兄が自分たちの手の届かない、ずっと遠い場所で「自分の居場所」を見つけてしまったことを、その音色から敏感に感じ取っていた。
その頃、朔夜は少し離れた場所で、父・風雅と二人、冷えた麦茶を間に挟んで向かい合っていた。
「……朔夜。あのミニという車、お前が選んだのか」
「ああ。ロンドンで手に入れた。四輪の構造は専門外だからな。局の伝手で、腕のいい整備士に徹底的に手入れをさせたんだ。俺が余計な口を出す必要がないくらい、今は完璧な音を鳴らしている。……今は、あいつが俺たちの『家』みたいなもんだ」
朔夜は、庭に停めた青い車体に視線をやる。自ら工具を握る二輪とは違い、信頼できるプロに任せ、アリスとエレーナを安全に運ぶための「聖域」として完成させた車。そこには、かつての孤独な「鉄屑の使い手」とは違う、周囲のリソースを活用し、役割を分担するようになった朔夜の変化が現れていた。
「そうか……。お前が、自らの意思で鋼鉄の塊を操り、人を守り、そしてこうして誰かを連れて帰ってくるとは……。あの日の私は、お前に呪を強いることしか知らなかった」
風雅の絞り出すような声に、朔夜は小さく鼻で笑った。
「親父。……過去を精算しに来たわけじゃない。俺はただ、俺の選んだ道が間違っていなかったことを、あんたたちに見せたかっただけだ。……鉄屑を相棒に選んだ、あの日の決断を含めてな」
「……ああ。……見事な音だ。お前の連れてきた彼女――アリスさんの瞳を見れば分かる。彼女は、お前の魂を誰よりも深く愛している」
不意に、庭の向こうから「サクヤー!」と、鈴を転がすようなアリスの声が響いた。
浴衣に着替えたアリスが、慣れない下駄に足を取られそうになりながら、暗がりの廊下から姿を現す。百合が貸し出したのであろう、薄藍色の浴衣を纏った彼女は、月明かりの下で正気を失わせるほどに美しかった。
「見てください、サクヤ。お母様に、こんなに素敵な服を貸していただきました」
「……ああ。……似合ってる」
短く答える朔夜の耳たぶが、微かに赤い。
それを見逃さない蓮真が、「兄さん、顔赤いよ!」とはやし立て、エレーナが「今のうちにシャッターチャンス!」とデジカメを構える。
かつての土御門の屋敷なら、大声で笑うことさえ禁じられていたはずの夜。
しかし今、この場所を支配しているのは、重苦しい「呪」の沈黙ではなく、大切な誰かを想う人々の、不器用で温かな音の重なりだった。




