ベーカー街の不慣れなエスコート
翌朝、午前八時。
ベーカー街の裏路地には、霧を含んだ冷たい風が吹き抜けていた。
ガレージの重いシャッターが上がる。そこから現れたのは、いつものライディングジャケットを纏った「術者」ではなく、漆黒のタキシードに身を包んだ一人の「紳士」――あるいは、その皮を被った不機嫌極まりない狼だった。
「……信じられん。首元が詰まって、肺の換気効率が最悪だ。こんな布の塊を纏って平然としていられる連中の気が知れん」
朔夜は、首元のボウタイを不器用な指先で弄りながら毒づいた。
鏡の前で三十分以上格闘したが、結局のところ、彼の持つ「鋭すぎる眼差し」は、最高級の生地をもってしても隠しきれるものではなかった。むしろ、正装することでその異端な鋭さが際立ち、どこか「手負いの貴族」のような危うい色気すら漂わせている。
「そんなことないわ、ツチミカドさん。……とても、素敵よ」
ガレージの前で待っていたアリスが、小さく息を呑んで微笑んだ。
彼女自身も、今日はいつものエプロン姿ではなく、落ち着いた紺色のドレスを纏っている。その胸元には、昨夜朔夜が懸念を抱いた「向日葵のブローチ」が、朝の乏しい光を反射して黄金色に輝いていた。
「……余計な世辞はいい。時間だ。叔母とやらは、どこに現れる」
出発の間際、朔夜はガレージの奥に鎮座する愛車、『ハヤブサ』に一瞥をくれた。
猛禽類を彷彿とさせるその滑らかな曲線と、圧倒的な出力を秘めたエンジンの塊。本来なら、その背に跨って風を切り裂いているはずの時間だ。これから向かうのは、二百マイルの世界よりも遥かに複雑怪奇な「親族」という名の戦場。彼は大きく溜息をつくと、アリスが差し出した腕に、ぎこちなく自分の腕を添えた。
パディントン駅の喧騒の中で、その人物はすぐに分かった。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、古風なクローシュハットを被った老婦人。アリスの叔母、マーガレットだ。彼女はタクシーから降り立つなり、鋭い眼光で周囲を睥睨し、駆け寄るアリスを一瞥した。
「……ロンドンの空気は相変わらず汚れているわね、アリス。こんな場所に長居すれば、あなたの耳も心も濁ってしまうわ」
開口一番の辛辣な言葉。アリスが身を縮めるのを、朔夜は冷徹な観察眼で見つめていた。
(なるほど、支配欲の塊か。日本の一族にも、こういうタイプは腐るほどいたな)
同族嫌悪に近い感情が、朔夜の内に小さな火を灯した。
「お久しぶりです、マーガレット叔母様。……ご紹介します。こちらが、以前手紙で話した……私の婚約者の、サクヤ・ツチミカドです」
アリスが、震える声で嘘を吐く。
マーガレットの視線が、値踏みするように朔夜へ向けられた。
「サクヤ、ツチミカド……。東洋の血筋かしら。アリス、あなたの選ぶ相手ですから、さぞかし『音の整った』方なのでしょうね?」
その言葉には、明らかな侮蔑と疑念が混じっていた。
朔夜は、日本での記憶がフラッシュバックするのを感じた。
――「その目は何だ。誰のことも信じていない、忌々しい目だ」
――「お前のような異端を、誰が受け入れるというのだ」
かつて、たった一人だけ「居場所」を期待させてくれた女性も、結局は自分ではない別の男の隣を選んだ。自分を丸ごと受け入れてくれる人間など、この世には存在しない。そう確信し、孤独の殻に閉じこもることで自分を守ってきた。
だが今、自分の腕には、必死に指先を震わせながら縋っているアリスがいる。
たとえこれが三日限りの「嘘」の芝居だとしても、今この瞬間、自分を頼り、自分の隣を必要としているのは、他ならぬこの女性だ。
「……お初にお目に掛かります、マーガレット夫人」
朔夜は、昨夜ガレージで練習した通りの角度で、完璧な会釈をした。
その声は低く、どこか底知れない重みを湛えている。
「ロンドンの空気が濁っているというのは、同感です。……ですが、アリスの奏でる音は、その濁りすらも調律し、美しさに変える力がある。私はその『音』に惹かれ、彼女の傍にいることを決めました。……異論は、認めません」
最後の一句は、彼の本音だった。
マーガレットは一瞬、その圧に押されたように目を見開いたが、すぐに鼻で笑った。
「口の達者な男ね。……いいわ、三日間。あなたたちが本当に『共鳴』しているのか、この耳で確かめさせてもらうわよ」
ホテルへ向かう車中、朔夜は異変に気付いた。
アリスが、不自然なほどに静かだった。
「……アリス? 気分でも悪いのか」
声をかけると、彼女はハッと目を見開いたが、その瞳はどこか焦点が合っておらず、微かに潤んでいる。
彼女の胸元。黄金色の「向日葵のブローチ」が、車内の僅かな光を吸い込むように、どろりと輝いていた。
(……やはり、あのブローチか。叔母が持ってきた呪物……いや、付喪神の類か)
マーガレットは隣で、満足げに窓の外を眺めている。彼女自身がこの呪いを知っているのか、それとも無意識に持ち込んだのかは分からない。だが、アリスの生命力が、あの向日葵の花弁に少しずつ吸い取られているのは明白だった。
「……少し、疲れが出ただけです。……大丈夫、サクヤさん」
アリスが微笑もうとするが、その瞼は重そうに落ちてくる。
朔夜はタキシードの袖の中で、密かに指を組み、小さな術式を練り始めた。
叔母の厳しい監視の目と、恋人のふりという滑稽な芝居。
その裏側で、朔夜はアリスの魂を守るための、隠密なる「除霊」を開始しなければならなかった。
「……非効率だな。本当に」
心臓の鼓動が早まる。
誰にも受け入れられないと思っていた男が、今、嘘の仮面を被りながら、自分を頼る唯一の女性を救うために、最も苦手な「愛ある恋人」を演じようとしていた。




