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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第四章:アンティーク・サンフラワー ―向日葵のブローチと、小さな嘘の代償―
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ベーカー街の不慣れなエスコート

 翌朝、午前八時。

 ベーカー街の裏路地には、霧を含んだ冷たい風が吹き抜けていた。

 ガレージの重いシャッターが上がる。そこから現れたのは、いつものライディングジャケットを纏った「術者」ではなく、漆黒のタキシードに身を包んだ一人の「紳士」――あるいは、その皮を被った不機嫌極まりない狼だった。


「……信じられん。首元が詰まって、肺の換気効率が最悪だ。こんな布の塊を纏って平然としていられる連中の気が知れん」

 朔夜は、首元のボウタイを不器用な指先で弄りながら毒づいた。

 鏡の前で三十分以上格闘したが、結局のところ、彼の持つ「鋭すぎる眼差し」は、最高級の生地をもってしても隠しきれるものではなかった。むしろ、正装することでその異端な鋭さが際立ち、どこか「手負いの貴族」のような危うい色気すら漂わせている。

「そんなことないわ、ツチミカドさん。……とても、素敵よ」

 ガレージの前で待っていたアリスが、小さく息を呑んで微笑んだ。

 彼女自身も、今日はいつものエプロン姿ではなく、落ち着いた紺色のドレスを纏っている。その胸元には、昨夜朔夜が懸念を抱いた「向日葵のブローチ」が、朝の乏しい光を反射して黄金色に輝いていた。

「……余計な世辞はいい。時間だ。叔母とやらは、どこに現れる」

 出発の間際、朔夜はガレージの奥に鎮座する愛車、『ハヤブサ』に一瞥をくれた。

 猛禽類を彷彿とさせるその滑らかな曲線と、圧倒的な出力を秘めたエンジンの塊。本来なら、その背に跨って風を切り裂いているはずの時間だ。これから向かうのは、二百マイルの世界よりも遥かに複雑怪奇な「親族」という名の戦場。彼は大きく溜息をつくと、アリスが差し出した腕に、ぎこちなく自分の腕を添えた。


 パディントン駅の喧騒の中で、その人物はすぐに分かった。

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、古風なクローシュハットを被った老婦人。アリスの叔母、マーガレットだ。彼女はタクシーから降り立つなり、鋭い眼光で周囲を睥睨し、駆け寄るアリスを一瞥した。

「……ロンドンの空気は相変わらず汚れているわね、アリス。こんな場所に長居すれば、あなたの耳も心も濁ってしまうわ」

 開口一番の辛辣な言葉。アリスが身を縮めるのを、朔夜は冷徹な観察眼で見つめていた。

 (なるほど、支配欲の塊か。日本の一族にも、こういうタイプは腐るほどいたな)

 同族嫌悪に近い感情が、朔夜の内に小さな火を灯した。

「お久しぶりです、マーガレット叔母様。……ご紹介します。こちらが、以前手紙で話した……私の婚約者の、サクヤ・ツチミカドです」

 アリスが、震える声で嘘を吐く。

 マーガレットの視線が、値踏みするように朔夜へ向けられた。

「サクヤ、ツチミカド……。東洋の血筋かしら。アリス、あなたの選ぶ相手ですから、さぞかし『音の整った』方なのでしょうね?」

 その言葉には、明らかな侮蔑と疑念が混じっていた。

 朔夜は、日本での記憶がフラッシュバックするのを感じた。


 ――「その目は何だ。誰のことも信じていない、忌々しい目だ」

 ――「お前のような異端を、誰が受け入れるというのだ」


 かつて、たった一人だけ「居場所」を期待させてくれた女性も、結局は自分ではない別の男の隣を選んだ。自分を丸ごと受け入れてくれる人間など、この世には存在しない。そう確信し、孤独の殻に閉じこもることで自分を守ってきた。

 だが今、自分の腕には、必死に指先を震わせながら縋っているアリスがいる。

 たとえこれが三日限りの「嘘」の芝居だとしても、今この瞬間、自分を頼り、自分の隣を必要としているのは、他ならぬこの女性だ。

「……お初にお目に掛かります、マーガレット夫人」

 朔夜は、昨夜ガレージで練習した通りの角度で、完璧な会釈をした。

 その声は低く、どこか底知れない重みを湛えている。

「ロンドンの空気が濁っているというのは、同感です。……ですが、アリスの奏でる音は、その濁りすらも調律し、美しさに変える力がある。私はその『音』に惹かれ、彼女の傍にいることを決めました。……異論は、認めません」

 最後の一句は、彼の本音だった。

 マーガレットは一瞬、その圧に押されたように目を見開いたが、すぐに鼻で笑った。

「口の達者な男ね。……いいわ、三日間。あなたたちが本当に『共鳴』しているのか、この耳で確かめさせてもらうわよ」


 ホテルへ向かう車中、朔夜は異変に気付いた。

 アリスが、不自然なほどに静かだった。

「……アリス? 気分でも悪いのか」

 声をかけると、彼女はハッと目を見開いたが、その瞳はどこか焦点が合っておらず、微かに潤んでいる。

 彼女の胸元。黄金色の「向日葵のブローチ」が、車内の僅かな光を吸い込むように、どろりと輝いていた。

(……やはり、あのブローチか。叔母が持ってきた呪物……いや、付喪神の類か)

 マーガレットは隣で、満足げに窓の外を眺めている。彼女自身がこの呪いを知っているのか、それとも無意識に持ち込んだのかは分からない。だが、アリスの生命力が、あの向日葵の花弁に少しずつ吸い取られているのは明白だった。

「……少し、疲れが出ただけです。……大丈夫、サクヤさん」

 アリスが微笑もうとするが、その瞼は重そうに落ちてくる。

 朔夜はタキシードの袖の中で、密かに指を組み、小さな術式を練り始めた。

 叔母の厳しい監視の目と、恋人のふりという滑稽な芝居。

 その裏側で、朔夜はアリスの魂を守るための、隠密なる「除霊」を開始しなければならなかった。

「……非効率だな。本当に」

 心臓の鼓動が早まる。

 誰にも受け入れられないと思っていた男が、今、嘘の仮面を被りながら、自分を頼る唯一の女性を救うために、最も苦手な「愛ある恋人」を演じようとしていた。

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