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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第四章:アンティーク・サンフラワー ―向日葵のブローチと、小さな嘘の代償―
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午後の紅茶と、眠れる向日葵

 サボイ・ホテルのティールーム。

 豪奢なシャンデリアが放つ光が、銀のティーセットに反射して眩しい。本来なら優雅な午後のひとときだが、朔夜にとっては針のむしろだった。

 正面に座るマーガレット叔母の視線は、一挙手一投足を見逃すまいと鷹のように鋭い。だが、今の朔夜にとって最大の障壁は叔母の追求ではなく、隣に座るアリスの異変だった。

「……アリス、このスコーンを頂戴。あなたが焼いたものよりは『音』が硬いけれど、ロンドンではこれが最高級なのでしょう?」

 マーガレットの言葉に、アリスは返事をしない。

 彼女はカップを手に持ったまま、カクンと首を傾げていた。深い眠りの淵に引きずり込まれているのは明白だった。

「アリス? 聞いているの?」

「……失礼。彼女は昨夜、私の仕事の都合で少し夜更かしをさせてしまいましてね。少し疲れているようです」

 朔夜は咄嗟にアリスの肩を抱き寄せ、その身体を支えた。

 マーガレットの眉が不快そうに跳ね上がる。

「はしたないわ。外でそんなに密着するなんて。アリス、淑女として……」

「淑女である前に、彼女は人間だ。休息が必要なのは道理でしょう」

 冷徹に言い放ちながら、朔夜はテーブルの下で密かに左手を動かしていた。

 彼の指はアリスのドレスの裾を掴むふりをして、隠し持っていた「符」を彼女の肌に近い裏地に貼り付ける。

(チッ……このブローチ、想像以上に根が深い)

 アリスの胸元で咲く向日葵のブローチ。その花弁の奥で、黄金色の影が蠢いている。それは持ち主の「孤独」や「不安」を糧にして、幸福な夢を見せながら魂を吸い尽くす、東洋で言うところの『夢魔』に近いものが宿っていた。

 マーガレットが無意識に選んだにしては、あまりにも出来過ぎている。しかし、マーガレットからは術者特有の嫌な雰囲気や悪意は感じない。

(叔母自身が術者ではない。なら、長年放置されて闇落ちした付喪神の類か、もしくは誰かが悪意を持って送り込んだ物か……。とりあえず今は、こいつを黙らせるのが先決だ)

 朔夜は右手でティーカップを持ち、優雅に一口啜るふりをしながら、口の中で微かに呪文を紡いだ。

「――土御門流・反閇へんぱい。夢路を断ち、うつつを繋げ」

 瞬間、朔夜の指先から放たれた霊力が、アリスの身体を巡る呪いの回路を逆流する。


 だが、向日葵の呪いも強固だった。アリスの意識は戻らず、それどころか彼女は幸せそうに微笑みながら、朔夜の胸にコテリと頭を預けてしまった。

「まあ! 呆れた。サクヤさん、あなた彼女を甘やかしすぎではありませんか?」

「……彼女が私に甘えるのは、私がそれを受け入れると決めているからです。何か問題でも?」

 心臓が爆発しそうなほど高鳴っていた。

 かつて、自分を唯一受け入れてくれた女性は、別の男の隣で、自分には決して見せないようなこの「甘えた笑顔」を見せていた。その光景に胸を締め付けられた記憶が、今、腕の中にあるアリスの重みによって上書きされていく。

(嘘だ。これは芝居だ。……だが)

 朔夜は、アリスの胸元のブローチに指を伸ばした。恋人がアクセサリーを整える、親密な仕草を装って。

 

 バチリ、と静電気が走ったような衝撃が朔夜の指を襲う。

 向日葵の花弁が、拒絶するように赤黒く変色した。

 

「……夫人。アリスを少し休ませたい。庭園へ連れ出しても?」

「ええ、いいわ。その間に、私はあなたの身辺調査の結果をもう一度精査させてもらうから」

 マーガレットの冷たい声を背に、朔夜は半分眠った状態のアリスを支え、ティールームを後にした。

 ホテルの静かな中庭。冬の枯れ木が並ぶベンチに彼女を座らせると、朔夜はタキシードのジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけた。

「……おい、アリス。起きろ。……このままじゃ、本当にあっち側へ連れて行かれるぞ」

 彼はアリスの頬を軽く叩いた。

 向日葵のブローチが、最後の手向けと言わんばかりに、猛烈な「眠りの香り」を放ち始める。

 朔夜の視界も、一瞬ぐらりと揺れた。

「……サクヤ……さん……?」

 アリスが、虚ろな目でようやく瞼を開いた。

 だが、その瞳に映っているのは朔夜ではない。彼女が見ているのは、向日葵が咲き誇る、寂寥とした幻の原っぱだった。

「綺麗……。ここなら、誰も私を縛らない……。調律も、仕事も……叔母様も……」

「アリス! 幻を見るな! 現実の音を聴け!」

 朔夜は、彼女の胸元のブローチを力任せに掴み取った。

 手のひらを焼くような激痛。

 彼はそのまま、ブローチを石畳の床に叩きつけ、自身の全体重を乗せた革靴で――ハヤブサのシフトチェンジを行う時のように、鋭く、正確に踏み抜いた。

 バキリ、と嫌な音がして、黄金の金細工が砕け散る。

 中から黒い煙が立ち上り、冬の風にさらわれて消えていった。


「……はっ!」

 アリスが大きく息を吐き出し、正気を取り戻した。

 彼女の瞳に、ようやく目の前の不機嫌そうな正装の男が映り込む。

「……ツチミカド、さん? 私、何を……」

「……居眠りだ。非効率なことこの上ない。叔母の前で失態を演じるところだったぞ」

 朔夜は冷たく突き放したが、その手はまだ、震えるアリスの肩をしっかりと支えていた。

 砕けたブローチの残骸を見つめながら、朔夜は悟った。

 この「恋人のふり」という嘘が、アリスを守るための唯一の盾になっていることを。

 そして自分自身も、この嘘の盾の裏側で、かつて得られなかった「誰かの隣」という熱を、必死に守ろうとしていることを。

「……戻るぞ。まだ、芝居は終わっていない」

 彼はアリスの肩から自分のジャケットを回収すると、それを無造作に羽織り直した。

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