銀の誓い、ガレージの静寂の中で
ハイゲートの森を覆っていた禍々しい霧は晴れ、代わりに透き通った夕刻の光が差し込んでいた。
アイランドブルーのミニ・クーパーは、戦いの爪痕を残すことなく、穏やかな運河沿いの赤レンガ倉庫へと帰還した。
車を降りたエレーナは、「お腹空いた! 今日は絶対ピザがいい!」と、緊張感の欠片もない明るい声で階段を駆け上がっていく。その屈託のなさが、先ほどまでの死闘が現実であったことを、かえって色濃く浮き彫りにしていた。
ガレージには、再び二人きりの沈黙が訪れる。
作業灯の白い光の下、朔夜は黙ったまま、ミニのボンネットについた胞子の汚れをタオルで拭っていた。ハヤブサを整備する時の精密な動きとは違う、どこかぎこちなく、それでいて慈しむような手つき。
「……サクヤ」
背後からかけられた声に、朔夜の手が止まる。
アリスは、トレイも紅茶も持たず、ただ真っ直ぐに彼を見つめていた。その瞳には、怪異が見せた幻覚の残滓など微塵もなく、ただ一人の男への深い情熱だけが揺らめいている。
「さっき、戦っている時のあなたの音……私、一生忘れません」
「……不格好な音だったはずだ。ハヤブサもなしに、力任せに術式を叩き込んだだけだからな」
朔夜は背を向けたまま、自嘲気味に呟く。
だが、アリスは首を振った。彼女はゆっくりと歩み寄り、朔夜の背中に、あの戦いの最中と同じようにそっと額を預けた。
「いいえ。……世界中で、私にしか聴き取れない、最高に優しくて……独占欲の強い、愛おしい音でした」
その言葉に、朔夜の規律が音を立てて崩れ去った。
彼はタオルを置き、ゆっくりと振り向く。目の前にいるのは、自分の人生に「例外」として現れ、いつの間にか「規律」そのものになってしまった女性だ。
「アリス。……俺は、合理主義者だ。不確かなものに賭けるのは、本来俺の性分じゃない」
朔夜の手が、アリスの頬を包み込む。油汚れ一つないその掌は、今、ハヤブサのエンジンよりも熱く脈動していた。
「だが……お前がいない世界を想像するだけで、俺の計算はすべて狂う。お前が誰かの隣で笑う幻覚を見るくらいなら、この手で、地獄の果てまでお前を連れ回してやる。……そう決めた」
アリスの瞳から、一粒の涙が零れ落ちる。
朔夜はもう、言葉を濁さなかった。
「……俺の隣で、俺の調律を確認し続けろ。助手でも、仲間でもなく……俺の、たった一人の恋人としてだ」
アリスは、溢れる涙を拭おうともせず、幸せそうに微笑んだ。
「……はい。予約、やっと確定させてくれるんですね」
二人の唇が、今度は誰にも邪魔されることなく、静かに重なり合った。
ガレージを満たすのは、冷たい鉄の沈黙ではない。二つの鼓動が重なり、一つの旋律を奏でる、完璧な「共鳴」。
ハヤブサとミニ・クーパーが並ぶその聖域で、朔夜の新しい「規律」が、銀色の誓いとして刻まれた。
「……アリス、行くぞ。エレーナが騒ぎ出す前に、ピザを頼まないと」
「ふふ、そうですね。……これからは、三人で囲む食卓が、私たちの新しい『正解』ですね」
繋いだ手の熱を確かめながら、二人は階段を上がる。
運河を抜ける夜風が、新しい恋人たちの門出を祝うように、穏やかに倉庫を通り抜けていった。
「――はぁ、やっと終わった」
二人が階段を上がりきり、リビングのドアが閉まる音がした瞬間。
三階へと続く階段の陰から、一人の少女がひょいと顔を出した。
エレーナは、手に持っていたピザ屋のチラシを丸めて筒にすると、それを望遠鏡のようにしてガレージを見下ろした。
そこには、主を失ったばかりの作業灯の光と、並んで静まり返る銀色のハヤブサ、そしてアイランドブルーのミニ・クーパーが残されている。
「……予約確定、かぁ。サクヤも、お姉様も、時間かけすぎ」
エレーナは、口元を緩めて小さく笑った。
二階に上がるふりをして、彼女は手すりの隙間から一部始終を「鑑賞」していたのだ。朔夜の不器用な告白も、アリスの幸せそうな涙も、そしてようやく重なった二人の影も。
「でも、よかった。サクヤの音、さっきまであんなにガタガタだったのに、今はすごく落ち着いてる」
エレーナは、自分の胸に手を当てて、先ほどまでガレージを満たしていた「共鳴」の余韻を確かめる。アリスほど鋭敏ではないが、この家で暮らす彼女にも、二人の出す和音がどれほど完璧になったかは手に取るように分かった。
「……さてと! 予約が確定したなら、お祝いは特上のピザにしてもらわなきゃ。エキストラチーズ、三倍ね!」
エレーナはわざとらしく大きな足音を立てて、二階のリビングへと駆け出した。
これから始まる、少しだけ騒がしくて、最高に甘い「新しい日常」の幕開けを、誰よりも楽しみにしながら。




