関空の熱風と、青い外車
関西国際空港の自動ドアが開いた瞬間、暴力的なまでの熱気と湿気が三人を出迎えた。ロンドンの乾いた夏とは根本的に異なる、肌にねっとりとまとわりつくような日本の夏。それは、しばらく忘れていた「故郷」の感触そのものだった。
「うわぁ……何これ、お風呂の中にいるみたい! 息を吸うだけでお水が飲めそうだよ……!」
エレーナが顔を真っ赤にして、手元のハンディファンを最大出力にする。アリスもまた、額に滲む汗を繊細な刺繍のハンカチで押さえながら、圧倒されたように周囲を見渡した。
「……すごい。生命の音が、重たく、密度を持って響いています。ロンドンの霧が『静寂の幕』だとしたら、これはすべての音が熱に溶けて、地響きのように押し寄せてくる音……」
アリスがそう漏らす通り、空港の外では蝉時雨が唸るように降り注ぎ、アスファルトからは逃げ場のない陽炎が立ち上がっている。
朔夜は、別便で船積みしていたアイランドブルーのミニ・クーパーを受け取るため、貨物エリアの保税倉庫へと向かった。
今回の帰国に、ハヤブサは連れてこなかった。あいつはロンドンのガレージで、信頼できるアビゲイルに厳重な管理を頼んである。
本来なら、一刻も早く慣れ親しんだ二輪で風を切り、日本の「呪」が混じった大気を引き裂きたいところだ。だが、今の朔夜には守るべき二人がいる。この酷暑の中、慣れない日本の道路で二人を放り出すような真似は、今の彼の「規律」が許さなかった。
「……待たせた。行くぞ。一時帰国の間は、こいつが俺たちの足だ」
巨大な倉庫から姿を現したのは、ロンドンの石畳によく映えていた、あの青いミニだった。
朔夜がエンジンをかけ、エアコンを全開にする。使い慣れた機械の駆動音と共に冷気が車内を満たすと、エレーナが「天国!」と叫んで後部座席に沈み込んだ。
「サクヤ。……あなたの横顔が、日本に来てから少しだけ厳しくなっているのを感じます。でも、今のあなたには私たちがついているって、忘れないでくださいね」
助手席に座るアリスが、そっと朔夜の腕に手を添える。
ミニの狭い車内は、外の猛暑から切り離された三人の、ロンドンからそのまま持ってきた「聖域」だった。
朔夜はハンドルを握り直し、日本の複雑な道路へと滑り出した。
(春の桜は、もうどこにもないな……)
視界の端を通り過ぎる並木道。かつて絶望と共に眺めた薄紅色の幻影を、彼は意識的に、冷房の効いた車内から追い出した。今は、すべてを白日の下に晒すような、あまりに強烈な陽光と、隣に座るアリスの柔らかな呼吸音だけが、彼の現実を構成している。
「……行くぞ。実家まではここから少し距離があるが、車内なら少しはマシだろう」
関空連絡橋を渡り、海を越え、車は朔夜のルーツである「土御門」の屋敷へと向かう。
かつてすべてを背負い、そしてすべてを捨てて飛び出した故郷。その入り口は、もう目の前まで迫っていた。




