午後の紅茶と、眠れる向日葵
サボイ・ホテルのティールーム。
豪奢なシャンデリアが放つ光が、銀のティーセットに反射して眩しい。本来なら優雅な午後のひとときだが、朔夜にとっては針のむしろだった。
正面に座るマーガレット叔母の視線は、一挙手一投足を見逃すまいと鷹のように鋭い。だが、今の朔夜にとって最大の障壁は叔母の追求ではなく、隣に座るアリスの異変だった。
「……アリス、このスコーンを頂戴。あなたが焼いたものよりは『音』が硬いけれど、ロンドンではこれが最高級なのでしょう?」
マーガレットの言葉に、アリスは返事をしない。
彼女はカップを手に持ったまま、カクンと首を傾げていた。深い眠りの淵に引きずり込まれているのは明白だった。
「アリス? 聞いているの?」
「……失礼。彼女は昨夜、私の仕事の都合で少し夜更かしをさせてしまいましてね。少し疲れているようです」
朔夜は咄嗟にアリスの肩を抱き寄せ、その身体を支えた。
マーガレットの眉が不快そうに跳ね上がる。
「はしたないわ。外でそんなに密着するなんて。アリス、淑女として……」
「淑女である前に、彼女は人間だ。休息が必要なのは道理でしょう」
冷徹に言い放ちながら、朔夜はテーブルの下で密かに左手を動かしていた。
彼の指はアリスのドレスの裾を掴むふりをして、隠し持っていた「符」を彼女の肌に近い裏地に貼り付ける。
(チッ……このブローチ、想像以上に根が深い)
アリスの胸元で咲く向日葵のブローチ。その花弁の奥で、黄金色の影が蠢いている。それは持ち主の「孤独」や「不安」を糧にして、幸福な夢を見せながら魂を吸い尽くす、東洋で言うところの『夢魔』に近いものが宿っていた。
マーガレットが無意識に選んだにしては、あまりにも出来過ぎている。しかし、マーガレットからは術者特有の嫌な雰囲気や悪意は感じない。
(叔母自身が術者ではない。なら、長年放置されて闇落ちした付喪神の類か、もしくは誰かが悪意を持って送り込んだ物か……。とりあえず今は、こいつを黙らせるのが先決だ)
朔夜は右手でティーカップを持ち、優雅に一口啜るふりをしながら、口の中で微かに呪文を紡いだ。
「――土御門流・反閇。夢路を断ち、現を繋げ」
瞬間、朔夜の指先から放たれた霊力が、アリスの身体を巡る呪いの回路を逆流する。
だが、向日葵の呪いも強固だった。アリスの意識は戻らず、それどころか彼女は幸せそうに微笑みながら、朔夜の胸にコテリと頭を預けてしまった。
「まあ! 呆れた。サクヤさん、あなた彼女を甘やかしすぎではありませんか?」
「……彼女が私に甘えるのは、私がそれを受け入れると決めているからです。何か問題でも?」
心臓が爆発しそうなほど高鳴っていた。
かつて、自分を唯一受け入れてくれた女性は、別の男の隣で、自分には決して見せないようなこの「甘えた笑顔」を見せていた。その光景に胸を締め付けられた記憶が、今、腕の中にあるアリスの重みによって上書きされていく。
(嘘だ。これは芝居だ。……だが)
朔夜は、アリスの胸元のブローチに指を伸ばした。恋人がアクセサリーを整える、親密な仕草を装って。
バチリ、と静電気が走ったような衝撃が朔夜の指を襲う。
向日葵の花弁が、拒絶するように赤黒く変色した。
「……夫人。アリスを少し休ませたい。庭園へ連れ出しても?」
「ええ、いいわ。その間に、私はあなたの身辺調査の結果をもう一度精査させてもらうから」
マーガレットの冷たい声を背に、朔夜は半分眠った状態のアリスを支え、ティールームを後にした。
ホテルの静かな中庭。冬の枯れ木が並ぶベンチに彼女を座らせると、朔夜はタキシードのジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「……おい、アリス。起きろ。……このままじゃ、本当にあっち側へ連れて行かれるぞ」
彼はアリスの頬を軽く叩いた。
向日葵のブローチが、最後の手向けと言わんばかりに、猛烈な「眠りの香り」を放ち始める。
朔夜の視界も、一瞬ぐらりと揺れた。
「……サクヤ……さん……?」
アリスが、虚ろな目でようやく瞼を開いた。
だが、その瞳に映っているのは朔夜ではない。彼女が見ているのは、向日葵が咲き誇る、寂寥とした幻の原っぱだった。
「綺麗……。ここなら、誰も私を縛らない……。調律も、仕事も……叔母様も……」
「アリス! 幻を見るな! 現実の音を聴け!」
朔夜は、彼女の胸元のブローチを力任せに掴み取った。
手のひらを焼くような激痛。
彼はそのまま、ブローチを石畳の床に叩きつけ、自身の全体重を乗せた革靴で――ハヤブサのシフトチェンジを行う時のように、鋭く、正確に踏み抜いた。
バキリ、と嫌な音がして、黄金の金細工が砕け散る。
中から黒い煙が立ち上り、冬の風にさらわれて消えていった。
「……はっ!」
アリスが大きく息を吐き出し、正気を取り戻した。
彼女の瞳に、ようやく目の前の不機嫌そうな正装の男が映り込む。
「……ツチミカド、さん? 私、何を……」
「……居眠りだ。非効率なことこの上ない。叔母の前で失態を演じるところだったぞ」
朔夜は冷たく突き放したが、その手はまだ、震えるアリスの肩をしっかりと支えていた。
砕けたブローチの残骸を見つめながら、朔夜は悟った。
この「恋人のふり」という嘘が、アリスを守るための唯一の盾になっていることを。
そして自分自身も、この嘘の盾の裏側で、かつて得られなかった「誰かの隣」という熱を、必死に守ろうとしていることを。
「……戻るぞ。まだ、芝居は終わっていない」
彼はアリスの肩から自分のジャケットを回収すると、それを無造作に羽織り直した。




