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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第三章:ミッドナイト・ストリーム ―高速道路の亡霊と二百マイルの術式―
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封鎖された環状線(リング)

 深夜のM25は、まるで現世から切り離された巨大なコンクリートの回廊のようだった。

 本来ならば、ロンドンの物流を支える巨大なコンテナトラックや、家路を急ぐビジネスマンのセダンが絶え間なく行き交い、排気ガスと騒音が渦巻いているはずの全五車線のハイウェイ。それが今、王立怪異対策局ビューローの手配によって完全に沈黙している。

 街灯のオレンジ色の光が、無人のアスファルトを等間隔に照らし出している。その光の下を通過するたび、朔夜のヘルメットのシールドには規則的な明滅が走り、視界を断続的に奪っていく。

「……現在地点、ジャンクション28付近。北東区間に進入。状況、オールクリア」

 ヘルメット内のマイクに向かって、朔夜は感情を削ぎ落とした声で報告した。

 ハンドルマウントに固定されたスマートフォンの画面には、スピードメーターと共に、局がリアルタイムで送信してくる広域霊子レーダーが投影されている。現在の速度、時速百二十マイル(約百九十キロ)。

 一般公道であれば正気の沙汰ではない速度だが、周囲に比較対象となる他車が皆無なこの状況では、不思議と速度感が麻痺してくる。まるで、暗黒の宇宙空間を一人で浮遊しているかのような錯覚。聞こえるのは、風を切る激しい風切り音と、極限まで同調を高めた四気筒エンジンの、心臓の鼓動にも似た重厚なハミングだけだ。

『こちら本部、アビゲイルよ。サクヤ、聞こえる? 封鎖区間内に、あなた以外の「動体」を確認したわ。ジャンクション29手前、あなたの後方三マイル地点に、急激な霊的濃度の高まりを検知。……加速してる。冗談みたいなスピードよ』

「……三マイル。計算上、一分持たずに追いつかれるな」

 朔夜はバックミラーを注視した。

 右ミラーの金属製ステーには、アリスから託されたバイオリンの弦が、激しい走行風に煽られながらも解けることなく、一本の銀色の糸としてピンと張り詰めている。その細い線が、街灯の光を反射してチカチカと輝く。


 その時、ミラーの奥、漆黒の闇の底に、ポツリと青白い火花のような光が灯った。

 光は瞬きする間に巨大化し、凄まじい膨張を見せながら、朔夜の背後へと肉薄してくる。

「……来たか」

 朔夜は上体をタンクへと伏せ、スロットルをさらに捻り込んだ。

 リッターエンジンの回転数が跳ね上がり、タコメーターの針がレッドゾーンの領域へと踏み込んでいく。吸気ボックスから響く猛々しい吸気音が、ライダーの闘争心を煽る。

 時速百四十マイル。時速百五十マイル。

 風景はもはや意味をなさず、左右の防音壁は単なる灰色の流線へと化した。風圧は肉体的な暴力となって朔夜の首を後ろへと押し付け、わずかな姿勢の乱れが転倒即死亡へと繋がる「死の領域」へと突入する。


 キィィィィィィィィン――!!

 突如、ヘルメット越しに脳を直接刺すような、超高周波の異音が響き渡った。

 それは金属が擦れ合う悲鳴であり、同時に、制御を失ったエンジンの断末魔でもあった。

 ミラー越しに見える「青い光」が、朔夜のリアタイヤを今にも飲み込もうとしている。光の正体は、半透明の霧を纏った一台のバイク――いや、バイクの形をした「怨念の集合体」だった。

 カウルは砕け散り、露出したエンジンブロックからは内臓のように無数のケーブルが垂れ下がっている。跨っている人影は、ボロボロのレーシングスーツを纏っているが、その輪郭は絶えずノイズのようにブレ続け、ヘルメットの奥にあるはずの顔は、空虚な闇が広がっているだけだった。

「……『音を聴かせろ』、か」

 朔夜は、ミラーのステーで震える銀色の弦を見つめた。

 その弦が、アリスが言った通り、激しい嵐の中でもその音を失わないように、朔夜の指先の感覚を極限まで鋭敏に研ぎ澄ませていく。

 彼は左手をハンドルから離し、タンクバッグの横に備え付けた「特殊な符」の一枚に指をかけた。

 分厚い和紙。蓮真が「兄さんの身を守るために」と、重い墨で念を込めて描いたその符は、この時速二百マイルに迫ろうとする暴力的な走行風の中でも、決して千切れることなく、朔夜の指に吸い付いた。

『ターゲットとの相対速度差、プラス三十マイル。接触まで……五秒、四、三……』

 スマホのアラートが真っ赤に点滅する。

 朔夜は左手に挟んだ符に自身の霊力を流し込み、それを愛車のガソリンタンクへと押し当てた。

「土御門流・神速法――接続リンク

 瞬間、朔夜の駆るマシンの排気音が、物理的な衝撃波へと変質した。

 エンジンの爆発エネルギーが符を介して術式へと変換され、バイクそのものが巨大な「破魔の共鳴器」と化す。

 

 青い光を放つ亡霊ライダーが、朔夜のすぐ真横に並びかけた。

 亡霊のバイクから放たれる凍てつくような冷気が、朔夜の防風カウルを白く凍らせていく。だが、朔夜は怯まない。彼はアリスから貰った弦が反射する光を道標にするように、亡霊の虚無の視線を見据え返した。

「時速二百マイルの向こう側に、答えなんてないぞ。……あるのは、プロが引く『境界線』だけだ」

 二台のマシンは、深夜のM25でひと塊の光の矢となり、夜の深淵へと加速していく。

 戦いは、まだ始まったばかりだった。


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