封鎖された環状線(リング)
深夜のM25は、まるで現世から切り離された巨大なコンクリートの回廊のようだった。
本来ならば、ロンドンの物流を支える巨大なコンテナトラックや、家路を急ぐビジネスマンのセダンが絶え間なく行き交い、排気ガスと騒音が渦巻いているはずの全五車線のハイウェイ。それが今、王立怪異対策局の手配によって完全に沈黙している。
街灯のオレンジ色の光が、無人のアスファルトを等間隔に照らし出している。その光の下を通過するたび、朔夜のヘルメットのシールドには規則的な明滅が走り、視界を断続的に奪っていく。
「……現在地点、ジャンクション28付近。北東区間に進入。状況、オールクリア」
ヘルメット内のマイクに向かって、朔夜は感情を削ぎ落とした声で報告した。
ハンドルマウントに固定されたスマートフォンの画面には、スピードメーターと共に、局がリアルタイムで送信してくる広域霊子レーダーが投影されている。現在の速度、時速百二十マイル(約百九十キロ)。
一般公道であれば正気の沙汰ではない速度だが、周囲に比較対象となる他車が皆無なこの状況では、不思議と速度感が麻痺してくる。まるで、暗黒の宇宙空間を一人で浮遊しているかのような錯覚。聞こえるのは、風を切る激しい風切り音と、極限まで同調を高めた四気筒エンジンの、心臓の鼓動にも似た重厚なハミングだけだ。
『こちら本部、アビゲイルよ。サクヤ、聞こえる? 封鎖区間内に、あなた以外の「動体」を確認したわ。ジャンクション29手前、あなたの後方三マイル地点に、急激な霊的濃度の高まりを検知。……加速してる。冗談みたいなスピードよ』
「……三マイル。計算上、一分持たずに追いつかれるな」
朔夜はバックミラーを注視した。
右ミラーの金属製ステーには、アリスから託されたバイオリンの弦が、激しい走行風に煽られながらも解けることなく、一本の銀色の糸としてピンと張り詰めている。その細い線が、街灯の光を反射してチカチカと輝く。
その時、ミラーの奥、漆黒の闇の底に、ポツリと青白い火花のような光が灯った。
光は瞬きする間に巨大化し、凄まじい膨張を見せながら、朔夜の背後へと肉薄してくる。
「……来たか」
朔夜は上体をタンクへと伏せ、スロットルをさらに捻り込んだ。
リッターエンジンの回転数が跳ね上がり、タコメーターの針がレッドゾーンの領域へと踏み込んでいく。吸気ボックスから響く猛々しい吸気音が、ライダーの闘争心を煽る。
時速百四十マイル。時速百五十マイル。
風景はもはや意味をなさず、左右の防音壁は単なる灰色の流線へと化した。風圧は肉体的な暴力となって朔夜の首を後ろへと押し付け、わずかな姿勢の乱れが転倒即死亡へと繋がる「死の領域」へと突入する。
キィィィィィィィィン――!!
突如、ヘルメット越しに脳を直接刺すような、超高周波の異音が響き渡った。
それは金属が擦れ合う悲鳴であり、同時に、制御を失ったエンジンの断末魔でもあった。
ミラー越しに見える「青い光」が、朔夜のリアタイヤを今にも飲み込もうとしている。光の正体は、半透明の霧を纏った一台のバイク――いや、バイクの形をした「怨念の集合体」だった。
カウルは砕け散り、露出したエンジンブロックからは内臓のように無数のケーブルが垂れ下がっている。跨っている人影は、ボロボロのレーシングスーツを纏っているが、その輪郭は絶えずノイズのようにブレ続け、ヘルメットの奥にあるはずの顔は、空虚な闇が広がっているだけだった。
「……『音を聴かせろ』、か」
朔夜は、ミラーのステーで震える銀色の弦を見つめた。
その弦が、アリスが言った通り、激しい嵐の中でもその音を失わないように、朔夜の指先の感覚を極限まで鋭敏に研ぎ澄ませていく。
彼は左手をハンドルから離し、タンクバッグの横に備え付けた「特殊な符」の一枚に指をかけた。
分厚い和紙。蓮真が「兄さんの身を守るために」と、重い墨で念を込めて描いたその符は、この時速二百マイルに迫ろうとする暴力的な走行風の中でも、決して千切れることなく、朔夜の指に吸い付いた。
『ターゲットとの相対速度差、プラス三十マイル。接触まで……五秒、四、三……』
スマホのアラートが真っ赤に点滅する。
朔夜は左手に挟んだ符に自身の霊力を流し込み、それを愛車のガソリンタンクへと押し当てた。
「土御門流・神速法――接続」
瞬間、朔夜の駆るマシンの排気音が、物理的な衝撃波へと変質した。
エンジンの爆発エネルギーが符を介して術式へと変換され、バイクそのものが巨大な「破魔の共鳴器」と化す。
青い光を放つ亡霊ライダーが、朔夜のすぐ真横に並びかけた。
亡霊のバイクから放たれる凍てつくような冷気が、朔夜の防風カウルを白く凍らせていく。だが、朔夜は怯まない。彼はアリスから貰った弦が反射する光を道標にするように、亡霊の虚無の視線を見据え返した。
「時速二百マイルの向こう側に、答えなんてないぞ。……あるのは、プロが引く『境界線』だけだ」
二台のマシンは、深夜のM25でひと塊の光の矢となり、夜の深淵へと加速していく。
戦いは、まだ始まったばかりだった。




