契約恋人と、拒絶の残響
ロンドンの空は、時として残酷なほどに澄み渡る。
ベーカー街のガレージ。M25での激闘で手に入れた最高級のチタンマフラーを組み付け終えた朔夜は、その鈍く光る金属の肌をウエスで磨き上げていた。
エンジンに火を入れれば、かつてないほどに澄んだ排気音が響くはずだった。だが、今の朔夜の指先は、ミリ単位の調整を終えた満足感とは程遠い場所で、微かに迷うように止まっていた。
理由は、シャッターの向こう側から聞こえてくる「足音」だ。
規則正しく、それでいてどこか決意を秘めたような、アリスの靴音。
「……何の用だ。今日はもう、お茶を飲むような非効率な時間は残っていないぞ」
シャッターが開くより先に、朔夜は声をかけた。いつもの突き放すような口調。それは、相手に深入りさせないための、そして自分が傷つかないための防衛本能だった。
だが、現れたアリスの表情は、いつもの柔らかな微笑みではなかった。彼女の手に握られていたのは、一通の手紙と、古い向日葵の刺繍が施されたアンティークのブローチだった。
「ツチミカドさん、ごめんなさい。……でも、あなたにしか頼めないことがあるの」
アリスの声は震えていた。彼女の話を要約すれば、こうだ。田舎で厳格な生活を送る叔母が、ロンドンで独り身を貫くアリスを案じ、地元へ連れ戻して望まぬ結婚をさせるために明日やってくるという。アリスがこの街で調律師として生きていくためには、叔母に「自分には、この街で共に歩むべき信頼できるパートナーがいる」と信じ込ませるしかない。
「……私の、恋人のふりをしてほしいの。三日間だけでいいから」
静寂が、ガレージを支配した。リッターエンジンの冷却フィンが収縮する「キン」という小さな音が、妙に大きく響く。
「……正気か? 恋人のふりだと。……非効率の極みだ。俺にそんな真似ができると思うのか。俺の目を見ろ。これは人を愛でるための目じゃない。呪いを射抜くためのものだ」
朔夜はあえてアリスを鋭く睨みつけた。
日本にいた頃、その鋭すぎる目つきと愛想のなさ、そして大人顔負けの突出した能力を「不気味な異端児」と罵られ、一族の中で孤立していた朔夜にとって、世界は敵意に満ちた場所だった。そんな彼に、唯一、他意もなく分け隔てなく接してくれた女性がいた。彼女だけは信じられる、ここが自分の居場所になるかもしれない――そう願った淡い期待は、彼女が別の男の隣で幸せそうに微笑む姿を見た瞬間に、跡形もなく砕け散った。
彼女が悪かったわけではない。ただ、彼が「特別」を望んだ相手にとって、自分は数いる知人の一人に過ぎなかった。その絶望的な温度差。一方通行のまま行き場を失った想いは、彼の中に「自分を丸ごと受け入れてくれる人間など、この世のどこにも居ない」という強固な諦観を植え付けた。ロンドンへ渡ったのは、挑戦のためではない。誰一人自分を知らない場所で、透明な孤独として生きるためだった。
心臓の奥が、古傷に触れられたように疼く。自分は誰の「一番」にもなれず、誰の隣にも居場所を見つけられなかった男だ。そんな自分が、偽りであれ恋人の座に収まるなど、滑稽を通り越して不快ですらあった。
「いいえ。……私との約束を、一度だって破らなかったその目が、私は信じられるの」
アリスは怯まなかった。それどころか、一歩前に出て朔夜の汚れた作業着の袖を掴んだ。
「二百マイルの向こう側からでも、あなたは私との約束を守って帰ってきてくれた。楽器の音が濁った時も、あなたは冷たい言葉を言いながら、私の日常を守ってくれたわ。……お願い、ツチミカドさん。これは『仕事』じゃない。でも、私を助けて。あなたにしか、頼めないの」
アリスの手の温もりが、厚いライディングジャケット越しに伝わってくる。「あなたにしか頼めない」――その言葉が、朔夜の防壁を容易く突き破った。日本で誰からも必要とされず、透明人間のように扱われてきた彼にとって、その一言は呪いのように抗いがたい輝きを持っていた。
「……条件がある」
長い沈黙の後、朔夜は絞り出すように言った。
「俺は、お前の理想通りの男にはなれない。愛を囁くことも、華やかなエスコートも不可能だ。……ただ、お前の隣に座って、不機嫌そうに黙っていることしかできんぞ。それでもいいなら、その役を一時的に引き受けよう」
「ええ。……それがいいの。それが、『私が見つけた、不器用で誠実な人』としてのあなただから」
アリスが、少しだけ泣きそうな顔で微笑んだ。朔夜は大きくため息をつき、手に持っていたウエスを乱暴に工具箱へ投げ入れた。
「……チッ。最悪の依頼だ。……明日までに、その叔母という人間の情報をすべて寄越せ。それと……俺のタキシードだ。どこで調達してくるつもりだ?」
「ふふ、大丈夫。……実は、もう用意してあるの」
アリスがガレージの隅に置いていた大きなバッグを持ち上げた。そこには、いつものオイルの匂いには到底似つかわしくない、仕立ての良い漆黒のジャケットが収められていた。
その日の夜。ガレージの中では、世にも奇妙な「調律」が始まった。バイクの整備台の上に置かれたスマホからは、アリスが選んだクラシック音楽が流れ、朔夜はアリスの指示に従い、慣れないエスコートの歩法を練習させられていた。
「ツチミカドさん、背中が丸まっているわ。もっと堂々と、私をリードして」
「……リードも何もあるか。重心移動はバイクと同じだ。アウト・オブ・リーンでバランスを取る方が合理的だろう」
「ダンスにそんな用語持ち出さないで!」
文句を言いながらも、朔夜はアリスの手を、壊れ物を扱うような慎重さで握っていた。ふわりと漂う、アリスの髪の香り。狭いガレージの中、二人の影が複雑に交差する。
ふと、アリスの胸元で光る向日葵のブローチが、朔夜の目に留まった。アリスが叔母から事前に送られてきたという、そのアンティーク。一見すれば可憐な装飾品だが、朔夜の鋭すぎる目は、その黄金色の花弁の奥に、澱んだ「微かな闇」が、まるで意思を持つ寄生虫のように蠢いているのを見逃さなかった。
(……このブローチ、何かがおかしい。ただの古い品じゃない)
だが、それを指摘する前に、アリスが慣れないヒールに足を取られて転びそうになり、朔夜はその身体を咄嗟に抱きとめた。密着する体温。腕の中に収まる、驚くほど小さな肩。
「……あ」
アリスが顔を赤らめ、視線を泳がせる。朔夜は、自分の心拍数がレッドゾーンを超えて加速していくのを感じていた。日本で捨ててきたはずの、泥臭い人間感情。自分を誰も受け入れてくれないという凍てついた確信が、彼女の体温によって、ほんの少しだけ、音を立てて軋み始めていた。
「……明日の朝、八時だ。それまでに、この非効率な格好に慣れておく」
乱暴に彼女を離し、朔夜は背を向けた。鏡の中に映る自分は、見たこともないほどに動揺し、そして、自分でも認めがたいほどに「誰かの隣」を求めている顔をしていた。
明日、ベーカー街に「叔母」という名の嵐がやってくる。そして、それ以上に恐ろしい「向日葵の呪い」が、静かにその花弁を開こうとしていた。




