表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第二十章:イースト・カンタータ ―再会の轍と向日葵の和音―
89/103

チケットとティータイム ―異国への招待状―

 リージェンツ運河のガレージには、ロンドンの長く明るい夏の陽光が差し込んでいた。

 作業灯を消しても十分に明るいその場所で、朔夜は「ハヤブサ」の真鍮ユニットを磨き上げていた。正式に恋人となってからの数日間、二人の間には、以前よりも深い信頼と、それでいてどこか照れくさいような温かな空気が流れている。

 カチ、カチ、というラチェットレンチの音が、コンクリートの壁に心地よく反響していた。

 その静寂を破ったのは、二階から響くエレーナの弾んだ足音だった。


「サクヤ! 見て、これ! 日本の『夏祭り』の特集記事! 浴衣っていうのを着て、屋台でリンゴ飴を食べるんだって!」

 エレーナがタブレットを片手に、朔夜の背中に飛びつくような勢いで駆け寄ってくる。その後ろから、苦笑しながらも瞳を期待に輝かせたアリスが続いていた。アリスが淹れたばかりの紅茶の香りが、オイルの匂いに混じってガレージに広がっていく。

「サクヤ。……私、ずっと考えていたんです。あなたの言葉や、あなたの術式……そのルーツにある場所を、一度この目で見てみたいって。あなたがどんな風を浴びて、どんな音を聴いて育ったのか……もっと知りたいんです」

 アリスが真っ直ぐな瞳で朔夜を見つめる。

 朔夜の手が、わずかに止まった。

「……日本か。あそこは、お前たちが思っているような煌びやかな場所じゃない。夏は湿気が多くて、立っているだけで体力が削られる。怪異だって、ロンドンの連中よりずっと執念深いぞ」

 ぶっきらぼうに断ろうとするが、朔夜の脳裏には、どうしても消し去れない負の記憶がよぎっていた。


 自分を拒絶した、あの忌まわしい故郷。そして、そんな折に薄紅色の花が残酷なほど美しく咲き乱れる情景。そんな日本という国を、朔夜は自分自身の歴史から無理やり切り離して生きてきたのだ。アリスというかけがえのない恋人を得た今、日本に戻るだけの価値があるとは思えなかった。


「分かっています。……でも、サクヤが今、ここでこんなに力強い音を鳴らしているのは、あそこで過ごした時間があったからでしょう? 嫌な思い出も、悲しい音も……私たちが、全部新しい和音で塗り替えてあげますから」

 アリスがそっと、朔夜の汚れた手に自分の手を重ねる。その掌の熱が、長年凍りついていた朔夜の規律を、内側から静かに溶かしていく。

「それにサクヤ、お姉様だけじゃないよ! 私もサクヤの弟くんに会ってみたい! 蓮真くんって子、手紙だとすごく元気そうじゃない。きっとサクヤより面白いよ!」

 エレーナが茶化すように笑い、棚の奥に溜まった未開封の手紙の束を指差した。中学生になったはずの弟、蓮真。そして、煤けた自分の頬を撫でて泣き崩れた母・百合と、自責に震えていた父・風雅の姿。


(……いつまでも、逃げているわけにはいかないか)

 自分一人なら、二度とあの土を踏むことはなかっただろう。だが、今の自分の隣には、世界で最も信頼できる調律師と、騒がしくも明るい妹分がいる。一人で背負うには重すぎた過去も、三人でなら、ただの「記録」に変えられるかもしれない。

「……全くだ。……分かった、準備しろ。日本へ行くぞ。ただし、向こうの暑さでへばっても、俺は知らないからな」

 朔夜の降伏宣言に、アリスとエレーナが顔を見合わせ、最高の笑顔を見せた。

 それは、過去の絶望を焼き尽くすような、真夏の太陽への招待状だった。

 

 朔夜は再びレンチを握り直す。今度の音は、先ほどよりもずっと澄んで、未来へ向けて力強く響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ