夜明けのホワイト・クリフ
M25を包んでいた異常な霊気は、朝日が昇る前の冷たい風に洗われ、完全に霧散した。
後に残されたのは、どこまでも続く無機質なアスファルトの道と、遠くの森から聞こえ始めた鳥たちの微かな囀りだけだった。
局による封鎖が解除され、日常という名の「騒音」がこのハイウェイに戻ってくるまで、あと三十分。朔夜はジャンクションを抜け、ロンドンを背にしてひたすら東へと愛車を走らせた。
エンジンは先ほどの時速二百マイルを超える超高速戦闘の熱を蓄え、ニーグリップする太腿越しに、生き物のような力強い体温を伝えてくる。時速六十マイル。法定速度を守り、ただ流れる景色に身を任せるこの時間が、朔夜にとっての「本当の境界線」だった。アドレナリンに支配された「仕事」の世界から、個としての自分を取り戻すための、静かな儀式。
空が濃い藍色から、熟した果実のような薄紫へと溶け始める頃。
彼は目的地であるドーバーの北端、「白い崖」へと辿り着いた。
切り立った石灰岩の断崖。その眼下には、夜明け前のイングリッシュ・チャンネルが、鏡のように穏やかな海面を広げている。朔夜は誰もいない展望エリアの隅にバイクを止め、サイドスタンドを立てた。
ヘルメットを脱ぐと、汗ばんだ髪を冷たい海風が優しく撫でる。
「……計算通り、日の出には間に合ったな」
彼はエンジンの熱で温まったタンクバッグのサイドポケットを探り、アリスから渡された小さな包みを取り出した。
中には、彼女が丁寧に包んだティーバッグと、手のひらに収まるほど細身の、一五〇ミリリットルほどの小さなチタン製ボトルが入っている。
「……わざわざこれを用意するために、あんな時間に起きていたのか」
最小限の容量。だが、その中には彼女が夜中に沸かし、最適な温度で注いだ熱湯が、冷えることなく閉じ込められていた。魔法瓶の蓋を開けると、ふわりと立ち上がる湯気と共に、昨夜のガレージで香ったのと同じ、落ち着いたアールグレイの香りが広がった。
彼は携帯用のマグに湯を注ぎ、ティーバッグを浸した。温かな液体が、極限の世界で強張っていた五臓六腑をゆっくりと解きほぐしていく。
ふと視線を落とすと、右ミラーの金属製ステーが目に入った。
そこには、もう銀色の弦はない。時速三百キロを超える風圧と、凄まじい霊力伝導に耐えきれず、役目を終えて夜の闇に消えた「祈り」の跡。だが、その弦が結ばれていた場所だけが、他よりも少しだけ磨かれたように鈍く光っていた。
「……非合理的だ。本当に」
朔夜は海を眺めながら、自嘲気味に呟いた。
今回の成功報酬で、ガレージの家賃一年分と、喉から手が出るほど欲しかったチタンマフラーが手に入る。術者としての「効率」だけを考えれば、それで物語は完結しているはずだった。だが、今の彼の脳裏に浮かんでいるのは、高価なパーツの図面などではない。
出発前にアリスが浮かべた不安げな表情。そして、この後ガレージに戻った時に彼女が見せるであろう、安堵の笑顔だった。
蓮真の「重すぎる」符がなければ、あの風圧の中で術式を維持することはできなかった。
アリスの「折れない」弦がなければ、亡霊の呪いにアイドリングを止められ、今頃は自分も高速道路の一部になっていたかもしれない。
結局、自分一人の「合理性」だけでは、あの二百マイルの向こう側から無事に帰ってくることはできなかったのだ。その事実を認めることは、冷徹な術者としてのプライドを少しだけ削ったが、同時に、これまでに感じたことのない妙な充足感を彼に与えていた。
地平線の向こうから、太陽の端が顔を出した。
白い断崖が黄金色に染まり始め、夜の終わりを告げる。
朔夜は最後の一口を飲み干し、道具をタンクバッグへ仕舞うと、再びバイクのセルを回した。
エンジンは一発で始動し、清々しいほどに澄んだ排気音を響かせる。
「……さて。五分と言ったが、十分くらいなら付き合ってやってもいいか」
誰に聞かせるでもなくそう呟くと、彼はゆっくりとアクセルを開けた。
帰路はあえて高速道路を使わず、緑豊かなカントリーロードを選んで。
ガレージの隣で、温かいお茶を淹れて待っているはずの「非合理的な隣人」のもとへ。
朔夜の背中を、昇ったばかりの朝日が静かに、そして温かく押し出していった。




