チケットとティータイム ―異国への招待状―
リージェンツ運河のガレージには、ロンドンの長く明るい夏の陽光が差し込んでいた。
作業灯を消しても十分に明るいその場所で、朔夜は「ハヤブサ」の真鍮ユニットを磨き上げていた。正式に恋人となってからの数日間、二人の間には、以前よりも深い信頼と、それでいてどこか照れくさいような温かな空気が流れている。
カチ、カチ、というラチェットレンチの音が、コンクリートの壁に心地よく反響していた。
その静寂を破ったのは、二階から響くエレーナの弾んだ足音だった。
「サクヤ! 見て、これ! 日本の『夏祭り』の特集記事! 浴衣っていうのを着て、屋台でリンゴ飴を食べるんだって!」
エレーナがタブレットを片手に、朔夜の背中に飛びつくような勢いで駆け寄ってくる。その後ろから、苦笑しながらも瞳を期待に輝かせたアリスが続いていた。アリスが淹れたばかりの紅茶の香りが、オイルの匂いに混じってガレージに広がっていく。
「サクヤ。……私、ずっと考えていたんです。あなたの言葉や、あなたの術式……そのルーツにある場所を、一度この目で見てみたいって。あなたがどんな風を浴びて、どんな音を聴いて育ったのか……もっと知りたいんです」
アリスが真っ直ぐな瞳で朔夜を見つめる。
朔夜の手が、わずかに止まった。
「……日本か。あそこは、お前たちが思っているような煌びやかな場所じゃない。夏は湿気が多くて、立っているだけで体力が削られる。怪異だって、ロンドンの連中よりずっと執念深いぞ」
ぶっきらぼうに断ろうとするが、朔夜の脳裏には、どうしても消し去れない負の記憶がよぎっていた。
自分を拒絶した、あの忌まわしい故郷。そして、そんな折に薄紅色の花が残酷なほど美しく咲き乱れる情景。そんな日本という国を、朔夜は自分自身の歴史から無理やり切り離して生きてきたのだ。アリスというかけがえのない恋人を得た今、日本に戻るだけの価値があるとは思えなかった。
「分かっています。……でも、サクヤが今、ここでこんなに力強い音を鳴らしているのは、あそこで過ごした時間があったからでしょう? 嫌な思い出も、悲しい音も……私たちが、全部新しい和音で塗り替えてあげますから」
アリスがそっと、朔夜の汚れた手に自分の手を重ねる。その掌の熱が、長年凍りついていた朔夜の規律を、内側から静かに溶かしていく。
「それにサクヤ、お姉様だけじゃないよ! 私もサクヤの弟くんに会ってみたい! 蓮真くんって子、手紙だとすごく元気そうじゃない。きっとサクヤより面白いよ!」
エレーナが茶化すように笑い、棚の奥に溜まった未開封の手紙の束を指差した。中学生になったはずの弟、蓮真。そして、煤けた自分の頬を撫でて泣き崩れた母・百合と、自責に震えていた父・風雅の姿。
(……いつまでも、逃げているわけにはいかないか)
自分一人なら、二度とあの土を踏むことはなかっただろう。だが、今の自分の隣には、世界で最も信頼できる調律師と、騒がしくも明るい妹分がいる。一人で背負うには重すぎた過去も、三人でなら、ただの「記録」に変えられるかもしれない。
「……全くだ。……分かった、準備しろ。日本へ行くぞ。ただし、向こうの暑さでへばっても、俺は知らないからな」
朔夜の降伏宣言に、アリスとエレーナが顔を見合わせ、最高の笑顔を見せた。
それは、過去の絶望を焼き尽くすような、真夏の太陽への招待状だった。
朔夜は再びレンチを握り直す。今度の音は、先ほどよりもずっと澄んで、未来へ向けて力強く響いていた。




