摩擦係数の限界(デッド・ヒート)
M25の路面を叩くタイヤの摩擦熱が、夜の冷気と混ざり合い、陽炎のような歪みを生み出している。
時速百六十マイル(約二百五十七キロ)。
朔夜の視界は、もはや一点に収束する光のトンネルと化していた。ヘルメットを叩く風圧は、まるで巨大な巨人が頭を力任せに押し戻そうとするような凄まじい物理的質量を伴っている。
その真横。わずか数十センチの間隔を置いて、青い光を纏った亡霊ライダーが並走していた。
亡霊のマシンが放つ異様な高周波――「エンジンの泣き声」は、今や朔夜の耳だけでなく、骨の髄まで直接振動させていた。その振動が、あろうことか朔夜のマシンの電子制御系に干渉し、スマホのナビ画面を激しく乱す。
『サクヤ! 反応が乱れてるわ! ターゲットの霊的圧力が、あなたのバイクの火花を奪おうとしてる。このままだと、追い抜かれた瞬間にエンジンが――』
通信機越しのアビゲイルの悲鳴。
確かに、朔夜の足元で、愛車の鼓動が目に見えて弱まっていた。亡霊が放つ「停止の呪い」が、気筒内の爆発エネルギーを吸い取っているのだ。
「……計算通りだ」
朔夜は、強風に煽られながらも姿勢を一切崩さない。
彼は右ミラーのステーに巻き付けられた、アリスの銀色の弦を見つめた。
亡霊の放つ不快な振動が、その一本の弦に伝わり、キィィンと高い共鳴音を立てている。だが、その音は不思議と澄んでいた。アリスが言った通り、どんな嵐の中でも折れず、濁らず、自らの音を維持し続ける「名器の誇り」。
「聴け。これが『調律』の答えだ」
朔夜は左手で、タンクバッグに固定された最後の一枚――蓮真の符を掴んだ。
他の符よりも倍以上に厚く、大量の墨で描かれたその「重い」符。彼はそれを、ミラーのステーに巻き付けられた「アリスの弦」に直接接触させた。
瞬間、銀色の弦が熱を持ち、青白い火花を散らした。
アリスの「祈り」を宿した弦を媒体に、蓮真の「兄を想う」純粋な霊力が、朔夜のバイク全体へと一気に伝導する。
それは、合理主義的な朔夜の計算を遥かに超えた、異質なエネルギーの融合だった。
「土御門流・神速法――『鳴弦の儀』!」
朔夜がスロットルを全開に叩き込んだ。
失われかけていたエンジンの爆発力が、一気に沸点を超える。排気管から放たれたのは、ただの爆音ではない。蓮真の符が持つ重厚な圧力と、アリスの弦が奏でる鋭い高音が一つになった、破魔の咆哮だった。
ドォォォォォォォン!!
大気を引き裂くような衝撃波が、並走する亡霊ライダーを直撃した。
亡霊のバイクを形作っていた霧が、その凄まじい「音圧」によって霧散していく。亡霊は必死に速度を上げようと、もがき、絶叫した。だが、朔夜のマシンが放つ音の壁が、亡霊の「停止の呪い」を物理的に弾き返していた。
時速百八十マイル。時速百九十マイル。
ついに、メーターの針が「二百マイル(約三百二十キロ)」の大台に触れた。
極限の速度域。
そこでは、もはや亡霊も生者も関係ない。ただ「速さ」という純粋な法則だけが支配する世界。
朔夜は、自身の霊力を指先からアリスの弦へと流し込み、それを最後の「照準」とした。銀色の線が、亡霊のヘルメットの奥にある闇を、真っ直ぐに指し示している。
「最短距離で、引導を渡してやる」
朔夜は、手にしていた符を亡霊の胸元へ向けて弾いた。
通常なら風圧で即座に後方へ消えるはずの紙片が、アリスの弦が作り出した「真空の道」をなぞるように、亡霊の懐へと吸い込まれていく。
符が亡霊の身体に触れた瞬間――。
M25の静寂を、夜明け前の雷鳴のような音が、二度、三度と揺るがした。
亡霊のライダーは、自らが愛した「速度」の中に溶け込むように、一筋の青い光となって弾け飛んだ。
残されたのは、アスファルトの上に刻まれた長い、長いブレーキ痕と、急激に静まり返った夜の空気だけだった。
「……ターゲット、完全消滅」
朔夜は、ゆっくりとスロットルを戻した。
エンジンの回転数が下がり、高鳴っていた心臓の鼓動が、次第にロンドンの冷たい夜気に馴染んでいく。
ミラーのステーに目をやると、アリスから託された銀色の弦は、すべての役割を終えたかのように、パラリと解けて夜の闇へと消えていった。
手のひらに残ったのは、わずかな痺れと、アリスの弦が放っていた微かな熱の余韻。
「……非合理的だな。本当に」
朔夜は自嘲気味に呟きながら、そのまま一度も振り返ることなく、バイクを北へと走らせた。
目指すのは、この狂気のような熱を冷ますための、静かな、静かな海。




